第19話 たすけて〈cry〉



 ゴートタウン西門前——王国軍の総攻撃により一旦は退却したものの、街の奪還に際して、再び舞い戻ってきた帝国兵が続々と集まっている。

 その集団の一番前には、焦げ茶色の髪をウェーブさせた男の姿があった。

 名をジョセフ。ゴートタウンに送られたもう一人の将軍である彼は、「作戦」を知っていたので、街が襲われた時点でさっさと退却していたのだ。


「まったく、ライオスの奴め。死に急いだな。『敵を騙すにはまず味方から』という言葉もあるというのに」


 帝国最強の男と謳われたライオス将軍の戦死という「甚大な被害」は出たものの、作戦は面白いほどに成功した。その鍵は、情報の徹底的な管理だ。 

 帝王は命じていた。

 前線で作戦を知る者は「十将軍のみ」と。

 正義感の強いライオスは、何も知らない部下たちを意味なく死なせた自分を許せなかったようだ。そのような感傷は、ジョセフにはとても理解できないものだった。なぜなら彼は、無駄死にというものが大嫌いだったからだ。


 ……と、彼の目が、赤々と燃ゆる西門の方角から近いてくる人影を捉えた。


「将軍、誰か近づいてきます!」


「もう見えている。そう焦るな」


 副官の発言に鬱陶しそうに言葉を返し、目を細めて人影を見据えるジョセフ。

 それは、一部の隙もなく黒衣を纏った少女。

 すでに抜剣して臨戦態勢だ。


「なんでこんなところに女が一人で……」


 思わず漏れたであろう部下の呟きに、ジョセフは呆れた口調で、


「噂と特徴を考えればわかるだろう。奴がノールエストの死神だ」


「……! あれが、死神……。しかし、いくら強いとはいえ、この人数にたった一人で向かってくるなんて……正気なのか……?」


「迷いはなさそうだがな」


 なんの遮蔽物もない平原を駆ける少女は、さすがに目立つ。部隊の前方にいる兵士の全員が、彼女の存在には気づいていた。これならば、いつでも迎え撃てる。


「……ずいぶんと舐められたものだ。——総員、構えろ!」


 前衛にいた銃撃隊が、ジョセフの号令と同時に射線を合わせる。

 彼我の距離はおおよそで三〇メートル。その距離感の一人を五〇の銃撃で襲うのだから、蜂の巣になってもおかしくない。

 だが、やりすぎるくらいがちょうどいいとジョセフは判断していた。幾度となく戦況を覆してきた死神に対して、常識など通用しないという確信によるものだ。


 が、間髪入れずに発砲を命じようとした瞬間——少女は加速した。その場の誰もが、一瞬にして彼女が消えたのではないかと錯覚するほどに……。

 気づけばジョセフの目の前には、黒い影があった。

 彼は生存本能だけで、鋭すぎる剣撃に反応する。勢いよく打ち付けたお互いの刃が、耳をつんざく金属音を上げながら弾けると、大きく退く。

 誰も防ぐことができないと言われた死神の攻撃を凌いだ、その事実。

 これは千載一遇の好機だった。


「今だ! ——撃て!」


 一瞬だけ遅れるも、突貫してきた少女に向かって帝国兵の黒い銃口が一斉に突きつけられ——その直後、相反する白い閃光がジョセフの腹を貫いた。


「ぐっ……!」


 下手に剣を斬り結ばずに、閃光を放った少女は、思いっきり後ろに飛び退のいた。銃弾は彼女に擦りすらせずに空を切ってゆく。

 一方のジョセフは、死の魔法を腹部に食らったのだ。即死はせずとも死は避けられない。一拍置いてやってきた激痛に彼は崩れ落ちる。


「が、は……! ……化物め。デタラメすぎる……!」


「敵を前に、油断しすぎだ」


 銃撃後のため、なす術のない帝国兵に斬りかかりながら、すれ違いざまに少女は呟く。

 ……もちろんジョセフは油断などしていなかった。

 培ってきた経験により、突発的な戦闘にも冷静に指揮をとり、たとえたった一人を仕留めるだけとはいえ緊張を解くことは一切なかった。


 ただ、ただ、敵が規格外すぎただけで。


(——俺も、死に急いだということか…………?)


