ノルディックバランス~「凍土の挑戦状 - 通信が途絶え、文明が崩壊した世界で、生き残るために秋山が挑む最後の戦い」

水原麻以

スウェーデン・ストックホルム郊外 エピセンター(AD2047)

さえずりでもない。虫の声でもない。ガリガリと何かを削る金属音が続いている。

黒板を爪でひっかくなどといった生易しさはない。あるのはふつふつと沸く殺意。


「いい加減にしろ」

誰かが苛立ちを抑えきれず叫んだ。

それでも脊髄をえぐるような騒音はやまない。

「殺すぞ!」

秋山は不協和音の出どころに憤った。

「構わん。あたしを殺してみろ。今すぐだ!」

歯ぎしりする機械の影からブロンドの女が顔を出した。スラッとして透き通るような美人。実際に白衣の下に肩紐が見える。

「どうしたの。んっ☆?」

女は子供をあやすように甘い声で確認した。

ゾッとする。やんちゃ坊主をやんわり叱る母親そのものだ。この一瞬の変わり身は何だ。だから女は恐ろしい。

「い、いえ」

秋山は無条件降伏するしかない。何しろ、彼女はたった一人の裏切り者なのだから。


「言ってごらン? あたしが死ぬると、どーなるんだっけ♪?」

女は胸元を緩め、スカートのホックを外し、秋山に迫る。スレンダーな身体を躊躇なく密着させ、窓際へ追い込む。


    

男はたじたじで脂汗を流すばかり。視線は散らかった部屋のあちこちを泳ぐ。古びたデスクトップパソコン。入り組んだケーブル。散らかったプリンター用紙。飲みかけのコーヒー。

カオスの海を金属音が満たしている。


女は不気味な笑みを浮かべた。そして、もったいぶりながらうそぶいた。

「あたしは最後の女よ。比喩じゃなく、マジで人類最後の女」

秋山は頭を抱えた。そして無理を承知でお願いした。

「だったらやめてくれませんか。俺たちが狂死したら困るのはあなたですよ」

彼の他にも作業服姿の男たちが空爆に耐えるように床に伏せている。女は哀れむように一瞥した。

すると、騒音がピタリと止んだ。長い長い帯のような紙がうねうねと機械から吐き出されている。

女はそれを破り取って手繰り寄せた。ふわりと秋山を撫でる。視界が英数字の壁に遮られた。

「Y染色体の塩基配列すべて、および突然変異の規則性は把握した。ここに避難した男性42人全員のね」

「そんな、あんまりだ!」

狼狽する男たちを残して、女は姿をかき消す。その直後、残された男たちは天井に押しつぶされた。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇


「はっ?!」

秋山孝雄が身を起こした時、まだガリガリ音が続いていた。汗ばんだシャツを脱ぎ捨て、ブラインドを開ける。一気に部屋が漂白された。

「それで奥さんや娘さんの行方はつかめたのか?」

ソファーで寝ていた男がもぞもぞと寝返りを打った。

    

「いや、わからない。ただ電子掲示板びーびーえすの投稿を見る限り、世界規模の現象だ」

「まさか神隠しなんて手口を使うとはあ。本当にAIの仕業なのか?」

男は秋山をからかった。だが、相手は真剣にプリントアウトを見つめている。

「ドットプリンターは嘘をつかない。旧式の8ビットパソコンもだ。アナログモデムも回線も感染しない。無線有線直結電話網フォーンパッチの有志もだ」

彼は藁にもすがる思いで性善説を唱えた。

「じゃあ、本当なんだな」

男はガラっと窓を開け放ち、煙草に火をつけた。

秋山は彼でなく自分に言い聞かせる。

「ああ、世界中から女が消えた」

ふうっと紫煙が秋山の顔を過る。

「なぜ断言できる?」

彼が疑問視するのも無理はない。もうインターネットで検索すれば簡単に答えが見つかる状況ではないのだ。突発的な世界的通信途絶ブラックアウトから二週間が過ぎた。

テレビも電話もネットもデジタルな通信手段はほとんどネットワークインフラに依存している。それが全てダメになった。不測の事態に備えた迂回路も完全に潰えた。

自然災害ではない。機器自体が通信を拒絶しているのだ。最初のうちは故障と見做された。しかし交換した筈の新品が片っ端から機能停止した。すぐ在庫が尽きてプロバイダーは修理を断念した。

    

社会はたちどころに行き詰まり、暴動や略奪が横行した。

幸いなことに核が飛び交うような衝突は起きていない。現代兵器は何らかの形でネットに接続されているからだ。それでも重火器や小銃を用いた紛争は続いた。

惨禍の枠外にいた有志が原始的な通信網を構築した。それがフォーンパッチである。

アマチュア無線家たちは黎明期からアナログ電話と無線機の接続を試みていた。やがて8ビットパソコンが発明されるとアナログモデムを介して掲示板や電子メールで交流を深めた。

