第49話「合理的でない理由」

 俺が目を覚ましたのは、深夜のことだ。

 そろそろ日をまたぎ、翌日になろうかという頃のことだった。


 起きたのは、カーラさんが部屋に入って来たからだ。

 と言っても、俺の部屋にじゃない、医務室にだ。

 

「ごめんなさいね、ジロー。起こしてしまったみたいで……」

「いえ、いいですよ。まだする作業があったんで、正直助かりました」

 

 膝にかかっていた毛布を椅子に置いて立ち上がると、俺は暖炉の傍に置いてあったふたつのケトルのうちのひとつの中身をお玉でかき回した。


「……それは?」

「片方はお湯、こっちは鶏のコンソメ・ドゥコンソメ・ボライユを煮たてた野菜たっぷりのスープです。回復食ですよ。目が覚めたらきっとこいつ、何より先に『お腹減ったあああーっ』って騒ぐはずなんで」


 普段だったらもっと脂っこい、カロリー高めのを求めるはずだ。

 でもきっと、今度ばかりはそうじゃない。

 何せこいつは……。


「もう3日になるんですね……」


 ベッドの上で昏々こんこんと眠り続けるセラを、カーラさんは心配そうに眺めた。


「……ねえ、ジロー?」

「なんです?」

「その……セラが目覚めるまで、ずっとあなたはこうしているつもりなんですか? 昼間は厨房で働いて、夜になっても自室には戻らずにこの部屋で朝まで過ごして? それじゃあ、体がまったく休まらないじゃないですか」


 うん、まったくその通り。

 この生活は、そんなに長いことは続けられない。

 だが、だからと言ってやめるわけにもいかないのだ。


「だって……ねえ。あまりにもな異常事態なわけじゃないですか。フレデリカの時はすぐ翌朝に起きて、いきなり飯を食い出したこいつが、今回にかぎってはご覧の通り。いつまで経っても起きやしない」

「……」

「水はガーゼに含ませることでなんとか……でも、食い物に関してはどうにもならない。点滴出来る技術でもありゃあブドウ糖液辺りを作って静脈から直にぶち込んでやるんですが……それも出来ない。ねえ、知ってますか? 人間てね、絶食状態に置かれると体内の栄養素をどんどん分解していくんです。グリコーゲン、脂肪、筋肉と、大事なものが順番に失われていく。1週間もすると免疫システムが衰え、様々な病気にかかるリスクが急上昇する。3週間も経ちゃあほぼほぼ死亡ラインだ。もし生き残れたとしても、体に重い障害が残る可能性があって……」

「ジロー……!」


 よほどヤバい顔をしていたのだろうか、カーラさんは声を荒げながら俺の手首を掴んだ。


「……ああ、すいません。とにかく言いたいのはね、俺はここにいなきゃならないんだってことです。目覚めたセラに声をかけて、体調を確認して、的確な回復食を迅速に与えなきゃならないんだってことです」

「だったらジロー、わたしに何か出来ることがあるなら言ってください。あなたが背負いこんでいる荷物のいくつかを、負担させてください。こういう言い方はどうかと思いますが、それであなたに体を壊される方が、よっぽど迷惑です」

「ああ……なるほど……」


 カーラさんの、これ以上なく正しい指摘。

 優しさから発露はつろしたのだろうそいつが、ズドンと胸の奥にきた。


「んー、それなら……ねえ、シスター長。もし今後万が一、俺がいないタイミングでセラが起きたとしたら、ふたつのケトルのうちのお湯の方をゆっくり与えてやってくれませんか? 決して急がないで、少しずつ。その間に誰かを寄越して呼んでもらえれば、俺はどこにいたって全力で駆け付けますんで」

「わかりました。任せてください」

「お願いします」


 小なりとはいえ自分の仕事を誰かに託せられた、俺はほっとしてひと息ついた。

 

「……」

「……」

 

