第25話 荒野の魔女
翌日、エルロイは光冠草が群生していたモデルナ山の中腹の地質を解析していた。
現状、光冠草はラングドッグ村が産出することのできる最有力商品である。
もしこれが量産できるとすれば、ウロボロスラントは大陸でもっとも裕福な国家になれる可能性すらあった。あったのだが――――
「あかんこれ。全くわからんわ」
執念深く解析を続けていたエルロイだが、ついに根を上げた。
土の成分、水の成分、魔力の成分、どれをとってもこの場所が特別であるという理由がないのである。
しかも来年からはここでは咲かないというのだ。
ただラングドッグ村から見える範囲で違う場所に咲くというのだから皆目見当がつかなかった。
「花を採取されて実をつけるわけでもなさそうですね。いったい何のために咲くのでしょう?」
「それがわかれば苦労はしないよ」
おてあげとばかりにエルロイはユイに向かって両手を広げて見せた。
「…………分析も万能ではないということだな」
光冠草の花を解析した結果も同じであった。
成分自体は分析することができてもそれがどういう効果をもたらすかまではわからない。
せめて見本になるクリームの現物があれば違うのだが…………。
そう美味い話は転がっていないということか。
実は村にいるとユズリハとガリエラが無言のプレッシャーをかけてくるので、情報を得るためと称して抜け出してきたというのがエルロイの本音であった。
もちろん理屈としては村でクリームまで自作できたほうが利益は大きい。
原料費よりも加工費のほうが高くつくのはどこの世界でも同じであるし、一次産業が買い叩かれるのも同様だ。
もっとも、ユズリハとガリエラの本音は絶対にそこじゃないと思うけどな!
「念のため、根を移植できないか試してみるか…………」
そう言ってエルロイが光冠草を土ごと掬いとろうとしたときであった。
「はふぅ……はふぅ……はふぅ……」
荒い息が風に乗ってエルロイの耳へと届く。
誰かこの山まで登ってきたのだろうか?
ふとエルロイが視線を下ろすと、決してなだらかとは言い難い山道を杖をつきながら一人の老婆が登ってくるのが見えた。
身長百四十センチほどの小さな老婆である。
茶色のローブで全身をすっぽり覆っており、足元が遠目にもおぼつかぬ様子であった。
「だ、大丈夫ですか?」
頬から汗を滴り落としている老婆の手を取ってユイが尋ねた。
彼女の目にも、今にも老婆が斃れてぽっくり逝ってしまいそうに見えたのである。
「はふぅ……はふぅ……優しい嬢ちゃんだね。ありがとうよ」
左手で額の汗を拭い、老婆はにやりと笑った……ように見えた。はっきりしないのは老婆の目が重く垂れさがった皮膚でほとんど見えないからだ。
(いったい幾つだ、この婆さん……というかラングドッグ村にこんな婆さんいたっけか?)
(…………私も見た覚えがありません)
エルロイとユイは視線だけで互いの意思を交し合った。
そんなことはありえない。
ここは王都ではなく、見捨てられた不毛の大地ウロボロスラントなのである。
よそ者の老婆が一人で旅してこれるようなところではない。
「はふぅ……はふぅ……なんとか間に合ったかねえ。あとは夜になれば舞踏が見れるかねえ」
精魂尽き果てたとばかりに腰を下ろした老婆は、腰から取り出した水筒から果実水らしき液体を喉へ流しこんだ。
老婆の零した呟きに聞き逃せないものを覚えて、思わずエルロイは老婆に問い返す。
「お婆さん…………その」
「誰がお婆さんだいっ!」
「誰って……お婆さんでしょ?」
「最近の若者は礼儀がなっちゃいないね! こんな美人を捕まえて……はふぅ」
「無理しちゃだめでしょ、お婆さん」
「嬢ちゃんは優しいねえ。わたしゃまだまだ大丈夫だよ」
「なんでやねん!」
ユイとの扱いの差にエルロイは思わず突っ込まずにはいられなかった。
「あんたから悪い男の匂いがプンプンするよ。その気もないのに人妻まで落としちまう最悪の男の匂いさ……はふぅ」
「わかりますか?」
「ユイまで何言っているの? 俺はそんなことしてませんよ!」
