第24話 ただの普通の女の子
ようやく……ようやく追いついた。
月光の下で儚く崩れ落ちているレインを見つけた時、胸が張り裂けそうなくらいだった。
その美しい肢体を返り血が覆い尽くし、凄惨な有様だったが、生きている。
——生きていてくれた。
その声を聞くだけで、彼女の顔を見ただけで。
まだ何も終わっていないのに……それでも報われた気分になる。
心底ホッとして、気がつけば、オレは笑っていた。気をぬくと、この場にへたり込んでしまうくらいには嬉しかった。
「……ばか、だ。本当にばかだな……」レインは、薄い笑みを浮かべながら、「何をどう考えたら、こんなところにまで来ようと思うんだ……」
どうしようもない時に思わず笑ってしまうような、そんな表情で。
「……今の自分がどういう状況なのか、知っているのか?」
先ほどの取り乱したレインはもういない。聞く者が痛々しく感じるような、ある種あか抜けた声で……問うた。
「知ってるさ。クラウド王が死んだことも、その最後の命令が殿を務めることで、それに逆らえないってことも、全部」
落ち着き払ったオレの返答に、彼女の頰がこわばる。
「……全て、知っているんだな」
「そうだ」
その小さくかすれた声を、静かに肯定する。
対してレインは、・いつもの表情と似て非なる表情で・、
「ヒロは……この短時間で一体どこまで把握して……」
「うちの上司は噂好きだからな。なんでも知ってるんだよ」
「烈風の魔女(ブラスト・ウィッチ)か……。底の見えない女だ」いまいましいとばかりに、レインは言葉を吐き出す。「……それで、魔女にそそのかされて、別れの挨拶でもしに来たのか? 随分と律儀なことだな」
何かを諦めたような遠い口調で吐き出される言葉に、オレは強く言った。
「言っただろ。お前を助けに来たんだ」
「…………自分は、つまらない冗談が嫌いだ」
乾いた笑みを浮かべながら俯いて、レインはそう呟く。
「冗談なんかじゃない」
反射的に返した言葉に、え? とレインが顔を上げる。
「冗談なんかじゃねえよ」
そう……冗談なんて笑えるものだけで十分だから。
「あの雨の日に、オレはお前を助けると誓ったんだ」
覚えがあるだろうその言葉に、レインは大きく肩を震わせながら、
「ばか、言うな……。前に言っただろう。あと一回でも命令に背けば……自分は死ぬ」
彼女は己の定められた運命を、搾り尽くすように語る。
「だったら、答えなんてもう決まっている。座して死を待つか、命令に従って死ぬかなんて。ここで自分がレムナンティアを足止めすれば、王国軍の敗走の時間を稼げる。
ヒロも、ヒロの仲間も……、無事に生きて帰ることができるかもしれない」
決して無駄死になんかじゃない、と彼女の言葉は語っていた。
「死神と呼ばれたどうしようもない化物が、最後の最後に味方を守って散る……。とても美しいと思わないか?」
だんだんと、妙に明るい声になっていくレイン。そんなどうしようもない自虐を口走る彼女の姿を、オレは見たくなくて。
たしかに誰もが、無駄死になんかじゃないと言うだろう。でも、そんな結末は絶対に認めない。
彼女が肯定しても、オレはそれを否定する。
それに、それにだ。
「もう、自分に嘘をつくのはやめろよ。お前が言ったんだろ。『たすけて』って」
「……ッ!」
レインは『死にたくない』と、あの雨の日に言った。
しかし、今のレインは『死ぬしかない』と言う。
そうなった経緯が全てわかるわけではない。理解できてはいない。ただ、『仲間』の意見を聞き、推論を立て、対策をして、ここに来た。
あのときレインが流した涙を、拭うために。
「…………。ああ、言った。言ったが……だから、なんなんだ。自分も皆も助かって最高のハッピーエンド——そんな都合の良いことあるわけがない……」
「いいや。オレは、お前の体に刻まれた呪いを止める方法を、知ってる」
彼女の顔が、ほんの少しだけ驚いたような表情になる。
「足りない頭だけど、必死に考えたんだよ」
姐さんは、『レインを騙せ』と言った。
契約魔法ごと騙して、無理やりにでもレインを連れて帰ってこい、と。
言い訳のような、こじつけのような子供じみた理論。でもそれが、契約魔法へ対抗するための有効打になりうる、と。
「方法が……あるのか? どんな、どんな方法だ?」
レインは親にすがりつく子供のような声をあげる。
レインの問いに対して…………オレは苦渋の答えを返した。
「……今は言えない」