 口の中だけでそう呟いた直後、ジョセフの意識は永遠に消えた。


 そして……。

 指揮が崩壊した「兵士にんげん」たちと、カマを振り上げた「少女しにがみ」の——地獄の演舞が始まった。



   ***



 さて。

 もう一つだけ、話をしよう。

 死神の話だ。



 死神——レインは王女として生まれた。

 いや、レインではない。彼女に与えられた名は、スレイ。

「殺し」を冠する、残酷な名前。

 父にも母にも似つかない、感情が昂った際に変化する漆黒の髪と紅い瞳は、少女を見るもの全てを畏怖させた。

 彼女は美しく、妖しかった。

 彼女が、物心ついた時に読んだ本の中の子供は、親に愛され、友人と共に遊び、日々を幸せそうに過ごしていたのに。

 けれど、彼女にとって、それは空想上の出来事でしかなくて。

 いつ頃からか、気がつけば悪夢にうなされるようになっていた。

 殴られ、蹴られ、人として扱われずに無理やり—されている日々の夢。

 空を飛ぶ舟と散りゆく機兵、哀しげに笑う男の子が—される夢。

 それらはとても鮮明で、肉体の痛みがダイレクトに伝わってくるほど現実的で。

 頭が、狂いそうになる。叫び出しそうになる。

 正気を保てていられたのは、適当に与えられていた娯楽である英雄譚やおとぎ話を、自由に読むことができたからだ。作中の登場人物たちに憧れ、冒険の日々を夢想することが、彼女に許された唯一の幸福だった。

 ……だって。

 ただの夢だから大丈夫だと笑い飛ばしてくれる父親も、安心して眠りなさいとあやしてくれる母もいなかったのだから。


 誰も……誰もいなかった。



 ——彼女の人生を辿るには、ノールエストとレムナンティアの戦争が始まる、一七年前に遡らなければならない。

 その年、ノールエストで代替わりがあった。

 先代の王が早々にこの世を去り、弱冠二〇歳の王子が即位したのが全ての始まりである。

 先代の王は、民を想う善政を敷いており、国民からの信頼が非常に高かった。さらに、他国からの信頼も厚く、大陸の端の小国ながら、大国であるレムナンティアとも友好関係を築けるほどに、政略も上手かった。

 しかし先王が急死したため、一人息子であったクラウドが急遽即位することになったというわけだ。

 クラウドに対して帝国側は、かの国王の子息ならばと、これからの友好の証として、彼と第三皇女との縁談を持ちかける。優秀だった先王に恥じぬ高潔さと、誰もが羨む美貌を併せ持ち、国民からの支持も厚かったクラウドへの縁談は、誰しもが納得するものだった。

 ——だが彼の「裏の顔」は、嗜虐的であった。彼の性格は天性のものであり、心優しく誇り高くあった父親の言葉は、彼には一切届いてはいなかった。

 ただ、彼はどうしようもないほど残忍であったが、狡猾でもあった。即位して初めての会談で、自分に求められた「役割」を完璧にこなして見せたのだ。

 そうして驚くほどすんなりと話はまとまり(……これが後の戦争のきっかけとなるのだが)、帝国第三皇女ミラ・レムナンティアは、クラウドに嫁ぐこととなる。

 流麗な銀髪と金色の瞳の、美しい女性だった。

 突然持ち上がった縁談であるものの、ミラの亡き婚約相手を思い起こさせるほど紳士的なクラウドの「表の顔」は、そんな彼女の不安を打ち消すには十分な効果があった。


 ただ、いざ王城で暮らし始めた数日後、あっさりとクラウドは「裏の顔」をあらわにする。

 何も知らずに眠っているミラを拘束し、軟禁したのだ。……高貴な身分の人間を痛ぶりたいという、彼の残虐な性癖による衝動からだった。

 目を覚ました彼女が目にしたのは、端正な顔に恍惚の表情を浮かべ、拷問・尋問用の鞭を持つクラウド。彼の碧い瞳はどこまでも濁り歪んでいた。

 全身を縄で縛られ後ろ手に拘束されたミラは、一夜まるごと鞭で打たれ続ける。突如豹変した、これから生涯を共にする伴侶であり、理想の王であった男に、彼女は訳もわからずいたぶられ、戸惑い泣き叫ぶことしかできない。

