第三章 エリザ・アロノワ

 誰の思いが強いとか、それによって結末がどうこうとか、そういう世界の話でないことは明確だった。どんなに強くても届かない思いはある。それは奏多が体験した、4月から数ヶ月の間の絶望の日々だったり、私が体験した1週間の焦りに満ちた期間だったりを見れば一目瞭然である。

 有森千聖の死が確定した段階で、私の思いが届かないことはほぼ確定したと言っても過言ではなかった。本当はこの1週間で奏多の心を少しでも自分の方に振り向かせて、円満に千聖への思いを断ち切らせて一緒に死神の夫婦になるという予定だった。私の中では。私にならできると思った。わかりやすい奏多のことは大体お見通しだったし、奏多のことを世界で一番好きなのは私だという自負があった。でも、それは過信だった。千聖がこの期間に死んでしまうことは想定外だったし、そもそも私は奏多の往生際の悪さを測り違えていた。

 だからといってどうすれば良かったのか、という反省も今はいまいち浮かばなかった。

 ただただ千聖の遺体、千聖だったものの前で泣きじゃくる奏多を正面から見下ろすことしかできず、私は虚しさだけを抱えて立っている。

「回収するのよ、奏多」

 私の言葉に奏多はハッとして顔を上げた。

「最後の見送りは貴女に任せるわ。千聖を、送ってあげて」

 努めて優しい声でそう奏多に告げると、奏多はしばらく泣きじゃくっていた。現世の時を止めて、というよりは自分たちを時の干渉を受けない空間に送り奏多が泣き止むのを待った。やがて奏多は覚悟を決めたのか、目の前に鎌状のグリムを発現させ、それを力強く握り締めた。嗚咽を漏らしながらのろのろと立ち上がる。その動きは躊躇しているというよりも肝を据えた者の挙動に近かった。私は現世の時を再び動かし始める。奏多はゆっくりとグリムを持ち上げる。そして彼女は叫びながら思い人の遺体に切っ先を突き立てた。その体から魂が輝きながらグリムに吸い込まれ、最後は刃先を通って浄化され、その魂は天に登って行った。千聖の魂は無事送られたのだ。

 奏多はグリムを持ったまま、千聖の遺体からようやく顔を外し私の方を見やった。そして胃まで響きそうな冷たい声で「これで満足?」と言い放った。私は何も言えず立ち尽くしていた。

「ねぇ、こうなること、最初から貴女はわかっていたんでしょう?エリザ。わかっていて、それで千聖が死ねば私が貴女を好きになると……そう思って! 本当に! 貴女は汚い!」

「違うわ奏多」

 やっとの思いでそう絞り出す。奏多の耳には届かない。

「だから千聖を助けるために旅に出た3日間あんたは何もしてくれなかったんだ! あたかも千聖が地震で死ぬみたいなことを言って騙して! 地震なんかじゃないじゃない! 嘘つき!」

「あの日は私は……」

「貴女は千聖を見殺しにした! 知っていながら何もしてくれなかった! 自分のことばっかり考えて、何も……この、人殺し!」

 何も言えなかった。どんな言葉を尽くしても、もう奏多の心は私のものにはならないんだ。それだけはわかった。でも、だったら、もういいか。自分の心の中の重い枷が外れるのを感じた。

「じゃあ、奏多は何ができたの? 何をしたの?」

 私がそう漏らすと、奏多が私を睨み付ける。

「千聖のことを本当に好きなんだったら、もっとできることがあったんじゃないの。彼氏ができる前にアプローチすれば良かったじゃない。それだけでも運命は変わった。確実に! 結局奏多はね、自分で自分の限界を勝手に決めて楽な方へ楽な方へ流されていただけなのよ。カミングアウトして嫌われるかも知れない、受け入れてもらえないかも知れない、そんな筈無いじゃない。奏多は千聖のことも何一つわかっていないし、自分の中の理想の千聖像を千聖に勝手に当てはめて独りよがりしていただけなのよ。千聖が奏多のことをそんな簡単に嫌う筈無いじゃない。今回の旅だってそう。千聖が何と言おうと千聖をこの地に返すべきじゃないなんて貴女が一番わかっていた、でもそれをしなかった。運命に抗わなかったのは私じゃない、奏多、貴女自身なのよ。私は自分の責任を逃れるためにこんなことを言っているわけじゃない。私を人殺し呼ばわりするなら、奏多だって同じよ。貴女は何一つ抗っていない」