「は……?」
その答えにレインは、気の抜けた声を発する。続けて、怒りと呼べる感情が彼女の中で沸き上がるのが容易にわかってしまう。
「なんだ、それは……めちゃくちゃじゃないか……! 気休めなど聞きたくない!」
「その方法を言ったら、お前は否定すると思うから」
「では、どうすればいい……⁉︎」オレの煮え切らない態度に、レインは激昂して、「助ける方法はあるけれど、助けられる本人には言えない? 否定されるから……? 話にならない! それで、何を信じろと言うんだ……」
レインの言い分はもっともだ。無茶なことを言っていることは理解している。
でも、伝えてしまったら、彼女は絶対に止めようとするから。
「信じられなくたっていい。お前がなんと言おうと、何を思おうと、オレの気持ちは変わらない。——絶対に助ける」
だから、御託を並べるのはここまでだ。
言葉で伝えるのが不可能なら、行動で示すしかない。
覚悟を決め、前に進もうとして……、
「——できるわけ、ない……ッ! 」
彼女は叫ぶ。——痛烈に。
「無理だ……! それとも何か? 自分の代わりにおまえが死んでくれるとでも——」
…………そこで、はたと気がついたかのように。
レインの顔が色を失う。
「まさ、か————」そして、信じられないものでも見るような目で、「————・ヒロが・、・レムナンティアと戦うつもりなのか・?」
レインは震えた声を聞いて……オレの頬が動いた。
「なんだよ…………やっぱり、レインには隠しきれなかったか」
否定は、しなかった。
口元を、緩ませることしかできなかった。
本当に鋭い感をしているなと思う。……いや、呪いを受けた当人なのだ。自らでその呪縛から逃れる方法を詮索しないはずがない。一人ではどうしようもなかっただけで、本当はレインも知っていたのかもしれない。
オレが、姐さんに教わった、唯一の解決策。
けどすぐに、何か違和感を覚えた。そして考えたら、案外すぐに気づけた。
レインを戦場から引きずり出したところで、・根本的な問題は解決していない・のだ、と。
仮にレインに、『リンゴを拾え』という命令が下ったとする。当然、レインは拾おうとするだろう。でも、その前に他の誰かが拾ってしまった場合。
それは、「命令に従わなかったのではなく、従えなかった」ということになる……が、結果的には命令通りになった。命令した者がどう思おうと、これでおしまい。
でも、このままレインを連れ帰ったところで、・レムナンティア軍が足止めできるわけじゃない・。
つまり、代わりがいるのだ。
レインの代わりに、一〇万の大軍の相手をしてやろうという、とんでもないお人好しが。
「……やはり、おかしい。一〇万の敵がいるんだ。そんなことをしたら、だって、……死ぬだろ」
「そうかもな」
「怖くは、ないのか?」
「怖えよ。怖くて、震えが止まらない。今にも逃げ出したいぐらいだぜ、まったく」
だったら……、とレインは震えた声で、
「なぜだ? どうして、自分なんかを救うためだけにヒロは……命をかけることができるんだ?」
——レインにはわからないのだろう。
たしかにレインとオレは「友達」で、二年とはいえど、毎日のように時を過ごした仲だ。
友達というものが、助け合う関係だというくらいは理解しているはずだ。でも、それが、己の身を犠牲にしてまで救おうとするほどの関係なのか……きっとレインはそんなことを考えている。
間違いない。だってこいつ純粋すぎるし。オレの一〇〇倍くらいはな。
「わからない……。友達だから? それとも危ないところを助けたことがあるから? その恩を返すために、今度は自分を助けるというのか?」
ただただ疑問を投げかけるレインに対して。
なんでわからないんだよ、と今更ながら本気で疑問に思ったりもして。
「……。答え、て。答えてくれ。本当に、わからないんだ……」
泣きそうな、声がする。
そして、こういうのはやっぱり男から言うべきなんだな、と思う。
だから。
「——オレはレインを、愛してる」
言った。
あの雨の日に伝えられなかった、たった一つの言葉。
結局のところ、ただそれだけが理由だったのだ。
「…………あい、してる……?」
「ああ。愛してるんだ。ずっと、前から。愛してる」
考えてみれば簡単な話。
レインだって、きっとどこかでオレのほのかな想いには気づいていたはずだ。でも、彼女が見てきた世界を考えれば、『愛してる』を言葉の上では理解できても、心から理解できるとは思えない。『愛してる』というたったそれだけの理由で、人が人のために命をかけれるかなんて信じられるはずがない。