「自覚がない男はいつもそう言うのさ。わたしの旦那にもどれほど腸を煮えくり返らされたことか」
「それって旦那への八つ当たりじゃない?」
「うるさいね、宿六は黙っといで……はふぅ」
怒鳴ったことで残り少ない体力が奪われたのか、老婆は座っているのもつらそうに仰向けに地面に倒れこんだ。
「だ、大丈夫ですか?」
「はふぅ……これくらいで死にゃしないよ。旦那の仇を取るまでわたしゃ死ぬわけにはいかないのさ……だからこそ光冠草を……」
「やっぱりさっきの舞踏っていうのは光冠草の舞踏のことか」
「よく知ってるじゃないか宿六」
「ちょっと俺にばっかりセメント過ぎじゃないですかねえ!」
「うちの旦那に似ている自分を恨むんだね」
ふと老婆の瞳が和んだような気がした。ただし本当に気がしただけである。なぜなら分厚い皺に隠れて見えないから。
「今何か言ったかい?」
「いいえ何も!」
いくつになっても女性は自分の悪口には敏い。
「まあいい。わたしゃその光冠草の舞踏のために遥々あの山を越えてやってきたのさ。歳のせいか少々手間取ったがね」
「光冠草の舞踏なら昨晩終わったらしいぞ?」
「はぁ?」
「だからもう終わったって」
「なんだって?」
「もう終わったって言ってんだよ!!!」
「冗談は顔だけにしておきな」
「俺の顔に恨みでもあんのかよっ!」
「そんなはずはないよ。きっかり今夜、ここで舞踏があると占いでも…………まさかと思うが今日は何日だい?」
「大陸公暦でいいなら、今日は獅子の歳二十七紀の水の月七日だな」
「あああああっ! 一晩寝過ごして日にちを間違えたよおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお」
老婆の身体から想像もできぬ銅鑼のような大声に、エルロイとユイは全力で耳を押さえた。
危うく気が遠くなるほどの大声であった。
この婆さん割と元気なんじゃないのか。
―――――ほろり
老婆の皺に隠れた瞳から透明な涙が零れ落ちるのを見てエルロイとユイは顔を見合わせる。
先ほどまでの腹黒そうな年寄りらしからぬ真摯な感情を見た気がしたのである。
「ごめんよ旦那、もう終わっちまったよ。光冠草の舞踏はあと一年は先なのに、とんだドジを踏んじまったもんさ」
「一年先にまた光冠草の舞踏があるのか?」
半信半疑でエルロイは尋ねた。もし本当ならえらい情報であった。
「わたしの見立てじゃそうだね……でもそこまでわたしの寿命が保たないよ。ここらで五、六十年は若返っておこうと思ったんだがねえ」
「いろいろと突っ込みどころが多すぎるが、光冠草の花なら昨晩大量に採取して保存してあるぞ?」
「はぁ?」
「だから保存してあるって」
「それを先に言わんかいこの宿六がああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!」
先ほどをも上回る大音量に二人は仰向けにひっくり返った。
「絶対あと一年以上寿命あるよ婆さん!」
「早く! 早く光冠草の花をわたしによこしな! わたしゃいつお迎えが来るかわからないんだからね!」
「――もしかして、婆さん製薬できるのか?」
「その辺の売り物といっしょにしてもらっちゃ困るね。この荒野の魔女ベアトリスの造ったものこそがオリジナルの若返り薬なんだよ! はふぅ…………気が遠く……」
「ああああああああっ! 婆さんしっかりして! まだ死なないで! こんな気になる情報を漏らしたままいなくならないでえええええええ!」
「だったら早くわたしを運ぶんだよっ! こちとらもう一歩も歩けないんだからね!」
「畜生! 事情が事情なだけに逆らえない!」
「すごい……ご主人様が一方的にやりこめられるなんて」
「ユイも感心してる場合じゃない!」
エルロイは苦々しく老婆を背中に背負うと魔法で脚力を強化して、風のようにラングドッグ村へと疾走した。
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