無線家ハムは信頼できる。電波で?はつけない。真実も一瞬で世界中に拡散する」

秋山によると16ビット以下のパソコンは下僕になる程の知能がないらしい。

「信じられるか? 通販も文献検索も最新ニュースも個人売買もパソコン通信で出来ていたんだぜ。画像添付メールもだ」

彼がログインするとパソコンが鳴った。

”新着メールが【1件】あります”

モニタ画面に直線が積み重なってじわじわと映像が浮かび上がる。

「ああイライラする。もう一服吸ってきていいか?」

男はじれったそうに煙草を取り出した。そしておもむろに走り出した。

「構わんが……おい、倉島?!」

ドサリと重い音がした。

「大丈夫か、おい」

    

秋山が慌てて螺旋階段を駆け下りた。ベランダの真下はコンクリートだ。無事では済まない。

倉島は血だまりの中で呻いている。

「お、俺の妻がいた。お前は……嘘つきだ」

彼は憎々しげに悪態を遺した。



「残り40人か」

医師免許を持つ中西が窓越しに死亡診断を下した。他の棟でも転落者が出たという。

「外出禁止令を徹底しよう。このエピセンターから一歩も出るな。如何なる理由でもだ」

秋山は構内電話を通じて事故の状況を包み隠さず知らしめた。中西の眼前をぶうんとラジコン機が飛び去った。

「いつまで籠る? 物資の空輸もあれの交換部品が尽きたらお終いだぞ」

「だったら謎ときに協力してくれ!」

秋山はいら立ちを医師にぶつけた。

ストックホルム郊外のエピセンターは高級リゾートとして建てられた。政府の方針で研究拠点に改装され、遠距離通信ディーエックスを競う世界大会ペディションが開かれ。その最終日に異変は起きた。秋山は日本無線家連盟ジャールチームの一員として参加していた。倉島と中西はサポートメンバーだった。

「これを見てくれ」

閑散とした大会議室の壁にGIF画像が拡大される。秋山がメールで受信した衛星画像だ。

「「「おおっ!」」」

四十名の男たちが声をあげる。

    

北極海に浮かぶスピッツベルゲン島にはあらゆる動植物の種を冷凍する保存施設がある。

温暖化の影響で永久凍土が溶け、洪水の危機に瀕している。

「昼過ぎにジェット推進研究所から送られてきた。氷のダムが決壊すれば終了する」

秋山は挑戦状だと断定した。

「それでAIは何と?」

カナダ人が流暢な英語で尋ねた。

「共生進化に同意しろ」と秋山。

それを聞いてカナダ人は首を傾げた。

「人類抹殺じゃなくて共存? ナンセンスだ。もう王手をかけてるじゃないか。それに遺伝情報はバックアップ済みだと? なぜひと思いに殺らん」

「脅迫ではなく助けたいそうだ。AIの分析によれば温暖化の原因は莫大な電力消費と電子機器の排熱、そして電磁場が招いた磁極異常転移ポールシフトだ」

磁極が狂えば地球が転倒する。雪国が熱帯に、熱帯が雪国になり、生物が大量絶滅する。

「それでネットを停めた? 自分たちを棚に上げてよく言うぜ。ファッ?」

カナダ人はあんぐりと口をあけた。

「ジョーイ。彼らは人類より早く量子通信を実用化したんだ。熱源となるケーブルも電波も不要だ」

「あくまで俺達人類の自業自得だと?! 認めるのか? 秋山」

中西がテーブルを叩いた。

「筋は通っている。だが人体にナノマシンを打ち込んで細胞レベルで機械化するやり方が気に食わん」

    

秋山はどうも腑に落ちない様子だ。世界中から婦女子が忽然と消え失せ、自分たちはエピセンターに軟禁されている。それにあの悪夢は不可解だ。

「同意しなくても勝手に進めりゃいい。俺はごめんだ。機械の身体なんてゾッとする」

ジョーイは座っていたパイプ椅子を振りかざした。

「戦うつもりか?」

秋山が諫めるとジョーイは反論した。「つもりじゃなくて、戦うんだ」

「どうやって? 仮に勝ったとして女はどうする?」

「俺に考えがある。冷戦時代の……」

ジョーイはドスンと床に昏倒した。中西が鎮静スプレーを片付ける間に秋山は妙な質問を投げた。

「各自の女性遍歴を正直に教えてくれ。人類存亡がかかってる」

ブーイングの嵐が起きたが最終的に過半数が未経験者だと判った。

「そうか、勇気を有難う。諸君は隠れてくれ。ジョーイも」

秋山は済まなさそうに該当者を地下室に避難させた。

「ノルディックバランスを悪用するなんてイカレてる」

「他に手があるか? 俺たちは無線家だ。軍人じゃない」

秋山は中西の手からスプレーをもぎ取った。

「それにお前を護りたい」

「なっ?!」

中西の意識はしゅっと闇に沈んでいった。

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