 ふたり並んで椅子に座った。

 しばらく黙って、セラの顔を眺めていた。

 ぱちぱちと薪が弾ける音と外を吹き荒れる風の音だけを、ゆっくりと聞いていた。


「……たいしたもんですよね。こいつ……まだ10歳なのに、ふたりの人間を救って。ねえ、手なんかほら、こんなに小さいのに……」


 いつの間にか毛布の外に出ていたセラの手をそっと握ると、俺はしみじみとつぶやいた。


「双子を救い出したタイミングはね、決して遅くはなかったんです。ビーコンなんて存在すらしない文明レベルで、あれだけの広大な範囲を捜索して探し当てるなんて、奇跡と言ってもいいレベルです。でも……それでもたぶん、あのままいったら双子は死んでいた。呼吸が無く、意識が無く、骨や内臓の一部がやられていた。俺のいた世界の医術ですら助からないような状態だった。にも関わらず……」

「『癒しの奇跡』が特別視される理由です。決して治らないだろう病や怪我をも癒やす、本当に奇跡のような力なんです」

「……でもその分、代償も大きい」

「……ええ」


 セラの手を毛布の中にしまうと、俺はまっすぐにカーラさんの顔を覗き込んだ。


「セラが成長して、もっと体が大きくなって、力の制御が出来るようになれば……少しは変わりますか? 負担が減って、楽になりますか? 歴代の聖女様の中でふたりだけ同じ能力を持っていた人がいたそうですが、その人たちの場合はどうだったんですか? その……早死にしたとか、そういう……」

「伝承によるならば、1日で10人の患者を癒したこともあったそうです。具体的な負担についてまではわかりませんが、相当な長寿でいらしたようです。おふたりとも、100歳を過ぎてから天に召されたという風にうかがっております」

「……そうですか」


 おそらく気休めではないだろう、カーラさんのよどみ無い返答に、俺は心の底からホッとした。

 じゃあ大丈夫、と楽観視出来るわけではないが、未来にあるのは絶望だけではないのだ。


「ねえ、ジロー。あなたはどうしてそこまで、セラのために働けるんですか?」


 またしばらくの間を置いて、カーラさんが話しかけてきた。


「……どうして、とは?」

「だって、そうでしょう。元々こちらの世界の住人でないあなたにとって、セラは赤の他人じゃないですか。同じ修道院に所属している、きゃあきゃあ騒ぐ子供のひとりにすぎないじゃないですか。にも関わらず、どうしてなのかと。……ねえ、もしかして、この間のあれが関係しているんですか? あの日、双子が雪崩に巻き込まれた日。セラの身に危険が及んだかもしれないと思ったのだろうあなたはたしか、こう言ってましたよね──」


 ──くそバカ野郎が! 別の世界に来てまでなにやってんだ……っ!

 ──ご大層にフラッシュバックなんぞしてんじゃねえええええ! 被害者面して苦しんで、自己満足に浸ってるだけだろうが! 誰かに慰めてほしくて必死か!? ふざけんな!

 

 あの日、フラッシュバックに負けてしまいそうな自分を叱咤したあの言葉を、カーラさんはしっかり聞いていたらしい。


「もし差し支えなければ、聞かせてもらえませんか? あなたのことを」


 そう締めくくると、カーラさんは俺の返事を待つ姿勢に入った。


「俺のことを?」

 

 人間性に深く踏み込んだ質問だ。答えるも答えないも自由。

 だけど、避けるわけにはいかない質問だと感じた。

 あの日あの夜、答えられなかったあの質問の、これはきっと、続きだから。


「……わかりましたよ。そこまで言われちゃ断れませんや」


 やれやれと頭をかくと、俺は語り出した。


「以前に言ったことがあるかと思うんですけど、俺の師匠のドニって人は、けっこうな暴君だったんですよ。自分の作ったカリキュラム以外は認めない、自分のふるいを生き残れなかった奴は認めない。今で言うなら完全なパワハラ……まあ問題になるわけですけど……当時はそれが、まだ許されるような風土があった」


 俺のいた世界とこちらの世界では、細かなニュアンスが伝わらない部分があるかもしれない。

 だけどそこは、勘弁してください。

 心の中で謝りながら、俺は続けた。


「俺の同期の連中もまあー……その辺はボロクソ言ってました。何せ料理界のエリート気取ってる奴ばかりでしたからね。極限のサバイバルや、身寄りのない孤児たちへの慈善事業ばかりやってないで、もっときちんとした技術を教えてくれって騒いでました。次席のアンなんかはホントにすごくて……毎日毎日、不平不満ばかり言ってました」