 国内の行事ごとでは、王女として国民に顔見せすることも少なくはないため、わかりやすい顔や手への避けられていたが、服で隠せる部位の全てに無数の痛々しい痣が残った。

 ようやく日が昇った頃、泣きはらした彼女の顎を持ち上げ、それまでの暴虐ぶりからは考えられないほど甘く優しい声で……彼は言った。


「私に従属しろ。そして、私にされたことを口外するな」


 その瞬間——明確な「命令」がミアの脳に刻まれた。

 クラウドの「言葉」による契約魔法だ。

 ひとたび契約を交わせば、いついかなる時でも、どちらかが死ぬまで履行され続けるという、悪魔のような魔法。

 契約するにも無条件とはいかないが、その条件とは対象者が精神的に不安定になっていること。今まで受けたことのない恥辱と痛みに晒されたミラに、抗う術はなかった。

 それから始まるは——「奴隷」としての日々。

 初めのうちは肉体を痛めつけることを主とした拷問が多くあったが、日を追うにつれ、徐々に性的なものも増えていき、彼女は体と心を犯され続けた。


 この世の邪悪を溜め込んだような、二年が経ち——ついにミラは子を孕む。


 ただし日頃の仕打ちもあって、心身ともに追い詰められた彼女は、出産を無事に行えるかわからないほど、みるみると衰弱していく。国民には重篤な病に侵されたと発表し、国民もまたそれを信じた。

 やがて、危ぶまれていた出産を迎え……どうにかが誕生する。

 クラウドと反し、我が子への愛情だけで出産まで生き抜いたミラは、とある名前だけを残して静かに息を引き取る。

 だがクラウドは、母親からの唯一贈り物である名前を、当然のように赤子に名付けることはしなかった。

 代わりに、スレイという「通称」が与えられる。

 なぜ、「殺す」などと物騒な意味の名前が付けたのか、クラウド王以外の誰も知らない。

 ただ、名付けた当の本人の、感情を殺せる人間に育ってほしいという、子供につけるには残酷すぎる答えだけが闇に消え去っていた。

 ミラの死に関しての帝国との折衝もあり、スレイに対しては基本的に無関心を貫いていたクラウドだったが、スレイが五歳になった頃。

 スレイにとてつもない「力」が宿っていることに気づく。

 きっかけは、くだらない遊興の時間だった。

 クラウドは定期的に、王宮の広場で小規模ながら見世物を開催していた。

 腕っ節に自信がある王国兵士を、かのアドベントで捕らえてきた異形ヴァリアと戦わせるという、なんとも血の気の多い催しを楽しんでいたのだ。

 その過程で狼系異形ヴァリア——ジャック・ウルフが闘技場を囲った柵を飛び出し、たまたま観戦していたスレイの元へ飛びかかった。普通、王女ともあらば護衛の一人でも付いていそうなものだが、王宮での彼女の扱いなんて御察しの通りだ。

 その場に居合わせた誰しもが、少女の悲惨な最期を悟ったが、次の瞬間。皆の目に映ったのは静かに生き絶えたジャック・ウルフと、腰が抜けたのか、ぺたんと座り込むスレイだけだった。

 これを目の当たりにした、存外に頭の切れるクラウドは、ありえない状況に未知の魔法の可能性を考え、宮廷魔法使にスレイの身体を徹底的に調べさせる。

 わからないことが多い魔法分野は常に研究の日々だ。そのとっさの思いつきは、彼にとって法外な結果をもたらすことになる。


 ——結論から言えば、スレイには魔力特性が

 しかしそのうち一つは、魂がどうのこうのと言う話だったが、何の変化もないため、彼女の頭の中では魔法のイメージを正しく創り出せなかったのだろう。

 それでも、前例のない事象に自分でも不思議なくらい興味を惹かれていたクラウドは、さまざまな実験をスレイに行う。ほぼ同じ状況を複数にわたって再現し、検証を進めていったのちに、仮説が立てられた。

