第3話 価値

 

「これは独り言なんだけどね」

「聞いて欲しいのか?」

「……野暮ね。聞き流せばいいのよ」

 

 シェリーは高級椅子に座りながら代わり映えもしない夜空を窓の内から見て、呆れたように溜息を吐いた。

 どこか憂う様に見える彼女の顔はとても絵になる美しさだ。フェルメールが彼女の絵画でも描いていれば10ポンド、もしかすれば100ポンド以上の値が付く可能性もあっただろう。

 と言っても、彼女とフェルメールは同じ時代の人間でも、同じ国の人間でも無いのだからこんな仮定には何の意味もない。

 

「私、ロンドンには仕事を探してきたんだけどね。それと華やかな雰囲気に憧れてたの」

 

 産業革命の光に惹かれて、彼女はロンドンの街へと足を踏み入れた。工業が著しく発達した魔都へ。

 

「…………」

「けどね、来てみれば全然。心が折れそうでね、……ある夜に男に襲われたの」

 

 卑屈に彼女は笑う。

 何とも痛ましい話だ。

 

「最悪だったわ。男は避妊具なんか付けなかったし、十分な準備なんて襲われただけの私にできるわけがなかった。痛みに喘いで泣いても、誰もこっちなんて見ない」

 

 その男は然るべき処罰を受けたかも分からない。ただ、今の彼女があるのもその男のお陰と言えないこともない。

 

「それで私は1シリングを手に入れた」

「1シリング……?」

 

 彼女ほどの女が、何故。

 疑問に満ちていたがシェリーにはドクターの表情の変化が面白かったのか、クツクツと笑っていた。

 

「笑うわよね。私だって自分の事は綺麗だと思ってたし。汚れちゃったけどね」

 

 何とも自分のことでは無い様に語る彼女にドクターは調子を外される。

 

「まあ、当時はね股を真っ赤にして腫れ上げさせて、おまけに顔も涙で腫らしていたわ。多分、ブッサイクだったと思うの。それで1シリングが私の価値だと思うと許せなかったんだけど。よくよく考えてみれば────」

 

 逃げる時に慌てて落としたのかもね。

 強姦を起こした人の名前も知らない彼女はきっと絶望に打ちひしがれ何もできずに腰を抜かしていたのだろう。

 処女おとめだったのだ。

 ただ、これがきっかけで純情な彼女は汚れていった。

 

「この商売を始めて三回目くらいでそのことに気がついて、でもお金を稼ぐのにこうするしかなかったって言い訳して今まで続けてきてたのよ」

「……聞きたくなかったな、その話も。それで私の払った10ポンドは何に使うか聞いても?」

「分からないわよ。10ポンドを手にするのなんて初めてなの」

「なんでも出来るだろう。演劇を見ることも、画廊に行くことも」

「じゃあドクターも一緒に観に行く?」

「何故私が……」

「いいじゃない。貴方も交友を持った方が良いわよ?」

「交友がないわけではない。まあ、麗しい女性に誘われては断る方が紳士としてはよろしくないか」

 

 考えるようにこめかみに当てた右手の人差し指をトントンと動かして、二度ほどノックすると側頭部近くから手を離す。

 

「私ね、演劇が見てみたいのよ」

「演劇か……」

「ウェスト・エンドに行ってみたかったの」

「ホワイトチャペルでも見せ物は見られるだろう?」

「嫌よ。と言うか、何で10ポンドの使い途を聞いた貴方が節約を心掛けるのよ」

 

 歩きで大凡一時間ほど。

 馬車にでも乗れば歩く必要もなくより早くウェスト・エンドに着くだろう。

 

「観たい演劇でもあるのかね?」

「……特にないわよ。その時やってる物を見て、勝手に満足するの」

「それで君が嬉しいのなら、私は構わないが」

 

 華やかな世界を未だに彼女は諦めることが出来ていなかった。

 

「嬉しいわ、きっと」

 

 今よりはずっと。

 身体を売って、日銭を稼いでその日その日を凌いで生きるよりも、煌びやかな夢を見れた方が。

 

「……レディ・シェリー。貴女にはロンドンの街、特にホワイトチャペルは似合わないな」

「ならどこがお似合い?」

「さてな」

 

 ただ、彼女がロンドンに似合った人間ではないというだけ。犯罪と工業の街、ロンドンに夢見る彼女は合っていない。

 

「10ポンドと1シリング……。やれやれ、考えてみればおかしな話だが、それは君が今の商売を始める前の話だな」

「勿体無いことをしたと思った?」

 

 たったの1シリングで彼女の初めてを奪った男と、10ポンドという大金を払い一夜の命懸けの逃亡を共にした関係。

 

「……いや、全く。お陰で君とは仲良く出来そうだ」

 

 親交を深められるのは10ポンドの清い関係であったのだとドクターは思わず笑ってしまった。

 

「君が出会う人には10ポンドで友達からと伝えることを勧めるよ……」

「随分高い女みたいね」

「高くて結構だろう。本当に愛しいヒトには10ポンドなどでは足りないはずだ」

「ドクター……独り身なのに良いこと言うのね」

 

 驚いた表情を見せてシェリーが揶揄う様な言い方をすれば、ドクターも戯けてみせる。

 

「そうかね?」

「10ポンド分の魅力を感じたわ」

「それは喜んで良いのか、どうか分からないな」

 

 苦笑いを浮かべドクターはカップを口元へと運んだ。

 

「喜んで良いわよ。私、10ポンドなんて初めて手にした額だもの。それに、ここまでの価値を覚えるなんて本当にないから」

 

 彼女の口元に三日月が見えて、ドクターは見惚れてしまう。

 本当に美しい女性だ。

 手放しで褒めよう。

 

「初めて男と仲良く出来ると思ったわね」

「……いや、まあ君の男性遍歴を考えれば分からない話でもないが」

 

 言っても仕方のない話だ。

 よくも男を嫌いにならない物だ。彼女の精神的強靭さは驚嘆に値する。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る