 奏多は絶句していた。もう終わったな……と思いながらも私は彼女の瞳から目を逸らさなかった。奏多との恋路、私と奏多との関係性、そういったものが終わっていく。ガラガラと音を立てて崩れていく。

「奏多、千聖が言っていたじゃない。自分の頭でこれからどうするのか考えるのよ。奏多には、生きている奏多には、それができる。自分がどうしたいのか、何ができるのか、もう一度考えてよ」

 千聖の遺体を挟んで必死に話し合う私たちは、どちらも顔はもう涙でグシャグシャだった。

「じゃあ、千聖を生き返らせてよ……そうしたら、今度はもっと上手にやって見せるから。もう、絶対に死なせたりしないからぁっ」

「それは、できない。人間の運命を改変すること……リエクリアは許されていないわ」

「どうすれば、私はっ……」

 私はうずくまる奏多を見下ろしながら、考えていた。この3日間、神の世界で上官に千聖の運命を回避する方法を問い続けた。上官には「お前が消えてもいいならそうするけどさぁ」としか言われなかった。私が消えれば、あるいは、可能なの……?

 死神の世界の最大のタブー、それは現世の人間、神、いずれにしても、定められた運命を改変すること、リエクリアだ。このタブーを独りよがりに犯したものは、記憶からも記録からも存在を消されてしまう。恐ろしいが、これしかもう突破口は残されていないように思われた。

 あるいは3日前よりさらに時を戻して奏多を誘導し千聖の運命を回避する? いや、それも死神には許されてはいない。死は免れられないだろう。ここ以外の世界線に移動して奏多の意思を入れ替える? それを行ったとしてももうここの世界の千聖は助からない。世界線が違えど奏多という存在がショックを受けることに変わりはない。

 どうすれば、どうすれば奏多は救われるんだろう。

 結局、起こってしまったことに対して、本人の意思以外で救いを求める方法は無いのではないだろうか。

 その時。

 私たち二人のカインがけたたましく鳴り響いた。

「これから亡くなる人の魂の回収に行かなくちゃ。奏多、来なさい」

 奏多は頭を垂れたままだった。

「もういいよ。このまま私も仕事放棄して消えるよ。どうせ人は死ぬと消えちゃうんでしょう? だったらちょうどいいよ。私も千聖と、一緒に消えるよ」

「……奏多は、どこまで私を傷つければ気が済むの?」

 苦しく笑顔を作って、そう言ったけれど、奏多は私のことなんて見ていなかった。そうだね、彼女は最初から私のことなんて、見ていなかったんだ。


*****


 思い出す3年前、死神の学校を卒業し初めて現世に仕事を貰ってこの地域に飛び出した日のこと。神様の世界では見たことのない大きな一本杉に気を取られて近付くと、その近くを俯いて歩いているセーラー服の女の子に出会った。その姿はそれまで死神の学校で浮いていた自分の姿と重なっていて、彼女から次第に目が離せなくなった。人と接するのが苦手で、でも優しくて、ひょうきんな一面もあって、掴み所の無い彼女、尾上奏多に私は夢中になっていった。初恋だった。でも彼女には既に好きな女の子がいた。すぐにわかった。

 奏多とは対照的に、人当たりがよく、器用に物事をこなし、事なかれ主義、所謂どこから見ても普通の女の子、有森千聖がその相手だった。最初はお人形のように美しい奏多と凡庸な千聖じゃ全然釣り合わない、そう思っていた。あんな普通の子が……と二人に憤りすら感じていた。しかし1年、2年、長く見ているとわかった。二人は二人だからうまく関係を運べているし、二人だからちょうどいい距離感で付き合い続けられているのだ。千聖は誰よりも、独りぼっちの奏多のことを常に気にかけていたし、奏多はそんな千聖を全面的に信頼していた。美しい友愛の形だった。