 俺は目を細めた。

 辛かったけど、苦しかったけど、楽しくもある日々だった。

 

「そんなこともあって、けっこうな数の同期が辞めていきました。最初50人近くいたのが、最後は10人ぐらいにまで減ってました。でも俺は、しぶとく残ってた。日本から単独で渡って、今さら引き返せないってのもあったけど、それだけでもない。単純に信頼の問題です。俺はねえ、ドニの意見に同意出来たんですよ」

「……それほど理不尽な目にあわせられていても、なお?」

「ええ」


 俺はうなずくと、小さく笑った。

 遥か異世界でこんなことを話している自分がおかしくて、しかたがなかった。

 

「俺の家はね、4人家族だったんですよ。親父とお袋、俺と妹の霧。最初はずうっと仲が良かった。笑顔が絶えなくて、毎日楽しかった。でもそれが、ある時から変わっていった。聞けば、最初は親父の浮気からだったらしいんですがね……。ともかくいつの間にか、氷点下まで冷え切った家庭になっちまった。そんな中でも俺と霧は仲良くやっていました。当時俺は9つで、霧は5つで、とにかく甘えん坊でね、いつも俺にべったり甘えてばかりいて……それがでも、両親の離婚をきっかけに離れ離れにさせられた。男である俺は親父と共に家に残り、女である霧はお袋と共に出て行った」

「……」


 カーラさんは真剣な顔で俺の話を聞いている。

 突如明かされた重い話に引いているのだろうか。

 でもまあ、構うもんか。

 こんなの今さら、引っ込められるもんじゃない。


「当時はね、なんせ子供だったから。すぐにも再会出来ると思ってたんですよ。いつかは会えるって思ってた。でも、会えなかった。実際にはね、もう二度と」

「……会えなかった?」


 カーラさんの顔が、ギシリと強張こわばった。


「電話しても通じない。手紙を出しても返事が届かない。どうしたんだろうと怪しむ間に時間だけが過ぎていって……ある日、うちに警察が来たんです。そいつらはね、霧が死んだって言ってました。お袋が子育てを放棄して他の男のところに入り浸りになって……ひとり家に取り残された妹が餓死したんだって」

「……っ」


 カーラさんは息を呑み、口元に手を当てた。


「あいつが死んだ部屋……。どうも閉じ込められてたみたいなんですけどね? 霧にまで逃げられたら絶望しちまうからって、このコだけは傍に置いておこうって、お袋が外から鍵をかけたんですって。もうホント、何言ってんだって話なんですけど、ともかくそうなんですって。それでね? その部屋にはあちこちに傷跡があったんですって。壁に、柱に、床に……爪で引っかいたような文字が刻まれてたんですって。ねえ、なんて書いてあったか、わかりますか?」

 

 ──おなかへったよ。

 ──さむいよ、こわいよ……。 

 ──ねえ、おねがい。

 ──たすけてよ、おにーちゃん。


「………………腹が立ちました。そんなことをしたお袋に、事の発端である親父に。でもね? 一番腹が立ったのは、自分自身になんです。どうして気づいてやれなかったんだろうって。電話で済ませずに、手紙で済ませずに、どうして足を運んでやれなかったんだろうって。そうすればもしかして、霧を救えたかもしれないのにって。お腹を空かせたあいつに、何か食べさせてやれたかもしれないのにって。ずっとずっと、考え続けて……」

「それがもしかして……?」


 カーラさんはハッとしたような顔をした。


「ええ、その通りです。つまりはね、それが俺の出発点なんです。美味い料理を作って、子供たちに食わせてやりたい。最高に美味しいよって、喜ばせてやりたい。そして願うならば、この世から飢えそのものを無くしたい。そういった意味で、ドニの思想に共感出来たんです」


