少女奇譚

克己司

第1話

死詰草


三月 十五日 午前十時十二分 自室


花が咲くのが嫌いだ。

草木が芽吹き、雨が降り、雲が去ると太陽が火出る。懸命で、いじらしくて、可愛そう。何度も希望と変化を繰り返す、春。不安を揺り返す季節の折り目。多くの人が評するように、私にとっても、春は美しい。今の私にはなく、過去の私は持っていた、命の力強さを嫌悪する。

近いとは言い難い窓越しからも見える大きな桜の木の元にユキくんの通う高校がある。

ねえ、あなたは子供の頃誰かに見られている見られている感覚は、なくなった?

「夏休みまで、あと五ヶ月」

ユキくんはオカルトが好きだ。超常現象とか、未解決事件とか、いそうにもない生物とか。ーー中でも、ありえそうもない非現実的な怪談話は好きなようだった。ユキくんは、趣味に没頭できる人で、高等部にはいってからは似た趣味の友達も増えたみたいだった。滅多にユキくんと話すことがなくなって、寂しいけれど、高校最後の夏休みのプレゼントは誰よりも喜ばせることができると思う。ーーーきっと、またわたしを見てくれる。だから、じっと、真っ白な天井を見つめた。

誰かが私を見つめ返していた。その誰かは、次第に輪郭をはっきりさせ、女性であることや、私の知っている人であることがわかっていく。

彼女のこと、写真で何度も見せられたことがある。艶やかな色白で、切長の目に濡れたようなまつ毛をとろす、極めて印象的なのが、整った人。

額にぽたり、と天井から一粒、二粒と、時計の針を刻むように、ねっとりと生暖かい水滴が私に落ちる。ああ、彼女が落ちてくる、私の中におりてくる。頬に落ちた水滴をなぞると墨汁のような黒に、朱色がてらてらと光っていた。

私と絡まり合うように彼女と心が混ざる。沈黙が続けばわたしと彼女の境界線がなくなそうで、恐ろしくなる。じっくり、すり潰すような威圧的な声で、幼少から幾度も重ねた言葉を問いかけた。

「あなたは、誰」

「トウカ」「それは、私の名前よ」 「貴女はわたしですもの」緩やかに穏やかに、愛する子供をあやすように囁く。吐息のような声だった。じっとりとわたしの中に重さが増したように思えた。ユキくんは、今のわたしを好きになってくれるだろうか、好きになってくれたとして、それは、私ではなく、この女というオカルトを好きなるというのだろうか。

それだけは、堪忍ならない、許せるものか、渡せるものか、この心身は私のものだ。ユキくんに好かれるのは、私だ。私だけしか許されない。だから、こんな異常にも向き合っているのに、呑まれてなるものか。

早く、早くこの苦しさを終わらせたい。トウカは私によく似た顔で、優しく私の頭を抱えるように影を伸ばす。それは、あまりに優しくてまどろみにのまれたかった。

「お祖父様のいうとおりになんてならない」声は出ていなかったのかもしれない。脳の中で何度も繰り返される自分の声がいたかった。それをよく知っているように、トウカは応えた。

「楽になって良いのよ」

何を意味するのか。お祖父様の言いなりになれば良いと言うのか、黙って呑まれろというのか。このままでは、いけないと喉を掻き切るように爪を立てた。鼓膜を破くように頭部を殴った。ガラスの割れる音がした。手が熱い。喉があつい。ジジジと電気ケーブルが焼けるような音を聞いた。それから一瞬なのか、それとも、しばらくなのか、眠っていたようで、次に天井を見上げた時には不安気な表情の兄と、屋敷付きの最年長のメイド長がベッドの横に座っていた。

「お目覚めですか、陶花様」

私は答えられず、代わりに血と痰が絡む惨めたらしい音を聞いた。侍女は掃除でほこりをはたくような、事務的に、無駄のない動作でおつまみのさきいかみたいにしわしわに剥がれた首の皮膚に、薬を塗り当ててくれていた。

「絃一郎様もいらっしゃってますよ」

兄だった。侍女の後ろで蒼白としていた。

「やめよう。陶花。痛ましい。死んでしまったらどうする。僕達、橘の家で女に生まれたのなら、もう、逃げられない。だったら、今の生き方の幸せを見つけた方がいい」

今の幸せとはなんだろうか。狂った初代の、妻への歪んだ愛情が起こした、異常の達成とでもいうのか。ふと床に視線を落とすと、百合のガラス照明が粉々に散っていた。この部屋で唯一、好きなものだった。

「お兄様、質問があります」

焼けたような声だった。兄は嬉しそうに体を近づけて、優しい声で言った。

「なんだい、僕が知っていることならなんでも」

「本当?嘘をついたり、しらんぷりしたりしないって誓える?」

「そんなことをするものか。なんでも答えるさ。そのために、学校にあまりいけないお前の分も、勉強しているんだ」

「約束よ。嘘だったら・・・一つだけお願いを聞いて」

「お安い御用だよ」

きっと本心からの言葉。重さを含んだ息だった。だから私も、本当の願いをぶつけようと思えた。

「お母様のお味噌汁、味知ってる?」

いつも、兄は優しすぎる。

私の無理をどうにかしようとするのだろう。沈黙が答えを物語った。知りようもないし、知るはずもない。あのスープを飲めるのは、橘直系の女だけだ。

何十年だか前の、死んだ人間の脳みそを冷凍しておいて、小さく切って、溶かして、何十年に一人しか産まれない直系女児を選んで、飲ます。この家を一代で築いた大昔の祖父の妻、橘陶花。彼女をもう一度存命させるという異常妄想のためにの負の連鎖。

「お願いと、言うのはなんだい」

私は、眼球だけを動かして窓をみた。桜が風の踊らされていた。

「旅行にいきたいの」

それを見た兄は、ゾッとしたように顔を歪め、嫌悪感を隠さず立ち上がり、カーテンを閉め切った。窓の前で仁王立ちするようにして私を見下ろしていた。怒りも嫌悪も、私へ向けてではない。

「あいつの記憶の中に、もうお前はいない」

疫病神め、と兄は吐き捨てるように言った。

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