けどそれならば、信じさせてやればいいのだ。
女の子との距離の測り方なんてわからない不器用な性格だけれども、レイン自身にどう思われようとも、証明してやればいい。
オレがレインを——『愛してる』ということを。
「自分は……わ、私は……、」
「……レインは前にさ、涙は嬉しい時に流すものだって言ったよな。——なら、・それ・が答えなんじゃないのか?」
レインは、泣いていた。
彼女の瞳からは、透明な軌跡を描いて雫がこぼれていた。
そう。
結局は、それが全ての答えだったのだ。
「誰かに……愛してる、と言われたのは——初めてだ」
その震えた声は、恐怖の象徴として名を轟かせた死神なんかじゃない。
ただの普通の、女の子の声だった。
女の子は、囁くような声で、問う。
「……ヒロは、ずっと私のことが好きだったのか?」
「ああ。ずっと——好きだった」
揺るがない声で、オレは再び気持ちを告げる。
その声から逃げるように、彼女は視線を落として、
「……自分は、触れるだけで人を殺せるような化物なのに」
「何度も言わせるんじゃねえよ。お前は化物なんかじゃない。ただの普通の女の子だ」
「ヒロがいくら否定しても……他人は自分をそう呼ぶ」
「そんなことねえよ。オレの親友も、オレの元上司も、レインが忌々しいと言った魔女だって、レインを化物だなんて思ってない」
——世界は彼女が思ってるよりは、ほんの少しだけ優しい。
「……嘘」
「嘘じゃねえ」
「……嘘、だ」
「嘘じゃねえって言ってんだろ!」
そう——。
オレは違う。
レインがどれだけ自分を『化物』だとうそぶいたとしても、オレは否定し続ける。
ただの普通の女の子として見続けてやる。
「…………。そんな物好きな奴が、いるはずが……」
「ここにいる。——オレがいる。そもそも逆なんだよ。レインの魅力がわからない周りの奴らが馬鹿なんだ、きっと」
その大胆な言葉に、レインが思わず面食らっている中、オレは、揺らがない意志で言葉を紡いでいく。
「オレは知ってるぜ。お前が誰よりも、心優しい奴だってことを」
初陣での絶望に、仲間の死に打ちひしがれるオレに、道を指し示してくれた。人の心を持たない「化物」が、どうして人の心に寄り添えるだろうか。
「…………声が、聞こえる。自分が殺めてきた相手の、怨嗟の声が。数多の命を奪った自分が、惨めったらしく生きあがいていいはずがない……」
「——胸に刻み付けて忘れるな。そう教えてくれたのはレインだろ? 死んだ人たちはもう帰ってこないけど……死なせた人の分、今度は同じ数だけ人を救うしかねえんだ。それが、オレたちにできる唯一の償いだと思う」
そもそも、彼女は本気で忘れているのかもしれないが、彼女の今とっている行動こそが、万の王国兵の命を救っているのだ。
「……あれは、戯言だ。感情に任せて言い放った、自分が言ってはいけない言葉だ。こんな嘘にまみれた醜い自分のどこに、魅力を感じるというんだ……」
——そんなわけねえだろ、と、思う。
だからこそ、言ってやる。
「——全部だよ。いつもクールだけどたまに見せる笑った顔が好きだ。拗ねて眉をひそめてるところが好きだ。からかってくる時に口角がちょっと上がるところが好きだ。流れるような黒髪が好きだ。普段は鋭いけれど時折柔らかくなる目が好きだ。口は悪いけど涼やかな声が好きだ。
ただ話してるだけで、名前を呼んでくれるだけで——他のことなんてどうでもいいくらいに、嬉しい」
抗うだけ、無駄にしてやる。
女々しいレインの質問に、すらすら想いを返してやる。
よくもまあ、こんな恥ずかしい台詞を堂々と喋れたものだと、自分でも思う。
口下手のくせに、張り切りすぎたなと思う。
「まだ足りないか?」
「……いい。もう、わかったから」
「お前が思ってる以上に、オレはお前のことが好きなんだ」
「……っ」
これはいわば、レインがかけた呪いだ。
彼女の告げた言葉は、全てキサラギ・ヒロへと刻み付けられているのだ。
「癪だけど父さんも言ってたしな。男は惚れた女の前じゃ、かっこつけないといけない、って。——それが今なんだ」
「…………だから、ヒロは、かっこつけて死のうと?」
「別に、死ぬために行くんじゃねえよ。……オレだって死ぬのは嫌だ」
そう口にした自分の声は……かすかに震えていた。
