Chapter28 なんで語学マウントって嫌われるんだ?

高一 九月 土曜日 夜 真鶴家書斎



「どうした? 何かいい案でも浮かんだかい?」


 飲み物を取りに書斎を出た時の俺の考え込む表情が晴れていたからか、先生はトレイからテーブルにオレンジジュース入りのグラスを移しながら俺に興味深げに訊ねる。


「いえ、具体案はまだなんですが、何か掴めそうなんです」


「ほう、何だい?」先生は再び席に着くと一口ジュースを飲んでから答えた。


「和歌の話だと京都でも語学マウントが無視のきっかけだったらしいじゃないですか。本人はそのつもりはなかったみたいではありますけど」


「語学マウント?」先生は顎に手を当てて問い返す。


「知らないんですか……? あ、でも無理もないか、十年以上も三、四ヶ国語が当たり前の環境にいたんですしね。今も大学で会うのは語学が得意な大学生ばっかりでしょうし。語学マウントってのは語学が堪能な人ができない人に上から自慢することですよ」


「なるほど、そんな言葉があるのか。確かにうちの学部は英語が得意な学生ばっかりだけど、考えてみればゼミの授業中に学生同士で間違いを指摘し合ってムキになっているのを止めたことはあるな」


「へぇ、外国語学部でもそんなことあるんですね」


「だからこそかもしれないね。自分は得意だというプライドがあるからこそ指摘が嫌なんだろうね。私は恥は一時なんだから受け入れて学べと言うんだけど、何でも他人と比べがちな思春期の中高生にはまあなかなか伝わらないだろうね。なんせ大学生ですら感情的になるくらいだしね」


「だからこそか……だから姫野さんを怒らせちゃったのかな」


「結果的に和歌の無視のきっかけになってしまった女子生徒だね」


「はい、和歌が来るまでは英語が得意と言えば彼女だったんですよ。はぁ……、今考えると悔しいな……。英語が得意な者同士簡単に仲良くなれるなんて安易な想像して、和歌を期待させた結果裏目に出るなんて……ああ、何か今になってすごく罪悪感を感じてきました。俺は空気が読めていると思い込んでるけど盲点があるから痛い目見るって姫野さんが言ってたんですよ。和歌と男子の名前呼びだけ注意してるんじゃなかったんだって今は思います。和歌を助けるなんて言っておいて……すみません」


「英紀君、謝らないでいい。今君が感じている後悔や罪悪感は本来私が感じるべきものだ。今は悔しさを感じてくれているからこそ一緒にどうすれば良いか考えてほしい」


「そうですね、俺がうじうじ言っている場合じゃないです。考えないと……」


 俺は渡されてからまだ手を付けていなかったオレンジジュースで喉を潤しながら考える。先生も初耳だった日本のスラングが気になったようで「語学マウント、語学マウント……」とブツブツと呟きつつ顎に手を添えて考えている。


「そんなに馴染みがない言葉だったんですね。ヨーロッパ人はみんな外国語が得意だからそもそも語学マウントなんて概念がないんでしょうね」


「いや、そんなことはない。今思い返せば特にイギリス人が語学音痴の劣等感を感じていたと思うよ。毒舌ジョーク好きの彼らでも私が『植民地で上手に英語を教えてきたのですから同じ方法でイギリス人も学べば途端に上手くなりますよ』と言ったら『笑えない』と言われてスベったことがある」


「うわぁ、猛毒ですね。イギリス人てめっちゃプライド高そうなのに」つい引きつった笑顔を浮かべてしまう。


「ああ、その時は流石に悪ノリが過ぎたね。でも一緒にいたフランス人とドイツ人が助けてくれて何とか収まったよ」自嘲気味に笑う先生。


「どうやって収めたんですか?」


「二人でひとまず笑った後にイギリス人にフランス人が言ったんだよ。『普段飯の不味さで自虐してるのに、なんで語学では自虐しないんだい? 最高のユーモアじゃないか』って」


「うわぁ、フランス人容赦ないですね……。笑えないって白けた人相手に普通追い打ちかけますか? 余計に収拾がつかない気がしますけど」俺には到底思いつけない猛毒セリフに更に俺の笑いは引きつる。


