空虚の森
双三 ナツク
第1話 ピエロの脱落 1
20XX年5月1日(日)
「大丈夫、何とかなる、どうにかなるよ…大丈夫、何とかなる、どうにかなるよ…大丈夫、大丈夫、大丈夫…」
囁く声が狭い路地を通り抜ける。その女性は路地を抜けると、足早にとあるビルの階段を登って行く。
階段の先には〝タキモト便利屋〟と書かれた看板が立て掛けてあり、その横に木目調のドアがある。ドアノブに手を掛けた女性は、指先の震えを感じ、立ち止まる。
「大丈夫…」
御守りのようにその言葉を呟き、一呼吸すると、やっとドアを開けて中に入った。ドアを開けると鈴のようなものが〝チリン〟と音を鳴らす。フロアの中では、ピアノのBGMが控えめに流れていた。
「あの…すみません」
弱々しい声に最初に反応したのは、入り口から最も近い席に座っている
「あ、こんにちは。お客さんですか?」
「あ、はい…」
伊谷の遠慮の無い軽い調子の声と、Tシャツに作業着風のチノパンというラフな服装に、少し緊張が解ける。
「どうぞ、ソファにお掛けください」
そう言って、奥から小走りにやって来た
促されるままソファの中央に腰掛けた女性は、鞄を横に置き、長いしなやかな髪を耳にかけると、茶を持ってきた苗野に軽く会釈をして「ありがとうございます」と小さく言った。
「今担当者が来ますので、こちらのカスタマーシートを記入してお待ちください。書ける範囲で構いません。」
苗野がそう声をかけると、女性は「はい」と聞こえるか聞こえない程の声で応え、目を合わせず口元だけほんの少し微笑んでみせた。
その様子を見て、それまで自席でPCを弄っていた
「
「杏野が?他に仕事あるだろう。
豆から挽いたコーヒーを啜りながら滝本が応える。このタキモト便利屋の最高責任者であり、創立者だ。長身で端正な顔立ちをしている。
「萌じゃ役不足だ。彼女(客)の目を見ればわかる。」
「なになに?私がなんだって?」
二人の会話に素っ頓狂な声で割り込む
「俺は役不足だとは思わないよ。萌、お前が対応してくれるか?」
「うん?勿論良いけど。なんだい?この殺伐とした空気は。」
「…よしわかった、昼飯を奢ろう。だから私が行く。では。」
杏野は強引に話をつけ、女性客の元へ向かう。
「おう、行ってらっしゃ〜い」
呑気に手を振る萌。
「勝手だなあ…」
滝本はそう呟き、呆れた顔で溜め息を吐く。
「お待たせしました。初めまして、杏野優と申します。」
俯き、どこか放心状態の女性に声をかける杏野。名刺を差し出す。
「あ…どうも、よろしくお願いします。」
少し腰を上げ名刺を受け取る女性に「どうぞ、楽にしてください」と杏野が付け足す。
綺麗なクセの少ない字で丁寧に記入されたカスタマーシートを受け取り、目を通す。
◆依頼主/
◆職業/通信業、営業部
◆相談内容/ストーカー被害に遭っており、困っています。
「木元さん…ストーカー被害に遭われているんですね。」
「はい…あの、警察にも行ってみたんですけど、特に何も、対策はして頂けないようでしたので…それで、自宅のポストに入っていたダイレクトメールを拝見して、こちらに…」
ダイレクトメールを一から作成し、周辺の地域一帯に3日かけて自転車でポスティングをした伊谷が、小さくガッツポーズをした。
「そうですか。警察が動いてくれないとなると、ストーカーの正体がわからない状態でしょうか…具体的な被害を教えて頂けますか?」
「あ、はい、そうなんです。一体誰がこんなことをするのか…見当も付かなくて…。丁度、2週間前くらいからなんです。仕事が終わるのがいつも大体終電の時間になるんですが、日野駅を出て歩き始めると直ぐに、人影が付いてくるんです。」
「人影…顔は見ていないんですか?性別は?」
杏野はメモを取りながら真剣に話を聞いていた。
「多分、男の人です。顔は見ていません。徒歩7〜8分の距離なんですが、歩いている間ずっと、足音が付いてくるんです。私が止まると向こうも止まって、私が歩くと向こうも歩き出すんです。昨夜、〝おい〟と低い声で話しかけられました。私は、怖くて振り向けなくて、走って帰ったんです。」
黙ってメモを取る杏野。
「それで、今朝、ポストを見たらこんなものが…」
木元純香は鞄から紙切れを取り出すと、杏野に見せた。10㎝四方程のその紙には赤いインクのペンで大きく〝思い出せ〟と書かれていた。利き手では無い方で書いたのだろうか、随分崩れた字だった。
「思い出せ、ですか…何か心当たりは?」
「…ありません…」
