燭天使のアリョーシャ
水原麻以
燭天使のアリョーシャと恋の物語
わたしの心はシャボン玉。
温まれば膨らむし寒ければしぼんでしまう。
それにあまり膨らんでもだめ。
ぱぁんと弾けてしまうから。
でも、しぼんでいくのも嫌。
だから、ときどきどうしていいかわからなくなる。
そういう時は楽しいことだけを考えるの。
シャボン玉の表面は虹のようで、たくさんの色が躍っている。
黒や紫。暗い色も冷たい色も混ざりあって、きれいな世界をつくってる。
好きとか嫌いとか、ない。みんながみんな一生けん命に手を取り合って、輝いている。
そんなシャボン玉が好きだから、わたしも頑張ろう!
吸い込まれそうな青天井。見つめていると高所恐怖に襲われる。
刷毛で掃いたような雲。
入り組んだ町並みがさざ波のように重なって丸い地平線をつくっている。
いったい、わたしはどこにいるのだろう。どこからどこまでがわたしで、どこからわたしじゃないんだろう。
わからない。
わからない。
ここはだれ? わたしはどこ?
純白のドレスを纏った天使が日光を背にして泳いでいる。
裾が風にあおられ、可愛らしいレース飾りがあらわになる。
それでも彼女は遊泳をやめない。恥じらいよりも優先すべき何かがあるようだ。
いつもなら一心不乱に空中イラストを描いている。シャボン玉の絵がふわふわと本物のように飛んでいく。しかし、今日に限って、鳶色の瞳は石畳の一点に向けられている。
「わたしに居場所を教えてくれるの? あなたはだぁれ?」
彼女はスカートのポケットから絵筆を取り出すと、そっと地面に落とした。
「警戒警報! 警戒警報! 第664代燭天使が脱落。繰り返す、次世代天使候補が脱落!!!」
「情操教育課程の事故。ただちに身柄を確保せよ」
アリョーシャが自我地平線を見失ったことはすぐさま天空に報告された。
ふくよかな婦人たちが雲のはざまで翼をひろげた。
「能動天使のみなさん! 出番ですよ」
彼女の呼びかけに応じて、きつい目をした天使たちが寄り集まった。
「また駄目だったの?」
「最近の子は、根性ないわぁ」
「なんか、だんだん劣化してなくね?」
「顔面偏差値、右下がりだし」
「つか、あたいらを抜擢したほうがいいんじゃない?」
女たちは勝手な意見を並べ立てた。
すると、中年女性がパンパンと手を叩いた。
「はいはい。みなさん、あとで聞きますから、ちゃんとお仕事しましょうね」
不平不満が終わらない。
中年女は機関銃のように手拍子を打った。
すると、能動天使たちは雷で撃たれたように姿勢を正した。
「わかっ……」
「ちょ、やめて」
「うるさいババアね」
「痛っ!」
「わかったわよ。しつけーな」
天使たちは這う這うの体で雲海に消えた。
石畳の虜になったアリョーシャ。ぐんぐんと高度をさげると喧騒が潮騒のようにざわめく。
「あそこにいたわ!」
能動天使の一人が高層ビルの陰に白い点をみつけた。一直線に着地点をめざしている。通行人たちが立ち止まったりスマホを空に向けている。
「ちょ……降臨ルール、刷り込んでないの?」
もう一人の天使がアリョーシャを指さしてあきれ果てる。
「つか、ガン無視じゃね?」
「こりゃ、やべーわ」
さっきのヤンキー風天使たちも口をそろえる。
「緊急隔離プロトコール。手順1!」
第一発見者の女がドレスを翻した。
引き締まった太ももを縛るベルト。そこに小さなラッパが刺してある。
仲間たちも同じようにラッパを取り出す。
通勤ラッシュの街に力強い管楽器が鳴り響く。
誰でも嫌なことを遠ざけたり
傷づくことを避けたいと願う
だが向き合えば、道が開ける
♪ ♪ ♪
第一楽章がアリョーシャを追いかける。
しかし、彼女を振り向かせることはできなかった。
「そうなると思ったわ。手順2」
能動天使たちは諦めず、演奏を続けた。
ぶつかったり
はばまれたり
力に屈したり
それでも、困難に挑むことで乗り越える力が身につく♪
貴女はできる子♪
これでもか、とラッパが畳み掛ける。
しかし、アリョーシャは停まらない。むしろ、祝詞に勢いづいている。
彼女はグングンと加速してビルに接近した。
「プロテクトが全部破られた!」、能動天使は慌てふためく。
市内を眺望できる高級マンションの上層階。フロア三つ分をぶちぬいてガラス張りのスパが女性客でにぎわっている。
「あ、虹♪」
アリョーシャは水蒸気の雲間に七色の帯をみつけた。
まようことなく弾みをつけて、ゴリラガラスを突破する。
降り注ぐガラス片がセレブたちを地獄へ突き落した。
「やってくれるわ」
能動天使のリーダー格は目を覆った。
「だれかババアに通報して!」
打てば響くように部下が返答した。
