「トカゲになった僕は異世界で英雄を目指す」

蛙鮫

「トカゲになりました」

 木魚の音と線香の匂いが漂っている大広間で石上竜吾はただ一点に目を向けていた。


 視線の先には敬愛していた祖父の遺影があった。隣では両親と祖母、親戚の叔父と叔母が涙を流しながら、肩を震わせている。


 今日は父方の祖父の葬式だ。死因は老衰だった。齢九十歳だからいつ亡くなってもおかしくはなかった。


 それでも彼は目の前の現実を受け止めきれないせいか一滴も涙が流れてこなかった。



 葬儀は粛粛と幕を閉じて竜吾は一人、縁側の近くで夜風に当たっていた。


 季節は十一月。冬がすぐそこまで近づいているせいかやけに肌寒かった。

 

 後ろの居間で両親を含んだ親戚一同が葬儀の後片付けをしていた。


 辺りは既に夜の帳に包まれており、雲の切れ間から差す月光が庭の生えた草花を照らしていた。


 幼い頃はよく、ここで祖父と話をしていた。祖父は温和で植物のように物静かな男性だった。


 彼が何か粗相をしても、決して声を荒げるような人ではなかった。


 小さい頃は寝付けない時に、いつも祖父が色々な話を聞かせてくれた。


 彼が特にお気に入りだったのは家々に代々伝わる、英雄と龍神様が鬼達とその頭目を退治にしにいった話だ。


 竜吾の父も子供の頃によく聞かせてもらっていたらしい。


 その英雄と龍神様のように誰かにとってヒーローになりたいと思っていた。



 それが幼い頃の彼の夢だった。しかし、現実はそうはいかなかった。


 小学一年生の頃、いじめを受けていた同級生を助けた翌日から、竜吾がいじめの対象になった。


 初めは教科書を隠されたりや、授業中に紙くずを投げられる等の些細なものだった。


 いつしか陰口や暴行へとエスカレートして、次第にその悪意が怖くなってしまった。


 困った人を助けただけなのに、何故、自身はこんな目に遭わないと行けないのか。そんな事を思いながら、憂鬱な日々をやり過ごしていった。



 やがてそれが教師に発覚して、加害者達が咎められたことによりいじめはなくなったが、竜吾は以前のように人に親切を働こうとは思わなくなった。


 現在は夢すら霞んでしまい、高校二年の現在もなお、自身の保身のみを案じる日々を送っている。


 これといって仲の良い友人は作らず、薄ら笑いを浮かべてやり過ごす。きっと高校を卒業することには誰も自身の事なんて覚えていないだろう。

 

 いつしか、おとぎ話に出て来た英雄達とはかけ離れた存在になっていた。


 英雄に憧れ、真似事をすれば叩かれるのだ。出る杭は打たれる。これが世の常だ。


 今では竜吾などという勇ましい名前とは正反対の繊弱な人間だ。


 きっとそのようなヒーローまがいの行為が許されるのは才覚を持った人だけだ。


「今の僕を見たら、じいちゃんなんていうかな?」

 一人、静かな縁側で現状の自分を嘲笑った。沈鬱な気分を紛らわすために、庭を散策することにした。


 不意に吹く夜風が僕の髪を優しく撫でる。こういう心が曇っている時は自然の風景を見ると、心が安らぐ。


 自動車の排気ガス。アスファルトの臭い。波のように押し寄せてくる人の話し声、都会の喧騒からかけ離れた空間に身を置くことは現代人にとって必要不可欠といっても過言ではない。



 気がつくと、屋敷のはずれにある大きな池の近くまで足を運んでいた。煌々とした満月が池の水面を静かに照らしていた。


 生前の祖父から龍神様を祀られていると耳にしたことがあった。池の周囲には杭が打たれており、それにしめ縄が括られている。


 しかし、竜吾はまるで糸にたぐり寄せられるようにしめ縄をまたいで、ゆっくりと水に近づいていく。


 冷えた水が足の体温を奪って行くのを感じながら、奥へ奥へと進んで行く。


 するといきなり、池全体が眩しい程の深緑の輝きを放ち始めた。その光を目にした時、体から背骨を浮かれたように一気に力が抜けて、勢いよく川の中に倒れた。



 体がどんどん水底に沈んでいく。薄れゆく意識の中、底から鮮やかな緑色の光が見えた。


 光を見た瞬間、見たこともない光景が脳内を駆け巡る。自分ではない何者かの視点で場面が移り変わっていく。


 燃え盛る大地。数多の悲鳴と怒号。そして、黒い龍のような怪物とその手前に剣を持った青年がいる。


 その後、自分の目線で真っ逆さまに緑色に輝く湖に落ちていく。水面に浮かんでいく泡沫を目で追いながら、ゆっくりと視界が暗くなった。


「な、なんだ。こ、れは」


 その場面が途切れると同時に、意識が途絶えた。







 朦朧とした意識の中、ゆっくりと瞼を開ける。暖かな陽の光が木々の隙間から竜吾の顔を照らしていた。


 眩しい。緩やかな風が吹く音と川のせせらぎが聞こえて、背中にひんやりと冷たい感覚が伝わってくる。


 霞んだ視界が徐々に鮮明になっていく。どこか知らない川の浅瀬で仰向けになっていた。先ほどまで夜だったはずなのに、太陽が中天に存在している。


 そして、気づいた事がもう一つあった。明らかに体が小さい。なんとか立ち上がろうとした瞬間、彼は戦慄した。


 手が人の皮膚ではなく、爬虫類のようなゴツゴツとした鱗に覆われていたのだ。そして、尻の部分から伸びる細長い尾が見えた。



 衝撃の事実で叫び声を上げようとしたが、声帯の構造のせいかうまく声が出ない。


 落ち着け、落ち着くんだ。竜吾は何度も冷静になるように問いかける。


 しかし、心の荒波が一向に鎮まらない。この姿。小さくて、体に鱗があり、尻尾が生えている生き物。嫌な予感が頭をよぎる。


 覚悟して川の水面で顔を確認した瞬間、僕は卒倒しそうになった。


 つぶらな黒い瞳と毛が一本すらない白い鱗に覆われた体。そして、細長い尾。


 石上竜吾はトカゲになっていた。


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