第2話

わたしが母と過ごしたのは10年と少し、6月の長く続いた梅雨が明ける少し前。


わたしは母のことをまいちゃんと呼んでいた。まだ若かった母はそう呼ばれることを喜んでいた。

まいちゃんはわたしが食べ物をこぼした、靴下を脱ぎっぱなしにしたと言っては叩いた。わたしはその度に出来そこないな子供になってしまったことを申し訳なく思い、恥ずかしくてたまらない気持ちになった。もう同じ間違いをしないよう注意を払っていたが、仕事から帰ってきたまいちゃんに突然殴られることもあった。そういう時のまいちゃんはいつも泣いていた。どうやらまいちゃんが悲しくなったり、苦しくなったりしたときにわたしを殴るのだと理解した。眼から涙を、口からは怒りを放出しながら殴るまいちゃんに、わたしは黙って殴られ続けていた。


わたしに出来ることはまいちゃんが悲しく無くなるようにすることだと思った。まいちゃんが機嫌の良くて笑顔の時には自分も笑顔を浮かべるよう努めた。するとまいちゃんは抱きしめてもっと笑顔になってくれた。痛いぐらい抱きしめられているとき、誰よりも幸せな子供になったような気分になった。わたしはまいちゃんが大好きで、誰よりも大好きで、ずっと一緒にいたかった。


そんな日々のなか、まいちゃんが泣いていることが多くなった、5月下旬。理由は最近よく訪ねてくる人にあるようだった。わたしは部屋から声を聞いただけだったけれど、女性の穏やかな話し声だった。母は始めのころは玄関で話をしている様子だったけれど、最近は女性の訪ねて来る時間帯にチャイムがなると玄関を一瞥して、わたしの手を引いて玄関からいちばん遠い部屋に向かった。わたしをぎゅーっと抱きしめながら、嫌なものが去るまで我慢しているように見えた。そういう日は決まって、夜に泣きながらわたしをぶった。痛いのはわたしのはずなのに、しゃくりあげながら手を振り下ろす姿はとても辛そうだった。

「なんでなのみぃちゃん?なんでみんな、私をだめっていうの?わたしだめなの?つらいよみいちゃん。」

母の泣きながら放つ言葉と頬に当たる手のひらの音をききながら、わたしも泣いた。痛いや怖いよりも母が泣いていることに対しての涙が溢れていた。


そんな日が続いたある日、帰ってきた母が「みぃちゃん」と膝をついて私を呼んだ。抱きしめてもらえるのだと、手を広げて母に向かうと抱きつく寸前のところで、何かが胸につっかえて体が前に進まない。下を見ると自分の胸に包丁の切先が刺さっていた。顔を上げると涙を流しながら笑顔の母が「まいちゃと一緒にきて、みぃちゃん」と、少し掠れた声で言った。わたしの胸から静かに包丁を抜くと、まいちゃんは自分の胸に同じように包丁を突き刺した。そのままゆっくりと前に倒れていくまいちゃんを、わたしは大きな不安が押し寄せてくるのを感じながら見ていた。


意識が戻った時、わたしは病院のベッドの上だった。

後の警察の人の説明によると、通報したのは定期的に訪問していた保健所の職員だった。わたしがなんども母を呼ぶ声が聞こえ、玄関を開けると母とわたしを発見したらしい。わたしの胸の刺し傷は、骨に当たっていたことから深さは大したことはなかったこと、そして母は死亡が確認されたことを説明された。

わたしはしばらく意識が戻らず、目覚めた時にはすでに母の遺体はなく、無機質な壺に入った骨が母だったものとして残されていた。


あの日のことを何度も夢に見た。わたしの胸には包丁が柄まで深く刺さり、それを抜いた母が自分の胸に刺し倒れる。わたしも同じように地面に倒れて、母と顔を見合わせる。わたしたち2人は笑顔で、とっても幸せだった。眠くてたまらなくなって、でもまいちゃんがそこにいる。それだけでもう何もいらない。

-どこまでもふたり一緒だよ、まいちゃん-


夢から目が覚めると、いつもそこは母だけがいない世界だった。


退院したあとは父方の親に引き取られた。自分にも父親がいたことをその時初めて意識した。母がいればわたしには充分で、父のことを訊ねたこともなかった。祖父は息子の嫁である母のことを嫌っていたらしく、わたしには一切関わらず居ないものとして扱っていた。祖母は最初は孫である自分を可愛がってくれていたが、母を慕うことばかり言うわたしを次第に構わなくなっていった。しかし距離を置いて監視しているような、怖がっている様子だった。


祖父母に引き取られてからは違う地域の学校に通うことになった。そこは以前住んでいた街よりも田舎で、わたしのことはすぐに噂が流れたらしい。最初は同級生から遠巻きに見られていたが、自然と会話をしているように努めているうちにクラスになじんて過ごせるようになっていった。授業中は寝てばかりいた。夢の中では母と会うことが出来たから。ふたりで過ごしたアパートで、大きな真っ暗な建物の中で、砂漠で、どんな場所でもわたしは母と手を繋いで、笑顔で、幸せだった。その時間のほうがわたしにとっての生きている時間のようだった。


中学生になってもよく寝ている子だった。しかし入部を強制される部活動や一新されたクラスでの人間関係、点数を取らないと補修を受けなくてはいけない勉強。することが増える一方、それなりに楽しんで学校生活を過ごしていた。忙しさも相まって、夢を見ることもない深い眠りに落ちる日も少なくはなくなってきた。


中学を卒業し、祖母に言われるがまま地元の高校に入学した。わたしにあまり関わりたくない様子の祖父母だが、周りの目を気にしてか高校の費用は出すからと、通って欲しいようだった。自分の将来には何の希望もなかったけれど、わたしがこれ以上出来損ないな人間になって母親のことを悪く思われるような人にはなりたくなかった。せめて高校は卒業しておこうと、父の実家から少し距離のある高校に入学した。


入学式の少し前の春休み、中学生でも高校生でもないその境目の時期、とあるテレビ番組を観た。食事中の無言を目立たなくするためにいつも祖母がつけるテレビで、親に虐げられる子供達を取り上げた番組を放映していた。虐待を受けていた子供たちは保健所に引き取られた後も親のもとに戻ることを望む子も多く、その精神状態はストックホルム症候群と呼ばれるものであると紹介していた。暴力によって強く結ばれる親子の絆、歪んだ愛情ー

互いに相手をいないものとして過ごすことに慣れていたが、その時ばかりはふたりの盗み見るような視線を横顔に感じた。


高校では料理部に入った。中学でも入っていたが、料理が好きだと思ったことは一度もない。母と暮らしていた頃に調理実習で習ったみそ汁を母に作ったことがあり、とても喜んでもらえた。それが嬉しくて毎日作っていたら「みそ汁はもう飽きたわ。もっと他のも作ってよ」と言われて、家庭科の教科書と睨めっこしながら野菜炒めやほうれん草のおひたしを作った。そのたびに母は喜んでくれた。「みいちゃんがご飯作っといてくれるの助かるわー。いい子!」

料理をすることは、現実世界で母と繋がれる行為だった。


料理部は女子がほとんどを占めるなか1人だけ男子がいた。猫背でゆったりした雰囲気の彼は女子部員たちにとても馴染んでいて、彼自身も居心地が良さそうな空間に見えた。活動時間も終盤になり料理が完成するころになると、よく彼の友達が遊びに来ていた。運動部らしいその友達は彼を迎えに来たといいつつも、部活終わりで空いたおなかをつまみ食いで埋めに来ているようだった。気さくでさわやかな彼も料理部の彼同様料理部の子たちに好かれていた。彼は料理をつまみ食いしつつ、彼女のほうを盗み見るように視線を向けていた。


ある日、料理部が活動をしていない曜日に彼だけが調理室にやってきた。わたしは家に早く帰りたくなくて、活動のない曜日も調理器具を磨いたり包丁を研いだり、本を読んだりして調理室で過ごしていた。

「どうしたの?部活サボり?」

わたしが茶渋のついた湯呑みをゴシゴシ洗いながら彼に話しかけた。

「うん、サボりー」

洗い場の近くの椅子に無造作に座り、しばらく話をした。先生の話や最近返されたテスト、部活動などたわいもない会話をしていると、ふと彼が黙った。それから意を決したように

「あのさ」

とこちらに眼をむけた。

「沢本さ、昔母親に刺されたって本当?」

彼らしく気さくな口調だが、視線は真剣そのものだった。

「・・・・誰から聞いたの?」

「藤川だけど、あ、藤川は川島から聞いたって言ってて」

少しバツが悪そうな様子だったが、小学校が同じだった同級生もこの高校に何人かいるのでわたしはたいして驚かなかった。出来るならわたしの過去を誰も知らない遠い高校に行きたかったが、祖父母に電車代をせがりたくはなかったので納屋に眠っていた錆びた自転車でも通える高校で断念した。止めていた手を動かしながら

「うん、そうだよ。」

「・・・・あのさ、俺も同じなんだ。」

その言葉に、視線をふたたび彼へと向けた。

「中2のときに母さんが無理心中しようとして、俺も刺された。」

「・・・・お母さんはどうなったの?」

「死んだ。自分を刺してさ。俺は何とか生きてたけど、弟は死んじまった。あ、父さんは出張でいない時だったから、今は2人で暮らしてんだけどさ」

彼は努めて気さくな口調で話そうとしているようだった。

「お前は?他の家族はどうなった?」

「いないよ。お母さんとふたり暮らしだったから」

「そっか・・・・。なぁ、あのときどう思った?」

どこまで踏み込んで良いものかと躊躇いながら、彼は言った。

わたしも一緒に連れて行って欲しかった。ひとり残されても生きている心地がしなくて、何度も繰り返しそう思った。だが母に対するわたしの気持ちは異常なもののように思われて、口にだすことは憚られた。

「びっくり、したかな」

「はは。俺も」

彼は少し笑ってそう言った。

「・・・・びっくりするよな。さっきまで普通に飯作って、風呂沸かしてたのにさ。まあ元気ない感じはあったんだけど、俺も反抗期みたいな?どうしたーって話しかけようなんて思えなくてさ」

軽い口調ではあるけれど、遠くを見ているような彼の視線に、わたしも努めて軽い調子で相槌をしながら聞いていた。

「・・・・俺に何かできなかったのかなって、ずっと考えちゃってさ。話、聞いたり。でも俺、反抗期だったし、話聞くよなんて絶対、その時の俺は言わなかったし。」

「うん」

「でも考えちゃうんだよ、何かできなかったのかなって。母さんとか弟が生きられるような未来はあったんじゃないかって」

「・・・・うん」

生きられる未来ー

わたしとは正反対だ。そんな彼に、違って同じ彼に、聞いてみたいことがあった。

「・・・・お母さんのこと、憎んだりしない?」

「え?沢本は憎いの?」

「ううん・・・・でも刺されたり・・・・痛いことされたんだし、憎まないと、なのかなって、思って」

どんどん尻すぼみになる言葉。彼と私は母と築いてきた関係性が違う。こんなことを聞くのは違うのではないかという思いが、言葉に自信を無くさせていた。

「んー。弟を殺したのは憎いよ。なんでだって。でも俺がどうにか出来てたらあいつも死ななかったはずだし・・・・でもそうだなー」

目を瞑って上をむく。自分の内側を、真剣に探って答えを出そうとしてくれているのだと感じた。

「悲しいとか悔しいがでかいかな。やっぱり家族だし。もしニュースでどこかの誰かが無理心中したって昔の俺が聞いてたら、家族巻き込んでないでひとりで死ねよって思ってたと思うよ、正直。でもどこかの誰がじゃなくて、一緒に暮らしてた家族だし」


そっか-家族だから -

憎まなくたっていいのかもしれない。こんなに母が恋しくても、わたしは -

「え!なんで泣いてんだよ?」

ホッとしたのか嬉しいのか、自分でもわからない涙が溢れてきて、困った。

おろおろしながらもカバンを探り、ティッシュをぎこちない様子で差し出しす彼。

わたしはううん、とかごめん、とか言いながら溢れて止まらない涙をティッシュで押さえ続けた。


夕暮れよりも暗さを増した秋の放課後。自転車を押す私と彼が並んで歩いていた。

話題はすでに普段の学生のそれで、ただすっきりした顔のわたしの隣で、心配そうに顔を盗み見る彼がいた。分かれ道まで来たところで互いに立ち止まった。

「今日はありがとう。話せてよかった」

「うん。おれも話せて良かったよ」

「ごめんね」

涙を見せてしまったことが照れ臭くて、笑いながら言った。

「ううん・・・・なあ、また行ってもいいか?今日見たいな話じゃなくても、普通に沢本と話しにいっても」

「うん、もちろん」

分かれた後、涼しい風を頬にあびながら自転車を漕いでいると、どこからか晩御飯の香りが漂ってきた。わたしの作った晩御飯を母と食べていたあの頃を思い出し、口が自然と綻んだ。

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ホルム 宮きやと @meeyakyatto

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