「そこは流石にコミュニケーション能力が高い欧州人だからね。イギリス人はこう答えたんだよ。『我が国の食事が不味いのは大昔からだから自虐も含めて伝統なんだ、でも外国語を積極的に学び始めたのは植民地支配を終えてからだ。だから自虐するほど慣れていないんだよ』ってね。そのジョークをドイツ人が気に入って『うちにも食えるほど美味しいカエルやカタツムリはいないないから気持ちはよく分かるよ。あ、残念だけど美味いタコとイカもいないね』と日本食にも引っかけて笑ってくれたんだ。それで良くなった場の雰囲気に乗じて私が謝ったらなんとか収まったよ」


「イギリス人でも語学マウントが嫌なのか、なんか意外でした。でもなんで語学マウントってそこまで人間の劣等感を刺激するんでしょうね? 他教科のマウントは聞いたことすらないのに」


「他教科?」また先生は意外そうな顔をして問い返してくる。


「はい、例えば数学を同級生に教えても自慢に捉えられたことはありませんし、社会科なんか歴史自慢をしたら歴史オタク、政治知識の自慢をしたらただの面倒臭い奴ですよ。少なくとも英語マウントみたいに独立した教科では言いませんよ。せいぜい全部ひっくるめて知識マウントって言うくらいじゃないかと思います」


「なるほど、考えたこともなかった。興味深いな……だが何故なんだろう?」


「なんでなんでしょうね……俺も言っては見たもののなんで物理マウントとか現代文マウントが無いのかは分かりません。まあピアノ弾ける奴が女子のリクエストを受けて弾き語りしているのを見ていいなと思ったことはありますけど……ん? あれ? 音楽?」


「音楽がどうかしたのかい?」


 声をかけてくる先生をよそに俺は思いつくままに先程のレッスン内容をメモしたノートを開くと、一つの確信に辿り着く!


「先生! なんで語学マウントが嫌われるのか分かったと思います!」


「どうしてだい? ノートを開いているということはさっきのレッスンと関係があるのかい?」


「そうです! 脳ですよ! 英数国理社の主要五教科で右脳の活用が特に大事なのは英語だけじゃないですか」


「そうだね。他の教科は楽しく学ぶためには右脳も使うに越したことはないが、特に英会話に関しては左脳だけで身に付けるのはまず不可能だ」


「ですよね。確か前回のレッスンで先生は語学に才能は関係なくて、環境が重要なんだって、だから和歌を外国語に触れられる環境に置いたんだって言っていましたよね」


「ああ、言ったね」


「これって和歌が無意識に外国語に触れられるようにしたっていうことですよね」


「その通りだよ。せっかく言語のるつぼみたいな国にいたからね」


「結果として和歌は左右の脳を日常的に活用して外国語が話せるようになったんだと思います。これは和歌にとっては普通かもしれませんが、ほとんどの日本人には普通じゃありません。だって環境が無いんですから。その上外国語ができない理由が環境にあるなんてことも知らないんです。まずこの時点で和歌にとっての普通と一般的な日本人の普通に差があります」


「……そうだね。和歌が普通じゃないということについては英紀君が和歌に教えてくれて、和歌はもう自覚はできているんだよね」


「はい、そうだと思います。それで、語学マウントが嫌われる理由なんですけど、この語学が無意識に習得できるという点が関わっていると思うんです」


「いや、確かに右脳の活用は大事だけれども完全に無意識で習得できるわけではないよ。子供が基本的な日常会話をこなせる程度になるだけなら別だがね」


「その程度で十分です」


「なに? どういうことだい?」


 俺が先生の訂正を受け入れてもなお余裕の表情をしていたからか、先生は更に意外そうに俺を見据える。


「結論を先に言いますと、語学マウントが嫌われる理由、それは他の教科と違って語学だけが必ずしも上達に精神的な成長を伴わないからです」


「ほう、どうしてそう思ったんだい?」


 気付いたら先生はボールペンを手に取っていた。娘を心配する父親の顔に研究に目がない学者の顔が垣間見える。


「数学も理科も社会も無意識には学べません。国語はどうかと思ったんですけど、学校で勉強するのは語彙力や読解力を鍛えているのであって、日本語会話の練習ではないからやっぱり意識が必要です。更に主要教科だけじゃなくて体育も音楽も芸術も家庭科も全部です。意識しないと頭も体も動きませんから、そして意識してこれらの知識や技術を得るために必要なものがあります。それは努力です」