 しかし奏多は千聖に対し恋情を抱いてしまっていた。これが大きな変化に繋がっていく一つの始まりだった。奏多は最初から千聖が異性愛者であることは知っていた。だが気持ちが止められなかった。その気持ちは奏多の中で徐々に肥大し、収まり切らなくなった部分がねじ曲がり、徐々に自分でも収拾がつけられなくなっていく。それは奏多に言えることだったかも知れないが、私も同じだった。奏多を思うと切なく苦しくなり、彼女に思われている千聖に嫉妬し、私に気付きもしないで千聖にうつつを抜かしている奏多に憤ったりもした。

 そうしている内に二人は高校に上がり、あっという間に千聖には初めての彼氏ができた。一番恐れていた事態が起こってしまった。奏多はそんな時でも自分の気持ちを話すこともできず、ただヘラヘラ笑って千聖の恋路を応援するフリをして誤魔化して、自分を傷つけてしまった。私も見ていて心が痛み、はち切れそうだった。この時、奏多が本当の気持ちを話せていたなら、そう思っても後の祭りだ。

 そうして奏多も千聖も私も、大人になっていく。現世の7月19日、奏多が死ぬという知らせが入った。私は驚いてショックを受ける反面、これはチャンスだと悟った。半死神育成プログラムを通してもらうよう必死に上官に掛け合った。3日間ほとんど断られ続け、最終日に執念でなんとかプログラム案を受諾してもらった。

 迎えた7月22日の夜。奏多は想像を遥かに超える惨めな死に方をした。これも心が痛かった。でもこれでやっと奏多に会える。私はその一念でソワソワしながら奏多を死神の世界に迎え入れたのであった。

 この1週間が勝負だ。この1週間でなんとか奏多を少しでも振り向かせて見せる。そうして奏多から千聖への思いを断ち切らせて、彼女の心を私のものにして見せる。私はやる気に満ち溢れていた。

 初めて直に話した奏多は、私に対してもとてもマイペースで、でもそれがとても心地良かった。一日一日、一時間、一分経つたびにどんどん好きになっていくのがわかって。彼女といるとなんでこんなに安心でき、また胸が高鳴って楽しいんだろう。そう、はやる気持ちを抑えながらも、堪えられず小出しにしてしまったり。私は生まれて初めて好きな人と一緒の時を過ごせる幸福に酔いしれていた。ひょっとしたら奏多も私のことを見てくれるようになるかも知れない。そんな淡い思いに心を躍らせた。


 まぁ、それも全部こうして徒労に終わったけれど。


*****


 どんなに言葉を尽くしても、どんなに思いを注いでも、応えられない人にはどういう対応をすれば良いのだろうか。再び時の流れから自分たちを切り離した私は、呆然と座り込む奏多の頭頂部を見ながら考えていた。

「奏多。生きるしかないのよ。死ねば終わるかも知れない。それは今の苦しみがなくて気持ちがいいかも知れない。でも、苦しみを、どう言えばいいのかしらね……苦しみを、自分の人生に昇華できた時って、きっともっといい気持ちがするはずよ。死ぬ人がなんの苦しみも恐怖も訴えずに逝ったことなんてありはしないわ。死ぬことは、生きることよりも遥かに苦しみなの。恐怖なの。でも生きるということも、死ぬことよりずっと、ずっと苦しみで恐怖であり続けているものなの。生命は苦しむものなのよ。それを一時的に楽しさや快感で誤魔化すだけで、確かにずっと苦しみなの。うまく言えないけれど、でも、それでも生き続けることで、人はその内生きることが素敵に思えるものなの。生きているだけでいいの。諦めないでよ。この後人間になったとしても、死神になったとしても、生きていることで見える世界って必ずあるはずだから」

 奏多は首を振っていやいやしている。

「奏多はどうしたいの?」

「私はっ……私はっ……」

 奏多の言葉を待つ。きっと、今一番苦しいのは間違いなく奏多だ。

「怖いよ、死ぬのが怖いなんてわかってるの。でもこのまま、千聖がいないまま生きるのも……千聖がいない世界で生きるのも、怖いの! でも、私が死んで千聖が喜ぶなんて思えない、生きたい、生きたいけど、生きたいけどぉっ……」

