1-3
斯くして、私の軟弱な拳は振り下ろされた。
私は有言実行することに関してはそれなりに定評がある。故に彼女の阿呆な行いに対する鉄拳制裁は、昨今のコンプライアンス云々を無視してすぐさま実行に移された。
頭頂部をぷくりと膨らませ、その痛みに自身の愚かな行為を悔やむべき一年生、春日雫はそれでも満面の笑みを浮かべていた。つまり反省などしていないのだ。コンプライアンスよりも己の拳の骨にヒビが入ってやしないかと心配になった私に二度目の制裁を下す選択肢はないが、この怒りは煮えたぎる地獄の釜のように音を立てていた。
「放課後を待ちきれなかったっすよ先輩!」
快晴ながら、壁から机から私に至るまでを腐らせてしまいそうな、嫌みたっぷりの湿度に支配された梅雨時の旧文芸部部室で、彼女は痛みからか涙目で、しかし口角をにたりと持ち上げている。
「そうかい。ならば公衆の面前で視線を送らず、粛々とメールを送り給え。堂々関係を示すような行為をするでない」
「そういう考えに至る余裕もないほど、先輩に伝えたいことがあったってことですよ。大スクープと言って良いですね」
大スクープとな?
「ほう、聞こうじゃないか」
私は矛を収めることにした。
この部に於いて最も重視されるべきは週刊言責に掲載されるスクープである。彼女の行いが実に愚かしいことであっても、その手に麗しきスクープがあるというのならば無論全てが帳消しなのだ。
さあ、君の誇るスクープを開示せよ!
結果如何によっては君の頭頂部にはもういくつかのたんこぶを得ることになるが、帳消しにできない程度のスクープならばないことと同じ故、身から出た錆なのだと心得よ!
「驚かないでくださいね。あの生徒の熱愛ですよ、熱愛!」
「勿体ぶるでない! 一帯誰の熱愛なのだ!」
雫は自信の塊をはき出すように叫んだ。
「三年二組、
「何! あの神渕桃子か!」
これは驚いた。実にタイムリーな名前であったからだ。確かに神渕桃子が熱愛とあればそれは立派にスクープである。それは何故か。旧文芸部部室でそそくさと宿題を済ませる藤橋が割って入った。
「大岐斐高校三大女子アイドル部の一つ、第二アイドル部『21クラップ』の人気メンバー、神渕桃子。スラリとしたモデル体型に品のある振る舞い、誰とも付き合っていないなんて信じられないほどの女の子だよね。告白を無惨に切り捨てたという逸話だけは両手両足では足りないほどに蔓延っているけど」
これにはさすがの私も記者魂に仄明かりが灯る。カツカレーの匂いと共に学食で馳せた想いに現実が追いついてきたことへの高揚感!
「これはスクープじゃないか雫よ!」
「そうなんすよ! その彼女が最近とうとう男をつくったという噂があるとかないとか」
「……ん? 噂があるのかないのかどっちだね」
「ないっすね」
その瞬間部室内に流れた空気をもしも春日雫が読み違えていたなら、私は春日雫という記者を見限ろうと思う。そんじょそこらの寒冷地なら軽く凌駕できるほど冷え切ったそれは、立場が違えば凍死するほどのものであった。
だが私は冷え切った空気に稲妻を落とす側に立っている。一瞬にして萎えた高揚が怒りに変わるまでそう時間は掛からなかった。
「よぉし! 拳骨だ! 私の骨が折れるまでやるぞ」
コンプライアンスなんぞ構うものか! 私は教育的指導を躊躇わないのだ!
「待ってください先輩。男といた証拠ならあるんです!」
「何だと!」
それを先に言い給え!