 ——彼女の身に宿るもう一つの力は、、だった。

 仮説を決定づけるための最後の実験は、合法的に殺してもいい人間——すなわち死刑囚と相対させ、彼らを殺させることである。

 それこそがクラウドの理想の王政に必要なもの。


 そして——。

 死刑執行人の代わりを滞りなく遂行することで、スレイの力は証明される。

 この力をうまく使えば、さらに国を操りやすくなる、とクラウドが邪悪な野望を抱いたのはこの瞬間だ。

 だが、力を制御できねば自分の身を滅ぼすともしれないと考えたクラウドは、自身が誇る契約魔法でスレイを隷従させた。

 まだ右も左もわからない実の娘に、死の恐怖による支配を強いたのだ。

 その後、都合のいい道具に仕立て上げるため、ミアと同じく国民には病死と発表して、おざなりに葬儀まで上げて、スレイを

 これがスレイの、絶望の序曲——。



「力」が発覚して間も無く。

 彼女は特殊な成長薬を投与される。子供のか弱い体格では、そもそも「訓練」に耐えれるかどうかわからないが故の処置だった。

 その結果、実年齢に見合わない数年先の成長した頭脳と体格を手に入れたスレイは、基礎的な戦闘訓練を強制させられた。幼い少女にやらせるべきではない、辛く苦しい訓練だった。

 を受けた彼女の初めての任務は、国に反発する貴族の暗殺。後に『死神』として戦場を駆けることとなる少女の初仕事は、それはそれはうまくいった。

 スレイの魔法——いや、「魔術」と呼べるほど世の理から外れた力だと、死体になんの痕跡も残らない。


 したがって、ただの不審死(大抵が心臓発作という見方に落ち着く)として処理されてしまうため証拠が出ないし、幾多の「頼りない目」がある公共の場での凶行。見た目ただの幼児なので怪しまれることは絶対にない。

 政治的な謀殺に彼女は使い尽くされた。

 スレイは血を見ても、だんだんと何も感じなくなっていった……。

 しかして、この少女の一番の不幸は、戦いにおける「才能」があったということだろう。

 異質な魔法だけでなく、彼女の「剣才」は、天才と呼べる領域をはるかに超えていた。一騎当千を誇る、救国の“英雄”としての資質すら、持ってしまっていたのだ。

 スレイが、「殺す」ことに対してすら何の感慨も抱かなくなった頃には、彼女の表情と呼べるものは死んでいて。

 さらには、から、その存在は王宮でも秘密裏にされており、知っているのは国の上層部を除けば、戦闘訓練を施す教官のみと、その存在も死んでいるようなもので。

 だから彼女の知る大人は、事務的な教鞭を取る教官たちと、何も知らされていない最低限の世話をするための侍女しかおらず(過去のスレイを知る侍女たちは、皆辞めさせられた)、まともな道徳教育も受けずに育つ。

 そんな聞くに堪えないほどの凄惨な経験は、少女の心を狂わすには十分すぎた。

 それでもなお、スレイが生きあがいたのは、自分が戦うために生まれてきたのではないと、信じたかったからである。


 ……それに。

 どんな絶望的な状況にも希望はあるものらしい。 

 無理のないことだが、侍女たちからすれば得体の知れない素性の子供であるスレイは、あまりにもずさんな対人関係も相まって、侍女らとはなかなか折り合いがつかずにいた。

 そんな折、四人目の侍女が「辞退」した直後に——彼女は王宮を訪れたのだ。



 ある日。

 与えられた、王宮の端の一室で——。


「私はレイス。あなたの名前は?」


「…………」


「うーん、まあいいわ。今日からよろしく。……ふふ、恥ずかしがり屋さんなのね?」


 目の前に立つ、たおやかな女性は優しく語りかけてくる。

 持ち上げた髪を下に折り返すという特徴的な髪をした人物だった。青いリボンタイと赤い紐のリボンが、とても似合う女性だった。

 もともと彼女はとある貴族家で働いていており、評判もすこぶる良かったため、その実力を買われて王宮に勤め始めた、という経歴だと聞いた。新参者にもかかわらず、スレイのことを任されたのは、やはり優秀だったからなのだろう。

 最初は、正直なんの期待もしていなかった。むしろ裏があるのではないかと勘ぐり、警戒すらしていた。そんな「怯え」に対し、レイスが初めてとった行動は————スレイをそっと抱きしめることだった。