「ストーカーになり易い関係性としては、元恋人、職場の人間、友人などですが、何かトラブルや、逆に好意を寄せられていると感じることはありませんか?」
「いえ…いや、どうでしょう…そう言われれば、昔に別れた恋人とちょくちょく連絡は取っていますし、復縁を持ちかけられた事もありますが、彼は…こんなことをするタイプでは無いので…やっぱり、有り得ません、すみません、彼では無いです。今の話は忘れてください。」
「…」
杏野は一呼吸置いてから続ける。
「ストーカー被害について、警察以外に、誰かに相談されましたか?」
「…いいえ。友人には迷惑をかけたく無いし、親は過度に心配するので…今、恋人は居ませんし。」
暗く沈んで行く木元純香の表情を見つめる杏野。
「そうですか。わかりました。では、本日から木元さんの警護を始めて、ストーカーの正体を調べ、証拠を押さえて警察に提出し、相手への警告をして貰う。それが叶わなければ、弊社で警告を行うという流れで宜しいでしょうか。」
「あ…はい」
木元純香は早い話の展開に少々面食らいながらも、警護して貰えることに安堵の表情を見せた。
「先ずは1週間、私と、今不在ですが
連絡先を交換する杏野。其処へ滝本が現れ契約書を差し出す。
「1週間の警護ですと、こちらの料金になります。全額現金で契約終了時にお支払い頂きます。延長なさる場合は契約更新する事が可能です。その他注意事項等を記載しておりますので、確認の上、宜しければ此処にサインを。」
滝本は穏やかな声で話すと、「杏野」と目配せをしてデスクの方へ杏野を呼び寄せる。滝本のデスクの裏にしゃがみ込む二人。
「何」
「勝手に人員配置を決めるんじゃない。網河も杏野もどちらも今月は仕事が詰まってるだろう。警護を付けるなら萌と
小声で話す滝本。花山は男性従業員で、本日は不在だ。
「花山は目付きは怖いけど、いざって時上手く戦えるのは網河だろう。それに萌は尾行が下手だ。」
冷静な口調の杏野。
「戦う必要は無い。腕では無く頭を使って解決しなくては。」
滝本は自身の頭をとんとんと指先で指し示す。
「ナイフ持ってたらどうすんだよ。」
「大声出せ」
「刺されたら無意味だろう。それに彼女には、闇を感じる。萌と花山じゃ見抜けないような気がする。」
「闇??またそれか…萌も花山もお前より先輩なんだが。」
「ほぼ同期」
「入社は約1年違う」
「細かいな」
無言で見つめ合う二人。
「よしわかった、昼飯と、夕飯も私の奢りだ。これで文句無いだろう。」
「無いわけ無いだろう。何もわかってない。大体俺はここの最高責任者で」
「まあまあまあ、お二人さん、仲が良いのはもう充分にわかったからさ、やめなよみっともないよ、大人の口喧嘩は!」
これまた素っ頓狂な声で間に割って入る萌。
「そ、そうだよ、やめなよ優…」
ハラハラと事態を見守っていた苗野実も口を挟む。
「
「勝手を言っているのはお前だからだろう」
滝本はそう言うと立ち上がり、木元純香の様子を伺う。まだ注意事項を読んでいるようだ。几帳面な性格らしい。
「礼、頼むよ…自分の仕事はきっちりやるから。なんなら深夜手当も要らない。」
「…」
コーヒーを啜る滝本。
「何故そこまで?」
「私の生き甲斐だから」
「よし、わかった。杏野と網河が1週間ストーカー対策の警護に着く。萌と花山が超過した二人の仕事を山分け。変更しておくから、各自予定表を確認しておくように。あと、深夜手当は勿論付ける。それでいいな?」
「いい。最高。好きだよ礼。」
杏野は単調な声で言う。
「
杏野は満足気に木元純香の元へ向かう。
「あらあら、滝本礼も優には勝てないって訳だね?好きだってよ。嬉しいだろ?この色男」
ニヤニヤしながら萌が滝本の肩を肘で突く。
「甘いよな、俺は…」
落ち込む滝本。椅子に腰掛けると勤務予定表を組み直す。
木元純香はと言うと、まだ契約書を読んでいるのだった。杏野はゆっくりと対面に置かれたソファに腰掛ける。
「何かわからないところはありますか?」
「あ、いえ…今、読み終わりました。ここに、サインですよね。」
サラサラと丁寧な字で記入する。
「大丈夫ですよ、木元さん。安心してください。」
優しい口調で話しかける杏野。
「あ…はい」
「何か不安なことがあれば、気軽に連絡してください。遠慮は要りませんから。」
杏野はその日一番の笑顔を向ける。
「はい…あの、ありがとうございます。」
木元純香は泣きそうな顔でお礼を言った。
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