「お前に下された命令は、ノールエスト軍の撤退の殿を務めること。要は、レムナンティア軍を足止めすればいいんだろ?」レインを心配させまいと、オレは精一杯の虚勢を張って、「なら単純な話だ。敵将の首の一つでも取れば、全体が動揺して進軍速度は遅くなる。死ぬまで戦う必要なんて、ねえんだよ。時期を見て離脱すればいい」
お互い戦場に立つ者なのだ。彼女だって、軍の総指揮官が呑気に前線で戦っているわけではないことくらい知っているはずだ。
それでも、オレは、・さも容易いことのように・喋る。
「そんな、簡単に……」
「やってみせる。——お前にこれ以上、剣は握らせない」
「…………やはり、優しい。ヒロは」
「誰にでもじゃねえ。レインだからだ」
はっきりとレインの顔を見て、告げる。もう、震えは止まっていた。
「……ヒロの気持ちは、伝わった」それでもやっぱり彼女の声は、不自然なくらいに震えていて、「しかしだからといって……行かせられない。自分を…………あ、あいしてくれた人を——」
死なせたくない、と。
「…………そうかよ。だったら、こうしようぜ」
でも、それでも。
おとぎ話に出てくるような“英雄”は、言うはずだ。
「必ず、生きて帰る。——オレとお前の“約束”だ」
レインは呆れたように一言、ばか、と言った。
そうして、ようやく立ちあがろうとする。半分まで体を起こしたところでパキッと情けない音が鳴り、レインはよろける。
「おい、大丈夫か⁉︎」
「問題ない。少し足にきただけ……」
慌てて腰を落とすオレを手で制して、彼女は即座に体勢を立て直す。
「いまさら意地、張るなよ」
「問題ないと言っている。……それよりも、ひとつだけ……頼みがある」
……なんだよ、とオレは短く答える。
流れで袖をちょこんと掴まれていることには驚いたが、彼女はそのままオレをまっすぐに見据えて、少しばかり小さな声で……言った。
「私のことが本当に好き、なのだったら——形に、してほしい」
そんな、なんだか恥ずかしがるような言葉に、思わず聞き返した。
「形?」
「言葉だけじゃ伝わらないこともある。……わからないの?」
「……いや、わかる」
鈍感だとよく言われるオレでも、さすがに気づく。
きっと、この結末は初めから決まっていたのだろう。
レインの『表情』を見て、そう思えた。
——想いを伝えられるのは言葉だけじゃない。
決意を固めて、レインに歩み寄る。近づいたせいではっきりと見える少女の頬は、いつにも増して薄赤い。
伸ばした手で、レインの漆黒の髪を優しく撫でた。彼女は、少しびっくりしたような顔をして。
いつもの強気な態度は、今や見る影もない。そんな脆さをも内包した少女を、とても愛しく思う。
ずっと、会いたかった。
ずっと、触れたかった。
守りたかったものは、いま、自分のすぐそばにある。
永遠に思えるほど、緩やかに時間が流れているような気がする。
こんな時間がずっと続けばいいな、とおぼろげに思う。
けど、ほんのゆっくりとだが、時は進む。
自然と、顔が、愛しい人へと近づいていく。
——・目線は、入れ替わっている・。
そして、唇を重ねた。
初めての口づけは、淡い涙の味がした。
レインと交わしたそれは、恐ろしくぎこちないものだったけれど。
彼女の温もりを確かに感じ取った。
どちらともなく唇が離れて、レインの肩を抱いていた腕を緩めると、否応なく互いの目が合った。直後、オレは胸を突き飛ばされたが、ただでさえ紅をさしていた彼女の頬が余計に赤くなっているのはわかった。
「ば……っ、いき、なり……何をする……!」
「え、いや、だって……形にしろって言ったじゃねえか」
文句を言われたことで、よりこちらも恥ずかしくなってしまう。
「ばか! もうちょっと抱きしめるとか、いろいろなことがあるだろう!」
「じゃあ、どのタイミングならいいってんだよ」
「そ、そういうのは、心の準備というものがだな……。これだから…………まあ、仕方がない。ヒロが女の気持ちをわからないことは知っていたが……」
脈絡なく呟いたレインは、そう言いつつも、やはり耳まで紅色に熱っていて……。
わかりやすい……本当にわかりやすい反応に、思わず苦笑してしまう。けど、こういう顔を見せてくれることが何よりも嬉しい。
「その気持ちとやらを知るためにも、オレは死なねえよ」
保証なんて何もない、ただの口約束。レインが気にかけるのは当たり前。だけど、ひどく自分勝手だとしても、言わずにはいられなかった。
「ヒロは……ずるい」