「……え?」 


「そんな悲しそうな顔しないで。私にはあなたがどんな理由で、王宮にいるのかも知らないし、深く詮索するつもりもないわ」裏返った声をあげるスレイに、彼女は頬をピタッとくっつけて、「けどね? たぶん、あなたには『温もり』が必要だと思う。だから、私を本当のお姉さんだと思ってくれると嬉しい」


 それはただの言葉だ。

 けどそんな言葉すら、生まれてから誰にもかけられたことがなくて。


「あ……」 


 気づけば、スレイの眦がどんどん熱くなる。

 でも、泣けない。

 だって、それは、お前にとって必要のないものだと教えられていたから。


「あのね。涙は悲しいときじゃなくて、嬉しいときに流すものなの。——だから、今あなたが嬉しいのなら、思いっきり泣いていいのよ?」


 ようやく……すうっと、スレイの頬を熱いものが伝った。

 まるで、今まで溜め込んでいたもの全てを吐き出すかのように、とめどなく涙が溢れ出たのだ。


 ——この時の心が透き通っていく感覚は、彼女の心に深く刻まれることになる。


「よーしよし。いい子いい子」


「う、あぁ……あぁああ……!」


 スレイは、ようやく……ようやく巡り合えた「母性」を前に縋り付いた。

 彼女の胸元で、ただただ泣き続けた。



 レイスは特に面倒見のいい性格で、こっそりとスレイの部屋に現れてはいろいろな話を聞かせてくれた。アイトスフィアのいろんな歴史から、己の恋人との惚気話に至るまでだ。彼女が語る話は、スレイにはどれも新鮮で面白く、夢中で聞きいるようなものばかりで……。

 さらには、女の子らしい服装を勧められたり、彼女の特徴である変な髪型のセット方法を教え込まれたりした。女の子には個性が大切なのよ、と。

 謎の少女のことを薄気味悪がった他の侍女たちと違い、ただの善意だけで勤務外まで本当の姉妹のように接してくれていたレイスは、スレイにとっては唯一の心を許せる相手だった。 

 実際のところ、彼女はスレイの境遇なんて、何も知らなかった。なのに、ここまで「赤の他人」に優しくできるのは、彼女の生来の人の良さなのだろう。

 よって次第に。

 スレイの冷え切った心は、少しずつだが溶かされていった。

 ……しかし、わずかに手に入れた平和な日常は、あっけなく消え去ることになる。

 ある日。

 相変わらずつらかったけど、レイスのおかげで人らしさを少しは取り戻せたと思っていたある日に。 

 スレイの部屋にあった「仕事」を命じる指令書を、彼女に読まれてしまった……。

 後に知ったことだが、国の上層部は余計な情報漏洩を防ぐため、侍女たちに自分のことは、「特殊な体質の研究につき、特別に保護している子供」ぐらいな、雑で曖昧な情報しか与えていなかったらしい。

 第一、知っていたならば、レイスの性格でその非道を看過できるはずがないことは、普通に考えればわかることだった。


「気づいてあげられなくて——ごめんね」


 彼女はその指令書を握りつぶした後、スレイの体を優しく抱きしめてそう言った。

 何か言わなければ、とは思った。

 だが、口は動かなかった。

 レイスがあれだけ怒った顔をしていたのは——初めてだったから。

 そして迎えた、翌日の朝。

 レイスは宮仕えを辞め、そのまま城を去っていったと伝えられた。

 部屋にはただ、彼女が愛用していたリボン類だけが残されていて。

 特に不思議だとは思わなかった。たとえどれだけ親身に接してくれていたとしても、あんな人の道を外れた行いをやっている子供に、今まで通りの友好関係など望めるべくもない。むしろ、一方的に拒絶せず、最後には優しい言葉をかけてくれたことに、感謝しているくらいだ。