 言いながら俺はそっと、セラのお腹の辺りを撫でてやった。


「こいつはね、いちいち霧とかぶるんですよ。俺が最後に見た霧が5つで、こいつがここに来たのも5つの時で。霧もこいつも、お腹が空くと泣いて、俺にべったり甘えてきて……もし霧が生きていたら、こいつみたいになってたんじゃないかって思うんです。『おにーちゃんの作った料理、おいしーようっ』って、こいつみたいに頬を染めて喜んでくれるんじゃないかって思うんです。俺がこいつにこだわるのはね、だから決して褒められた話じゃないんですよ。だってただの代償行為だから。こいつの面倒を見ることで、贖罪にしようとしているだけだから」

「そんなことない……」

「将来的に、こいつがどういう大人になるのかはわかりません。『癒しの奇跡』を行使する立派な聖女様になるのか、はたまた何かのタイミングで力を失って、普通の人間として生きていくのか。わからないけど、出来る限りの面倒を見てやりたいと思ってます。こいつが俺の世話を必要としなくなり、ここを巣立っていくギリギリまで。その時こいつは、たしかに泣くかもしれませんよ? 騒いで、暴れるかもしれませんよ? でも、俺の料理の味は覚えているはずです。遥か王都に行っても、きっと頭の中に幸せの味として残り続ける。それは救いになるじゃないですか。過酷な仕事に苦しんでいるさ中でも、酷い人間関係に悩んでいるさ中でも、それさえ思い出せれば、ほんの一時、懐かしいあの頃に帰ることが出来るじゃないですか。決して合理的とはいえないかもしれないけど、料理ってのはそういうもんだと俺は思っていて……」

「そんなことないです! ジローは立派です!」


 突然、カーラさんが声を荒げた。

 顔を真っ赤にして、俺の手を掴んで来た。


「え、え……?」

「あなたは立派な人間です! 理由はどうあれ、動機はどうあれ、その行いは正しく評価されるべきものです! だからご自分を、そんなに責めないでください! お願いだから……!」

「シスター長……」


 カーラさんは涙を流していた。

 白皙はくせきの頬を伝い落ちる涙はとても綺麗で……俺は思わず見とれてしまった。


「あなたのお気持ちは十分に伝わりました! あの夜、あなたに聞いた質問への答えはこれで十分です! あなたにはセラといるべき合理的な理由がある! あなたにとっても、セラにとっても、これからの4年間は大切な……! 大切な……っ!」


 自分の感情を制御し損ねたのだろう、カーラさんは上体を折ると、両手で顔を覆った。


「ちょ、シスター長……っ?」


 俺は動揺して、なんとかしなければならないとその肩を抱いて……。

 

「……う」


 誰かが何かをつぶやいた。

 それは俺でなく、カーラさんでもなかった。


「……う、う」


 驚いて声のほうを見ると、セラとばっちり目が合った。

 ベッドの上で上体を起こしたセラが、大きな目をまん丸に開きながらこちらを──カーラさんの肩を抱く俺を見ていた。


「浮気だああああああああああーっ!?」

「いや、ちょ、待て、おまえ……っ?」

「ジローがカーラさんと浮気してるうううううっ!?」

「待て待て待てっ、いきなり何を言ってんだっつうかおまえ体の方は……!?」

「セラとゆーものがありながら、仲良く抱き合ってるうううううううっ!?」


 今まで眠り続けていたのが嘘みたいなハイテンションで、セラは騒ぎ出した。

 

「わた、わた、わたしと……わたしとジローが……っ? そんな……えっ……わたしたち、いつの間にそんな関係に……っ?」


 カーラさんはなぜだか急に動揺して顔を真っ赤にして、自らの体をかき抱いた。


「落ち着いてくださいシスター長、セラのペースに乗せられないでっ! 俺たち全然始まってませんからっ!」

「おかーさんの言ってた通りだ! 『男はケダモノで、女のことを食後のデザートぐらいにしか思ってないんだから気をつけるのよ』って! ジローはデザート感覚でカーラさんをパクッと食べたんだっ!」

「おまえのおかーさん語録さあああーっ!」


 なんとかセラを大人しくさせようとする俺と──

 委細いさい構わず騒ぎ立てるセラと──

 少女みたいに動揺するカーラさんと──


 騒ぐ俺たちのところへ、次々にシスターたちが集まって来た。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る