「とっくにやってます。懲罰権限、付与されました」
「そうこなくっちゃ☆」
リーダーが指を鳴らすと燐光が凝縮して、大きな弓を形づくった。他の能動天使たちも同じ武器が支給される。
バリバリと窓を突き破って元気よくアリョーシャが飛び出した。
背中に金髪の少年がしがみついている。
年のころは中学生くらいか。派手なサーフパンツから小麦色の脚が覗いている。
「ちょっと、これって」
能動天使のリーダーは面を食らった。
「信じられない。堕落手順を踏み破ってるわ。ババア、聞いてる?」
『聞こえてますよ』
ちょうどそのころ、ババアは雲のソファーに寝そべって部下たちの働きぶりを監視していた。
彼女には能動天使たちを査定して賞罰する義務がある。
そして、規律の運用について人一倍詳しい。
燭天使の逸脱行動について該当項目はないか、記憶の底をまさぐった。
しかし、調製過程にある天使候補には、そもそもこのような脱走を企図する知恵は刷り込まれておらず、それを前提とした罰則規定もない。
「調整をしくじったとか、劣化したことで想定外の悪意が芽生えたとか考えられませんか?」
ヤンキー天使たちが狼狽えるババアに助言する。さすがに昇格をうそぶくだけの能力はあるようだ。
「禁断の実を食べること以外には考えられないわ」
ババアはそこまで言って、あっと驚いた。そして、みるみるうちに青ざめる。何か思い当たるフシがあるようだ。
僕はサマエル、と少年は名乗った。
「貴女はなに? あたしのような燭天使とはちょっと違うようだけど。と、いうか生き物なの? それより、さっきからあたしの背中に当たるものは何?」
アリョーシャは初めて出会う相手に戸惑いをおぼえた。同時に胸がドキドキする。とても不思議で心地よい。
「僕は僕さ。眷属は天使のサポート役だ。君たちといっしょに住めない。だけど、君のことはよく知っているよ」
「あたしが?」
アリョーシャはドキッとした。
「そうだよ。君のことはずっと見守っていた。僕にとっては特別な存在だからね」
サマエルにそう言われると、さらに胸がときめいた。
「わたしは貴女のことを何もしらないわ。燭天使以外の女子がいるなんて知らなかった」
「僕は男の子だよ」
「オトコノコ?」
「もっとも、君とは一緒に暮らせないけどね」
アリョーシャは目の前が真っ暗になった。ショックのあまり、翼がしおれてしまう。
そのまま真っ逆さまに頭から落下する。
「しょうがないな」
サマエルは身体をくねらせた。手を伸ばせばすぐそこにロープがある。河を渡る大きなつり橋の真上だ。
二人は支柱のてっぺんに降り立った。
潮風がアリョーシャのドレスを腰までふきあげる。
「そういうのは出し惜しみしたほうがいいよ。というか、代わりになるものを探した方がいい。地上に降りたら天界の物はなかったことになるからね」
サマエルはドレスを整えて白い布地を隠してくれた。
「えっ?」
アリョーシャはポカンとしたままだ。
「君は何にも知らないんだな」と、サマエルは吐息をついた。
地球脱出教団(メフロンティア)の超長距離棄民船団(エグザルテーション)は長い遍歴のすえ、ようやく悲願を達成する目途を立てた。
破滅の再発を防止するためには人間の性根を根本から叩き直す必要がある。
その手段はクローンや遺伝子操作といった小手先の改良ではだめだ。
造物主のやりかたに従って、創造の段階から「ヒト」が関与する必要がある。
そうすることによって原罪を取り除き、今度こそ真の恒久平和を達成できる。
プロジェクトの成果物としてアリョーシャの工場プラント船が派遣された。
「???」
アリョーシャは目を白黒させた。サマエルの言っている内容は一割も理解できない。ただ、彼女を安堵させたのは、橋の欄干から例の石畳が見えたことだ。
「行かなくちゃ」
アリョーシャは動きにくいドレスを風に流した。腰回りを覆う僅かな布だけを残して、宙に身を躍らせる。
「まだ説明が終わってない」
サマエルも慌てて後を追う。
「なんだかわからないけど、運命があたしを押してくれてる」
燭天使はそういうと、河に面した歩道へ飛んでいく。
「あぶない!」
彼女の前途をサマエルが遮った。どしんと体がぶつかりあう。次の瞬間、大きな音と光がアリョーシャを襲った。
「きゃあ、サマエル?!」
何という事だ。サマエルの四肢がきれいさっぱり失われている。傷口から緑色の液体が噴き出す。
アリョーシャが翔けよると、ふたたび閃光が彼女を阻んだ。
「そこまでよ」
眼が慣れると、能動天使たちに囲まれていた。全員が弓をつがえている。
「僕のことは心配しないで!」
サマエルは天使に抱きかかえられ、彼の頭に照準が向いている。