 奏多を抱きしめる。なんの力にもなれないとわかっているけれど。

「可愛いわね、奏多は。本当に……」

「エリザ……ごめんね。さっき酷いこと言って、ごめん……」

「いいのよ。みんな必死なんだもの、しょうがないわ……そうね、じゃあ奏多にお願いがあるの」

 奏多の温もりと柔らかさを感じながら、私は一呼吸おいて。

「死神、人間、どっちを選んでも構わない。そして千聖よりもずっとずっと、いや、彼女の分まで生きて頂戴」

「エリザ、私……」

「何を選ぶかは、いつだって奏多の自由よ。結論は急がないわ。」

 時が動き出す。私達は仕事を完遂した。


 最初に奏多を迎え入れた面接空間を作り、最初のように私はアンティークのデスクに、奏多はデスクを挟んで椅子に座る。

「どうだった? 一週間の死神体験は」

「んー、死神って、案外可愛いんだなって思った」

 ちょっと、それどういう意味よ。と言いかけて、やめた。私はニッコリと微笑む。

「私はとても幸せな一週間だったわ。ずっと見ていた奏多と一緒に過ごせて、夢のようだった」

「ははは、エリザはどんだけ私のこと好きなの」

 その言葉を聞き、私は胸が詰まるのを感じた。目頭が熱くなる。涙が滲むのに気付いて、必死で瞬きをするけれど、止められなかった。涙は頬をつたい流れ始める。

「好きよ。好きに決まってるじゃない。奏多の意地悪」

 奏多は笑顔をしまうと、何も言わずに床を見ている。

「3年間、この地域で仕事を始めてから、ずっと好きだった。貴女に会いたいって、ずっと思いながら見ていた。でもやっと会えた貴女は他の女の子に夢中で……私は、どうしたらいいかわからなくてっ……でも好きで、好きで好きで、とにかく、大好きなの!」

 それから長い沈黙がやってきた。私が鼻をすする音だけが無音の空間で確認できるただ一つの音だった。やがて奏多が顔を上げた。

「エリザ。私、死神になる」

「そんな、私の気持ちに流されるようじゃダメよ」

「いいのいいの、ほら、なんだっけ、アレしようよ。エクリア」

 エクリア……奏多は本当にこのまま死神として契約をする気なんだろうか。何を考えているのかいまいち見えない。けれど。

「わかったわ。貴女がそれを望むなら」

 私達は手を取り合って、額を付けエクリアを交わす。私はエクリアの宣誓文を暗唱し、奏多は静かに瞼を閉じていた。そして無事奏多に死神のライセンスが与えられた。ところがエクリアが終わっても、奏多は私のもとを離れようとしなかった。何かがある、そう思った瞬間、彼女が口にしたのは。

「リエクリアを宣誓します。エリザ・アロノワの運命を、書き換えて」

「え?」

 嘘でしょう?

 空間が歪み始める。立っているのが辛くなり、奏多にもたれかかると、彼女は優しく私を抱きしめてきた。何が、何が起こっているの?

「奏多! バカ、何を言っているの! リエクリアは取り消しが効かないのよ!」

「なら好都合じゃん。エリザに貰った命だもの、エリザのために使わせてよ」

「バカ! いやよ、奏多の存在が消えて……」

「いい感じになると思うからさ、幸せになって。これが私の考えた答え。そんで、愛だよ。受け取って、エリザ」

 そう言い残すと、奏多は私にキスをした。

 足元から奏多の身体が溶けていく。空間の歪みに飲まれていく。私は必死に手を伸ばして、動かして、奏多の身体を掴もうとするけれど、奏多の身体はどんどん溶けて消えて、腕は空回りするばかり。どうしよう、どうすれば、こんなはずじゃなかったのに。やがて時空が歪み、私の意識もぷつんと途切れた。

 ああ、私の運命は、奏多に委ねられてしまった。

 私の身体と意識は時空の中へ放り出されていった。

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