「努力……そうか! 分かってきた気がする。ひとまずは英紀君の考えを最後まで聞きたい、続けてくれるかい」


「はい、人は努力する時に葛藤とか悔しさを感じますよね。でもそれらを乗り越えることで自信がついたり、同じ努力をしている他人の気持ちが分かったりといった精神的な成長もできると思います。例えば俺、サッカー部で頑張ってレギュラー入りしたことがあるんですけど、今は英語の補習で練習が減って落としています。落としたのはもちろん悔しいんですけど、その分代わりにレギュラー入りした奴が努力しているのも分かるんです。これって一つの成長なんじゃないでしょうか?」


「そう思う。共感性は社会動物である人間に重要な資質だよ」


「ですよね。でも語学は他教科とは違って基礎的な会話であれば無意識でも学べます。ということは努力も要らないということですよね。だって意識せずに努力するなんてできませんから。現に和歌は英語やオランダ語を話せるようになるまで日本の中高生みたいに努力をしていました?」


「いや、していないね。できるだけ連れ出していろんな国の子供と遊ばせていたよ」


「となると和歌は語学を習得する過程で努力はしていないから俺みたいな努力してもできない奴の気持ちなんか分かりようもない。あ、あくまで語学に限った話ですよ。自分で考えて自分の意見を持っているところは大人だなと思ってます」


「いいよ。和歌を悪く言っていないのは顔を見れば分かるさ。それにしても盲点だったな。確かに努力なしで上達がある程度見込めるのは語学だけかもしれない。これはこれで研究してみたい気持ちが芽生えて来たが、ただ今は和歌のためにこの気付きをどう活かすかだね」


「はい、実はここ数日考えたアイデアはあったんですけど、今の気付きでそれも無駄そうだなと思いました。また考えないと」


「どんなアイデアだい? とりあえず教えてくれるかい?」


「あ、はい。わざと英語を下手に話せば語学マウントは少なくとも起こらなくなると思っていました。ただ和歌が自分の中に築いてきた文化を壊すことになるかもしれないと思って何か違う気がしていました」


「それは正解だな。そもそも和歌の英語力が高いとクラスメイトが知っている状態で下手にしたところで媚びていると捉えられかねないからね」


「はい、それにさっきの気付きで、和歌が話せない人の努力を知らなければ根本的に意味がないと思いましたから。こんな付け焼き刃のような手段じゃダメな気がします」


「そうだね……なかなか手段が見つからないね」


「はい、だけど取るべき方向性は定まったと思うんです」


「それは何だい?」


「今から和歌を変えるんじゃなくて、今の和歌の長所を活かすべきだということです。理由は時間の問題があるからです。俺みたいな奴の気持ちが分かるように時間を遡って英語学習の努力を体験するなんてできませんし、日本人の空気を読む習慣に慣れるために時間を使っている余裕もない」


「確かにそうだな。短所を埋めるには時間がかかるが、長所ならすぐに活かせる。だがな……」


 納得した様子を見せたものの先生の表情が曇る。


「何か不安な点がありますか?」


「ああ、すまない。確かに言うことは分かるが、今起きている問題も和歌の語学力と人見知りしない社交性という長所が原因だと思うとどうしても心配になる。なんせ出る杭は打たれるなんて諺がある国だからね」


「分かります。だからこそ今度は俺自身も対策します。これまでみたいに俺だけの思い付きで行動しません。先生に、担任に、両親に、中高六年間クラスの人気者だった治姉に、そして和歌自身に相談します。相談して起こり得るリスクに備えようと思います」


「英紀君……そうだな。いじめが定着する前に解決しないといけないんだから、どの道時間もない。君の方針に賛成だ。和歌の長所を活かして解決する方向で考えよう。相談のためにMineを交換してくれるかい?」


 数秒考える素振りを見せた後に先生は決意を感じさせる眼差しを俺に向けて語った。その力強い眼差しに始業式に見た和歌の気丈な表情が重なって見えたような気がした。

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