「おとなしく懲罰を受けなさい。貴女のかわりいくらでもいるもの」
能動天使のリーダーがにじり寄る。
「誰だってあたしを止められない!」
アリョーシャはそういうと、体当たりをかました。勢いよく羽ばたいてサマエルをもぎ取る。
すぐさま、火矢が襲ってくると覚悟した。
しかし、後ろから追いかけてくる者はいない。
「と……当面は大丈夫だと思う。君への餞別だ」
アリョーシャの胸でサマエルは途切れ途切れに言った。
「喋らないで。じきによくなるわ。地上には治してくれる人がいるんでしょ」
「医者のことか? 原始的な祈祷師ですら生まれるのは何万年も先だ」
サマエルはきっぱりと否定した。
「だって、だって、このままじゃ死んじゃう」
アリョーシャは生れてはじめて他人をおもんばかる感情を得た。
「心配する気持ちが芽生えたんだね? 感情は知能を進化させる。他人の痛みが共感できなくては共同歩調が取れないし、尊重する能力がないと自分と他人を混同するからね。よかった」
「何が嬉しいの? わたしは胸が張り裂けそう。どうしたらいいの?」
アリョーシャは大粒の涙をながした。
「君に一人で生きていけなんて残酷なことは言わないよ。ウウッ」
「黙ってて!」
息も絶え絶えのサマエルを歩道に寝かせると、バサバサと天使が降りてきた。石畳を挟んで三人のアリョーシャが向き合う。
「こんにちは、664代目のアリョーシャ。あたしは665代。この子は末代のクローンよ」
もう一人のアリョーシャが三人目を紹介した。
「あなたたちは?」、きょとんとする664代燭天使。
「呼んだのはあたし。あんたと666も」と665代目が言う。
「僕が成長を加速させたんだ。君たち三人はこれから地上で手を取り合って……」
サマエルがそういうと、がっくりとこと切れた。
「サマエル!」
泣き崩れる664を665が支える。
「彼がパンドラカプセルを開封したの。諸悪の根源よ。悪とは何かを天使が学ぶための教材だった。それを一気に開放したものだから……」
ドンっと大きな音がした。巨大なつり橋の橋脚が基礎から雲霞のように崩れ、ボロボロになった吊り橋部分もクズグズに燃え尽きていく。
「えっ、えっ?」
戸惑う664代に二人の燭天使が抱き着いた。
「時間がないの。664は私のお嫁さんになってくれるわよね?」
「ずるーい。664は666の奥さんよ!」
「えっ、えっ、どういう?」
「『神』工場と『人の子』プラントは破壊されたわ。能動天使どもはそっちの防衛でてんてこ舞いのはず。三位一体システムはもうおしまい。その間にあたし達だけで降臨するのよ」
665は強引に664の手を取り、祝言を唱えた。
「ちぇっ、いいわ。666も大事にしてね」
三人のアリョーシャは河を飛び越えて、対岸の空港へ向かった。ロビーは倒れた人で足の踏み場もない。滑走路に三角形の翼が待機している。
「ちょっと、665姉ぇ。ロックがかかってるわ!」
666はコクピットに就くなり、かぶりを振った。
「それに、神軍と人類軍の生き残りがわんさといる」
フロントガラスに蛍光色の勢力図が浮かび上がる。空港周辺はおろか、工場船のあちこちで戦闘がおきている。
「サマエルが助けてくれるわ」
665はスカートのポケットから角状のケースを取り出した。
「それは何?」、と666、
「彼の人工胸骨よ。サマエルシリーズの主記憶。さっき回収しておいたの」
665は慣れた手つきでサマエルの遺骨を電極に繋いだ。
ガンと蹴り上げるような衝撃が来た。みるみるうちに周囲の景色が巻き取られ、漆黒の闇が襲ってきた。その間、一瞬だけ窓の外が泡立った。
「ひょーっ。全方位多弾頭誘導弾。ぶっそうな仕様ね」
666はカルチャーショックを覚えた。
「これから降りていく先は『そういう』世界よ。秩序を頑なに守る神と、いい加減な……換言すれば自由奔放な人間。その調整役としてあたしたちが作られたんだけど、これからは天使だけで回していかなきゃいけない」
665は青く輝く惑星に舵を切った。
「天使だけの世界かあ」
アリョーシャ664は気が遠くなる想いで窓をながめた。
「男なしでやってけんの?」
666が心配している。
「三人いれば、どれとも与しないX染色体だけのペアが必ず一つは出来るわ」、と665。
「ねぇねぇ、664はどっちが好き?」
666は早くもアリョーシャに粉をかけはじめた。
「は~~。『僕抜きでもダイジョウブー』って本当なの?」
アリョーシャは丸い星にサマエルの顔を重ねた。
燭天使のアリョーシャ 水原麻以 @maimizuhara
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます