第8話 雛芥子
猫のキーホルダーのついた鍵を差し込み、部屋の扉を開ける。一人暮らしをしているマンションに帰ってくる頃には、もう二十二時を回っていた。
本当ならもっと早く帰ってこれたはずなのに、突然遅番のバイトの子が来られなくなって、そのカバーのために三時間も残業をさせられた。暗い部屋に入り、倒れこむように椅子に座る。本音を言えばベッドに飛び込んでこのまま眠ってしまいたかったけれど、配信をすると朝につぶやいたから、やらなくては。
そんな義務感に駆られているけれど、実際はやらなくたっていいことだ。「やっぱり今日は仕事で疲れてるのでお休みします」とつぶやけば、リスナーたちは労いの言葉をかけてくれることだろう。でも、今日やらなかったらもう二度と配信をやらなくなってしまうような気がする。最近はどんなに疲れていてもそんな思いが生じて、配信を行っている。
はあ、と大きなため息をつきながらパソコンの電源を入れた。低い電子音を立てながらパソコンが起動している間に部屋着に着替える。それから配信中に飲む物を用意しようとしたところで、今日の配信を何時からやるかつぶやくのを忘れていたな、とSNSを開いた。
朝確認し損ねた通知欄のリプライにいいねをぽちぽちとつける。流し読む程度にタイムラインを確認してから、配信の時間をどうしようかなと思いつつツイート欄に文字を打ち込んだ。
『ただいま~、お仕事長引いて今帰ってきた!
配信は23時から!遅くなっちゃってごめんよ~!!!待機所もうちょっと待っててね』
そうツイートをして、コーヒーを入れるために小鍋でお湯を沸かす。沸騰するまでの間に配信の待機所を作ろうとパソコンを操作する。
もうすっかり慣れてしまって、機械的な動作で設定をすると、待機所のリンクをツイートしようとした。あぁ、サムネ用意するの忘れたな。そう思い出し、共有の画面をいったん閉じる。
配信を始めた初期に作ったファンアートタグを、ありがたいことに今でも使ってくれる人はいる。サムネイルを作るのが面倒な時は大体このタグの中からイラストを借りていた。でも私みたいな弱小配信者だと絵を描いてくれる人も限られていて、毎回同じ人からイラストを借りているような状態になっている。描いてくれる人にもほかのリスナーにも申し訳ないと思いながら、こればかりは私にはどうしようもできないのでありがたく使わせていただく。
サムネイルを差し替え、改めてリンクをツイートした。
『待機所!!!!』
ちょうどそのタイミングでお湯が沸いた。コーヒーを入れて、椅子に深く腰掛ける。時刻は二十二時四十五分、配信まではもう少し時間がある。まだ熱いコーヒーをすすり、SNSのアプリを開いた。配信の告知ツイートにいくつかリプライがついている。
『待ってた、配信楽しみ~!』
『お仕事お疲れさまです、待機します』
どんなに疲れていても、配信が嫌になっていても、やっぱりリスナーからのポジティブな言葉はうれしい。いつも通りにいいねをつけていると、そういえば、と今朝見た夢のことを思い出した。
『ヨナちゃん、大丈夫かな』とつぶやいてくれていたリスナー。あのときはユーザー名こそ確認しなかったけれど、ほとんどのリスナーのことはアイコンで覚えていたから、パッとツイートが目に入っただけで誰か分かってしまった。そういえば、あのリスナーのことを最近配信でも通知欄でも見かけていない。
病気でもしていないかと心配になって、彼女のアカウントを探す。確か彼女のことはフォローしていたはずだ。五百人くらいいるフォロー欄をずっと遡っていくと、そのアカウントはあった。
「雛芥子」最初は名前が読めなくて、リスナーに笑われたことを覚えている。彼女はいつも優しくて、決して私を責めるようなことはなく、『ややこしい名前ですみません』と謝ってくれていた。
彼女のアカウントはずいぶん前から動いていないようだった。最後のツイートは三か月前。そこには、
『最近なんか居心地悪い……。ごめんなさい。』
とだけ書かれていた。
雛芥子のアカウントのプロフィール欄には「月島ヨナちゃんが好きです」の一文のみ書かれているだけあって、このアカウントは主に私へのリプライや、配信の感想等にしか使われていない。それは、ずっとフォローしていた私が一番知っていることだ。
そんな彼女がこんなツイートをしているということは、もちろんその居心地の悪さは私の配信からきているのだろう。そう思うと、心臓がどくんと嫌な音を立てた。
配信を始める前から私のことをずっと好きでいてくれた彼女が、こんな言葉を残して消えるほど、私の配信はひどかったのだろうか。自分では薄々感じていたけれど、配信者とリスナーでは感じ方が違う。私が感じている違和感なんかはリスナーたちに伝わっていないと思っていた。
雛芥子のアカウントには、それ以外に何か愚痴のようなものは見られなかった。でも、このツイート以降何もつぶやいていないし、私のツイートにも反応していないから、それくらい気持ちをため込んでいたということだろう。
今となっては、もう彼女の気持ちはわからない。けれど、彼女に何が悪かったのか聞きたかった。そうすれば私がずっと抱えている悩みの正体がわかる気がした。
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