18

「あのっ、満ち潮ってこんなにすぐ水位が上がるものでしたっけ」

「これがただの自然現象に見えるのか?」

「いやー……、見えるかどうかで言ったら正直見えないですけども!でもほとんどの怪異は恐怖心から来る想像力が生み出したものなんでしょう?だったら地形とかの関係で、この場所は超短時間で潮が満ちるって可能性もあるかなと思ったんですよ」

「先程私が言った事をしっかり覚えていてくださったんですね」

「そこはまぁ、ついさっきの事ですから」

「確かに本物が現れるのは極稀と言えますが、やはりあなたはこの手のものの引きが強いようですね」

「それってつまり……」

「はい。今回はその稀なケースのようです」


目を離していた少しの間に波は止んでいた。

陸地だった部分はほとんど水に覆われている。

海面は波一つなく、一見すると穏やかだ。

けれどその静かな海に“何か”がいると先程よりも強く感じる。

息をするのも憚られるような静寂の中、洞窟の入り口の辺りで小さな波紋が生まれた。


何か来る。

そう思った直後。


「………っ!」


水面から、ぬっと人の頭が現れた。

そいつは思わず後退った俺には目もくれず、真っ直ぐに祠へと向かって行く。

祠の前まで来ると動きを止めて、距離でも測っているのか睨むように見詰めて数秒。

助走をつけて伸び上がった。


空中に一瞬現れた全身のシルエットは、人でも魚でも動物でもない、いや、そのどれでもある形をしていた。

上半身は人のようだけれど、すらりと伸びた脚の先には人にはない鱗とヒレが付いている。

まさに想像の中の人魚と同じ姿だった。


一度水中に戻ったそいつは、再びジャンプをするような動きで祠へと手を伸ばす。

どうやら扉を開けたかったらしく、何度目かで成功させると、今度は中を確かめる様子を見せた。

そしてまた同じ動きを繰り返し、中にあったものを掴むと大切そうに胸に抱えた。


「あ、腕が」


暗かったのと、水飛沫であまり見えていなかったけれど、よく見るとその人魚には片腕がなかった。


「どうやらあの方が腕の持ち主のようですね」

「取り戻しに来たって事ですか?でもあんな状態では、今更どうにもならないんじゃ」

「そうでもないようですよ」


白枇さんに促され再び人魚の方へと目を向けると、木乃伊状態だった腕に変化が起きていた。

まるでからからのスポンジが水を吸って膨らむように、萎れていた腕が徐々に元の姿へと戻っていく。

茶色く変色していた表面も、殻が破れるように亀裂の入った外側の部分が剥がれたかと思うと、その下から張りのある肌が現れた。

あっ、と思った時にはもう、切断されていたはずの腕が元通りにくっついていて、心做しか満足そうにしばらく見詰めた後、海に潜りそのまま消えていった。


「今のは、一体……」

「人魚を実際に見たのは私も初めてですが、不老不死というのは強ち間違いではないかもしれませんね」

「祠に腕を戻してすぐに現れたって事は、もしかしてずっと、何十年も、取り返す機会を待ってたんでしょうか」

「神隠しってのもあいつの仕業なんじゃないか?」


何気なく言った黒緒さんの言葉で、船に乗せてくれたおじさんから聞いた話を思い出す。


──なんでも昔人魚がいたっていう洞窟があってな、人魚が死んだあとそこに住人たちが祠を建てたんだと。それがいつからか、近付くと神隠しにあうって言われるようになったんだ。


「あーっ!そうですよきっと!黒緒さんが見た記録によると、人魚の肉を食べた人の体にある日突然鱗が生えて全身に広がっていったんですよね。ここで人魚に関わったために、そうやって海でしか暮らせなくなってしまった人たちが、やむ無く陸を離れたんじゃないでしょうか」

「ふむ、確かにあり得ますね。人魚が直接引きずり込んだという可能性も否定出来ませんが」

「……怖い事言うのやめましょう?」


何はともあれ今度こそ本当に、やれるだけの事は全部やり切ったという感じがする。

きっとこれからはもう神隠しも起きないだろう。

気付けば遠く向こうの空が白み始めていた。

長かった夜ももうすぐ明ける。



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