「これっす」雫は自身のスマホを突きだした。「肩に触れる程度の絶妙な長さをした髪をそよ風にさらりと揺らして、儚げな笑顔を皆に振りまいていたあの神渕桃子がただ一人のために向ける笑顔! ほんの少し前から毛先を遊ばせるようになったから怪しいと思ってたんすよ」
「ほう。毛先をねぇ」
「ねえ雫ちゃん」藤橋はイタズラっぽく微笑みながら画面を覗き込んで、「どこに神渕さんが映っているのかな」
「……へい?」雫の間抜けな声が嫌に耳に響く。
悲しいかな私の嘆息は一日の平均回数を優に超え、このままではため息に含まれる二酸化炭素がどうたらこうたらで酸欠を起こしそうな勢いであった。
「雫よ。君はアレだな。争いの激しいスマホカメラ開発班、各メーカーの努力を物の見事に打ち砕く手ぶれ補正ブレイカーだな。君のスマートフォンは値段を半額にしてもらう代わりにカメラ機能をなくしてもらえ。スマホが可哀想に思うほどブレブレで誰が映っているのか分からんではないか!」
「あ、マジだ。おっかしいなぁ、ちゃんと華奈っちみたく走って追いかけてバシッと撮ったのに」
「それができるのは谷汲華奈の手腕だけだと何故思わぬのか!」
雫はスマホの機能が悪いのではないかと訴えながら、
「でも男と歩いてたのを見たのはホントなんですって! 放課後に買い物で駅まで行ったらたまたま見つけて、警戒するようにきょろきょろしてたから怪しいなと思って付けたら、男と会ってて」
「相手は誰だ、生徒かね」
「大学生くらいかな? 顔立ちはともかく、ラフな服装してたんで……いやマジっすよ! 信じてください!」
「信じたいとも。君は救いようのない阿呆だが無意味に嘘をつく人間とは思わない、だから信じたい。だがそれを誰かに信じてもらうためには証拠が必要なのだ。それがないなら、軽々に信じるとは言えない」
「そんなぁ」
頭に作ったたんこぶも忘れ、雫は唇を尖らせぶーぶーと豚の物真似に勤しんでいる。
本来ならば呆れて物も言えないだろう。よくもまあこれをスクープなどとほざいたな、と。
だがしかし! 失念してはいけない。これは春日雫復権を懸けた案件でもあるのだと。であるならば、彼女の発見を空き缶のように捨て置くわけにも行かないだろう。私は鬼ではなく先輩なのだ。こと後輩の発見に対しては真摯に応えるべきである。
「君は二人をどこまで付けた」
「駅近くの喫茶店っす。楽しげに話してて、ウチも頑張ってブラックコーヒー飲んでたんですけどそれがまた苦くて、スティックの砂糖めっちゃ入れたら甘くなりすぎて、あれってどれくらい入れたらちょうど良いんですかね」
そんなことは知らん! 話しを逸らすな! ということは一旦置いておこう。大切なのはそこではない。
「君は何故そこで写真を撮らんのだ。そこで撮っておけば君のスクープの確かな証拠になったと言うのに」
座って撮ればブレることもなかろう。
「店内でスマホ構える勇気がなくて! そもそも高校生一人で喫茶店とかハードル高いし!」
「その気持ちは分かるが!」
「分かっちゃうんだね」藤橋は冷めた目を向けてくる。
「ちらちら見るのが精一杯でしたよ。席が少し遠かったんで会話の内容までは聞こえなかったんですけど、でも、二人ともずっと笑ってたっすね」
「で、二人はその後どうしたのだ。夜の大人世界に繰り出しでもしたか!」
「店出てすぐ解散してました。どっちかの家には行くと思ったのになー」
「放課後ってことは神渕さんは制服でしょう? 駅で会ってたってことは、男性は別の街から来たんだろうから、さすがに高校生と大人の男性が家まで一緒っていうのは難しかったんじゃないかな」
と、藤橋は言うが、我々が頭を捻ったところで答えが出ないことは私とて重々承知している。
早急な特ダネの確保は週刊言責編集部の本懐成就には欠かせないことを考えるならば、ここで私が出すべき指示は、彼女が偶然と執念で勝ち得たなんの確証もないこれらを、兎角突き詰めよと言うことだけであろう。迷うことなどない。私は編集長として、彼女の復権の機会を奪いはしないことを高らかに宣言しようではないか。
「手始めに雫、君は華奈が取材から戻り次第、神渕を尾行し給え。張り付いて逃すでないぞ。アイドル部の面々に四六時中張り込むほどの暇などないが、張り付く価値を見出すほどのきっかけがあるなら話しは別である! 執念の果てに全ては君の、引いては週刊言責編集部の勝利に終わることだろう!」
春日雫の瞳がきらりと光る。
「任せてください! ウチの復権のとき来たれり!」
「よし! よくぞ言った!」
「テンションが面倒臭いよ二人とも。声潜めようか」藤橋の微笑みは威圧である。
「我々の熱意を喧しいとは何事か! 私はこの編集部の長として後輩の活躍に大いに期待をしているだけで」
「別にいいんだけどね。久瀬くんが秘匿を破りそうだなあって」
私は手で口を押さえた。雫はニヤニヤこちらを見ている。藤橋はともかく、君にだけはその表情をしてもらいたくはない。
復権を叫んでいたのは君もではないかと言うのは野暮なので口にはしないが、私の鉄拳制裁は未だ数発分の可処分エネルギーを残していることを、彼女には忘れて欲しくはないものである。
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