「——今まで、ありがとうございました」


 今どこにいるともしれない彼女へ、スレイは静かに別れを告げる。

 覚悟はしていたはずだった。踏ん切りはつけたはずだった。

 ……でも、その日の夕方。スレイは王宮を飛び出した。

 普通に考えれば、わかることだった。

 どれだけ狂気じみた体験をしたところで、あの頃のスレイはただの子供なのだ。初めて得た唯一の拠り所を失った彼女には、その悲しみに耐えられるはずがなかった。

 体に刻み付けられた呪いのことなど考えはすれど、気にならない。

 王城を許可なく出るな、という命令への違反。

 全身が熱かった。骨を一本ずつ折られていくような苦痛が、彼女の五体を突き抜けていく。

 それでも、走り続けた。

 城下町を下り、貧民街を走り抜け、どこをどう走ったか定かではない。

 そんな愚かな現実逃避をした末に——。

 とある少年と出会った。 


 彼と話をする。


「レイン、って名前はどうだ?」


 そして、彼は言う。




「お前は化物なんかじゃない。泣いたり、笑ったりできるんだから。——ただの普通の女の子だよ」




   ***



 宵闇が訪れ、わずかに顔を出した月明かりが地上を薄く照らす中、見晴らしのいい丘の上でレインは佇んでいた。

 ゴートタウンの西門前に留まっていたジョセフ将軍の部隊を壊滅させ、いよいよアルサラムより迫り来る本軍との衝突を目前に、息を整えているのだ。

 殿を務める旨の命令を下された時、事実上の死刑宣告を受けたにもかかわらず、レインの中に浮かんだのは、やっと解放されるのかという意外と乾いた感想だった。

 感情は表に出さないでやった。出してやらないと思った。

 いつも通り、無表情で。

 クラウド王は、彼女の普段と変わらない平坦な了承の返事に目を細めるも、これ以上詰めても詮無いことと判断したのか、何も言わなかった。レインも、きっとあの男は「どうぐ」が壊れた後も同じような「子供モノ」を新しく作り、また自分勝手に捨てるのだろうと、かすかに考えたくらいで。

 だから、クラウド王が……実の父親が死んだとわかった時、嬉しかった。解放されたと思った。自由になったと思った。本気で、喜んだ。

 しかし……現実は残酷だった。

 身体は逆らえなかった。

 どだい戦術上ですらない、撤退のための「捨て駒」。軍の上層部も、少しでも時間を稼げれば儲けもの、と思っていることだろう。

 たかだか、残党のを相手にしただけでこのざまだ。

 来たる敵軍の総勢は——約一〇万人。

 やはり、圧倒的な数には勝てない。それこそが「戦争」なのだ……。

 ——

 あくまでもそれは、「普通」の中での強者の話。

 実際のところは、雑兵がいくら束になったところで、簡単に蹴散らせるはずだ。何も、一〇万人が一斉に一人を相手にできるわけではないのだから。

 帝国の兵士で、レインと唯一まともに戦えるであろうライオス将軍も、『烈風の魔女ブラスト・ウィッチ』によって倒されてしまっているというのも大きい。

 とどのつまり、「一〇万という数」などレインの敵ではないのだ。さすがに全てを倒しきることなどできなくとも、全軍の機能を麻痺させるくらいは十分にできるはず。だからこそ、クラウド王も殿を託した。

 問題なのは、「生きる意思」だ。

 その手に握る剣の「一番有効な使い方」を考えるくらいには、彼女は疲れていた。

 一度芽生えた希望が潰えた時、——。

 あと数時間もすれば、この街道を沿ってアルサラムより敵の本軍がやってくるだろう……。

 レインが俯いていた顔を上げた、その時——体中を異様に不快な倦怠感が襲った。


「……ッ」


 連続的な戦闘に、体が悲鳴をあげているのだろうか。

 いや、そんなことはない。あり得るはずがない。

 レインが幼少より積み上げてきた鍛錬と、帝国兵の練度を考えれば、今までの戦闘はちょうど体が温まってきた頃といったところだ。

「死神」の象徴である「死の閃光」も、あれで大幅な体力を消費するが、先の戦闘でも一〇発と放っていないので、そちらも大して問題はない。


「せめて、指揮官の首をとらなければ……」


 しかしいくら温存しているとはいえ、やはり体力も限られている。迷っている時間はなかった。総指揮官を倒せば、それだけでかなりの時間を稼ぐことができるのだ。最低でもあと一人は仕留めておきたい。

