第19話 そのころの王宮

 ノルガード王国第二王子ヘルマンはご機嫌であった。

 婚約者であるコーネリアとの結婚が、いよいよ正式に決定されたのである。

 レダイグ王国の滅亡以来、北部の勢力争いは激化の一途を辿っており、そのうちのひとつ、グラスゴー王国の敗色が濃厚となっていた。

 そのため、ここでヴェストファーレン王国との紐帯を深めておきたいと国王が判断したためである。

 結婚式は各国を招いて大々的に執り行われることとなり、コーネリアの祖国ヴェストファーレン王国からは親善のため国王ゴードン自らが出席するという。

 しかしヘルマンはあずかり知らぬことながら、この国王出席は嘘である。すでに国王ゴードン三世は毒入りのワインによって人事不省の状態で余命いくばくもない。

 結婚式の直前に公表することで、出席を有耶無耶にする王太子ジョージの策なのである。

 国王を護衛するためと称して、精鋭千五百を動員しノルガード王国の王都まで同行させることも認めさせていた。

 そんなこととは露知らず、ヘルマンは早くも夫気どりでコーネリアの私室へと頻繁に足を運んでいるのであった。

「――――先触れを出すようにと申し上げたはずですが」

 庶民の家庭でもあるまいし、いまだ夫婦でない男女が自由に会うことなどありえない。まして王家であればそれこそ厳重に管理されてしまるべきである。

 この粗野な男が夫になるということに、コーネリアは暗澹たる思いを隠せなかった。

「どうせもうじき結婚するのだ。格式ばらずともよかろう」

「結婚するその日まで私はヴェストファーレン王国の王女です。他国の王族に対する礼儀を失する理由にはなりませんよ」

「ふん、夫婦になったら二度とそんな口はきかせんからな!」

「夫婦なら何をしても許されるとは思いませんように」

 生意気な女め、と小さく呟きながらも、ヘルマンはコーネリアの部屋に飾られた艶やかなウェディングドレスを見て相好を崩す。

 肩と背中の大きく開いたデザインで、ヘルマンの好みだった。

 このドレスを着て自分の隣に立つコーネリアを夢想して、いやらしい笑みが浮かぶ。どうせあと一週間後にはこの女は俺のものになるのだ。

 この高慢な女を自分のものにできると思うとぞくぞくするような興奮がわきあがる。

「せいぜい自分を磨いておくんだな」

 ヘルマンは強引にコーネリアの手を取ると、その甲にキスを落とした。

 それだけのことでも、コーネリアの背筋をぞわざわと這いあがる不快感があった。

 勝ち誇ったように出ていくヘルマンを、コーネリアは能面のような冷ややかな表情で見送った。

 この男にだけは絶対に自分の弱みを見せたくなかった。

「コーネリア様…………」

 ヘルマンの暴挙を止められなかった侍女が申し訳なさそうに声をかける。

 気にしないでいい、侍女にヘルマンを止められないのはわかっていたのだから――そう返すだけの余裕が今のコーネリアにはなかった。

「少し一人にして――――」

 侍女が部屋から出ていったのを確認して、コーネリアはだらしなくソファに身を投げ出す。

 ぼふっという間抜けな音とともに、やわらかなクッションにコーネリアの細い身体は埋もれた。

「マルグリットお姉さまだって耐えていることなのに…………」

 ある意味ヘルマンはわかりやすいし、色欲とはいえコーネリアを本気で気に入っているのは確かであろう。

 だがマルグリットの夫アンヘルはうわべは繕っていても、お飾りとしかみていないことはコーネリアにもわかる。

 いまだマルグリットに懐妊の気配もないのは、いずれアンヘルが白い結婚を用いて離縁するためではないかと勘ぐる向きもあるほどだった。

 それでも心のどこかで諦めきれないのは、やはりエルロイの存在があるからであろう。

 こうして離れて結婚という現実を前にすれば、自分はエルロイに恋をしていたのだという自覚が深まるばかりであった。

「会いたいよ……エルロイ…………」

 それが叶わぬ夢であることはわかっている。

 ヴェストファーレン王国の王女として、祖国や姉を全て捨てて自分のために生きられるほどコーネリアは奔放な女性ではない。

 必死になって自分の思いを押し殺すために、コーネリアは一人泣くことで自分の心に折り合いをつけようとするのだった。

 外に泣き声が漏れないように、声を押し殺して枕に顔を押しつけたコーネリアの肩を、優しく撫でる手があった。

「誰?」

「きっと泣いてるんじゃないかと思ったわ」

「お姉さま…………!」

 咄嗟に泣き顔を隠そうとするコーネリアを、マルグリットは優しく抱きしめる。

「貴女が望むなら逃げてもいいのよ?」

「それは…………」

 確かに今のコーネリアなら逃げることも可能かもしれない。

 なんといってもエルロイに渡された魔道具がある。その気があれば一人でウロボロスラントへ向かうことも可能だった。

「問題にはなるでしょうけど、貴女が逃げてもノルガード王国とヴェストファーレン王国の関係が破綻することはありえないわ。スペンサー王国に対抗するためには両国が協力していかなければならないもの」

 マルグリットはまさか兄ジョージがスペンサー王国に対抗するどころか、その軍門に降ろうとしているなど夢にも考えていない。

 そう思える程度には、ノルガード王国とヴェストファーレン王国の友好関係は長く強固なものなのだった。

 むしろそれをばっさりと切り捨てられるジョージが異常なのである。

 コーネリアもまた、ジョージのように人間関係を切り捨てる決断はできなかった。

「私のことなら気にしなくていいのよ? どうせ夫には愛想をつかされているのだし」

 マルグリットがエルロイのアリバイを証言したことから、王妃のカサンドラと夫のアンヘルはマルグリットを邪魔者扱いし始めている。

 祖国のために犠牲になるのなら、それは自分ひとりでいい、とマルグリットが考えていることをコーネリアは悟った。

「――――そんなことできるわけないじゃない」

 コーネリアは右手で涙を拭くとさっぱりとした笑顔で笑った。

「ちょっと、ふっきるのに切っ掛けが必要だっただけよ」

 王族に生まれついた者には、自分ではどうすることもできない権利と義務がある。

 それに肩書をなくした一人の女、コーネリアに何の価値があるだろうか。もしエルロイのもとへ行っても足手まといになるばかりだろう。

 ウロボロスラントは才なしには生を許されない不毛の大地。

 自分のような温室の花のような女ではエルロイの力にはなれない。

 好きな男のお荷物になることは、コーネリアのプライドが許さなかった。

 姉であるマルグリットには、コーネリアの心の動きが手に取るようにわかる。それが逆にとても切なかった。

 それは自分もかつて感じた思いだから。

「忘れないでコーネリア。籠から出るための鍵を、貴女はすでに持っているのよ」

 たとえ籠から出た小鳥が幸せになる保障がないとしても。


「それに――――籠の鳥は決して役に立たない愛玩動物というわけではないわ」

 王族としての教育を受けてきた二人は、その気になれば一線級の行政官にもなれるし、戦士にもなれるであろう。

 ただ鑑賞されるだけの無力な花ではない。

 求められているのは空に羽ばたくための意思――――そのきっかけであった。

 だが近い将来、その籠が外部的に力づくで破壊されるということ、神ならぬ身のマルグリットとコーネリアは知る由もなかった。

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