「かもな」
否定はしない。
……と、レインは小さく息をつくと、気合いを入れるかのように己の拳を軽く握りしめる。その瞬間、彼女の中では何かが決まっていたのだろうか。
そして、それは……。
「——ヒロ」
名前を、呼ばれる。
透き通った、甘く澄んだ声で。
そして直後に、再び唇を塞がれてしまう。ふわりと、柔らかい感触を感じる。
「どう? 自分の方が上手くできていた?」
そう尋ねられるまま頷くヒロに————屈託無く、レインは笑う。
…………やっと見れた。
本当の意味で初めて見た、レインの心からの笑顔。
——それを知っているのは、世界できっとヒロだけだ。
「———、————」
そしてゆっくりと、言の葉を紡いだレイン。思わず、歓喜に震える。
だって、その言葉だけで、オレはいくらでも戦えるだろうから。そう。これは、まぎれもない本心。それだけの力が彼女の言葉にはあって…………。
——嘘だ。戦いたくなんかねえ……。もっと一緒にいたいよ。
こうまでなっても心の奥では、どこか怖がっている自分がいた。笑える。
でもだからこそ……彼女の体を抱きしめた。レインの体が強張るのがわかる。けど、拒まれることはなかった。
続いて……、ドンッ! と鈍い音が響き——レインは崩れ落ちた。
いや、・崩れ落ちさせた・。
間髪入れず、力の抜けたレインの体支える。そのまま抱きかかえながら地面に座り込んだ。
「……ッ」
無理やりにでも最後まで笑顔を続けていたが、ついに感情が決壊した。
やっぱり笑えなかった。無理で、限界だった。
……とはいえ、この場所に来るまでにすでに決断していたこと。レインとの対話がどう転じるかわからないため、取れる手段は全てとる覚悟をしていた。
そのうちの一つとして。
剣の柄で、レインのみぞおちを殴って……気絶させることも考えていた。
幸いにも、目の前の少女に散々叩きのめされた経験があったので、人体のどこにどう衝撃を加えればどうなるかについては、これでも結構詳しい。
「レイン……」
細い体を、やはり優しく抱きしめながら、かすれるような声で愛しい少女の名前を呼んだ。
当たり前だが、答えはない。
ひとしきり涙を流した後、彼女の体をゆっくりと地面に横たえる。
オレは、まだ生きたい……。死にたくない。
でも現実は——その幻想を結ばせることはできないと語っていた。
「ほんと、やってくれるよな。だから聞かなかったってのに。そんなこと言われたら……覚悟が鈍るだろ……」
交わした約束と、レインの最後の言葉を思い出しながら、彼女の特徴である黒く美しい髪を梳くように撫でると、そう独りごちる。
その愛おしい顔をしばらく眺めていたが、すぐに歯を食いしばって未練を断ち切る。
……断ち切ろうとする。
レインのことだからいつ目覚めるかわからないし、感傷に浸ってる場合ではない。
懐から『転移水晶(ムーブ・クリスタル)』を取り出し、さっそく唱えようとするが、あることに引っかかる。
それは、彼女の首輪——。
支配を象徴するかのように強く絡みついている代物を、取ってやりたくなった。
まだレインを救えたわけじゃないけれど、それでも今、彼女を救ったという証が欲しくなったのだ。
レインの手に『転移水晶(ムーブ・クリスタル)』を握らせると、ご立派に固定されている首輪を、根本から強引にこじ開けた。主人が死亡しているためか、はたまたそういう機能など元からないのか、あまりにも呆気ないくらいにロックは外れる。……その奥にあったものを見て、胸の中にまた熱いものが込み上げてきた。
取り外した首輪を、少し迷った後に少女の空いた手に持たせると、最後に、少女の頬を優しく撫でて。
オレは、唱えた。
「ムーブ・オルトリア」
パリン、という音と同時——砕けた石の中から青い光が溢れる。光はレインの体を包み込み、ひときわ大きく輝いたのちに徐々に収縮して……消滅する。彼女の転移が完了したことが儚く知らされた。
転移先は、今現在、オレが寝泊まりしている兵舎。あそこならば、まず安心だ。騙し討ちに彼女がどう思うかなんて二つも三つも予想がつくが、気にしても仕方がない。
・傷つけてでも・守ると決めたのだ。
……だから。
ゆっくりと、立ち上がる。
これでオレに残されたものは、レインとの淡く切ない記憶。
そして————迫り来る一〇万の帝国軍のみとなった。
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