 一つ、大きな息を吐くと、レインは自身の左手を見やった。手を握ったり開いたりを繰り返すも、その動きはどこかぎこちない。

 それもそのはず。

 彼女には、手足の感覚がないのだから。


 ——代償。

 死の魔術を行使する代償だ。 

 スーツに隠れて視認できはしないが、彼女の手足は“機械仕掛け”である。


 一〇歳の時にはすでにそうだった。

 彼女は魔法を使用する際に、その力を体の各部に溜めて放つ必要があり、必然それらは手足に集中する。「呪い」とも呼べる肉体へのダメージは、幼い肉体を呆気なく壊したのだ。

 ——それ以降、己が手で人の温もりを感じたことはない。


 …………レインは、悲鳴をあげる心に無理やり火を灯した。


 剣を一振りするだけだ。それだけで敵を一人殺せる。

 魔法を一撃放つだけだ。それだけで敵の指揮は壊れる。

 レインはまだ戦える。戦えるが……。

 多くの血を吸ってきた愛剣を再び握りしめるも……彼女は震えが止まらなかった。 

 …………あれ? おかしい。

 気づけば、レインの体はその場にくずおれていた。

 一筋の雫が頬を伝う。


 なぜ。


 ——私はなぜ、泣いているんだろう……。


 こうまでボロボロになって、なんのために死ぬのか。ここでレインが死ぬことで、助かる命もある。いずれにせよ死ぬのなら、役に立つ方がいい。頭では理解している。

 それでも、レインは怖かった。



『——絶対に、お前を救ってやる……‼︎』



 頭の中で、一人の少年の声が響く。

 臆病で、そのくせ負けず嫌いで、強くなくて、でもとても優しかった、少年。

 降りしきる雨の中、彼は叫んだ。どうしようもなく理不尽な、レインをひしめく理不尽に立ち向かうと、少年は咆哮した。それをすげなく受け流し、レインは雨の夜に消えた……。

 レインは思う。

 あんな、ひどい別れ方をするのなら。

 あの広場で、初めて出会ったあの時に、関わりを求めなければよかったのだろうか。

 幼いながらに現実を受け止め、少年の優しい声を振り切り、元の居場所へと引き返すべきだったのかもしれない。

 それなら、その後の彼に深く干渉することはなかった。

 あの少年が何を思って戦場に立とうとしたのかはついぞ知らないが、きっとレインは、初陣で震えていた少年をどんな状況であれ助けるだろう。

 けれど、それでおしまいだったはずだ。わざわざ彼の居場所をさぐってまで、自ら会いに行くことなんてなかった。


 たぶん、出会いから間違いだったのだ。

 …………。

 だから……言おうと思った。



「たすけて」



 ここなら誰にも届かないから、いくらでも求められる。

 誰も応えてくれないのを知っているから、傷つかなくて済む。

 ……もちろん、わかってはいるのだ。

「人は死ぬ」と偉そうに語っておきながら。多くの命を奪ったその罪を自分勝手に正当化して。そしていざ、最期を悟ると生を渇望するなんて。

 道理ではない。許されるはずがない。

 ——だけど、もう一度言おう。






「たすけてよ、ヒロ」













「——レイン」













 声が、した。少女がずっと聞きたいと思っていた、あの声が。

 少女は、ゆっくりと振り返る。

 そこには。

 腰まであった髪を断ち切られた頭。決して恵まれているとは言えない小柄な体躯。ところどころが斬り裂かれ血が滲んだシャツ。

 そして——黒いマント。

 そんな格好で現れた少年は、言う。


「オレが気づく時にはいつも、お前は傷ついた後だった。もうお前が、いなくなってしまった後だった。でも——やっと間に合ったぜ」


 金色の瞳は、爛々と輝いている。

 その声には推し量ることのできない重みがあった。優しくて、甘くて、少女がずっと聞きたかった声だ。


「……、どうして」


 そんな弱々しい声を受けて、少年は。

 言う。

 


「約束だからな」



 約束。少女を救うという、約束。

 そう。だってこれは。

 “約束”。


 一〇年前。何も知らなかった。

 ただ無責任な言葉を、かけることしかできなかった。


 一年前。ようやく気づいた。

 しかし気づいても、結局何もできなかった。


 でも、だけど——、



「————お前を、助けに来た」



 いま、キサラギ・ヒロは、レインの前に立っていた。


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