ロンドンシティの潜悪

ヘイ

第1話 遭遇


『欲望が全て殺意に塗り変わるように、そんなウイルスを作り出したかった』

 

 投与者不明、人数不明、名称不明。

 仮称ジャックウイルス。霧の都、ロンドンに密かに災厄の芽が開いた。




 霧に隠れた月夜に銀髪の紳士が白衣を纏い歩く。

 

「レディ」

「ドクター?」

「……すまないが、お客様だ」

「エスコートをして下さるのではなくて?」

「誰もそんなことは言ってない。私は、純粋に実験対象が欲しかっただけだよ」

 

 彼女は、そのための囮であった。

 金髪は肩ほどの長さに伸ばされ、毛先に近づくにつれて桃色のグラデーションが確認できる。

 顔は幼く庇護欲をそそり、或いは穢してしまいたくなるような神聖さとも言える雰囲気を孕んでいた。

 

「娼婦の貴女であれば金を渡せば、話を聞いてくれると思っていた」

「……最悪」

「10ポンドは既に渡したが、足りなかったかねレディ・シェリー」

「十分過ぎるほど。本当に!」

「10ポンドは娼婦の君が、男と十度寝たほどの値段だろうか」

 

 自らの身体にどれ程の価値を求めるかはドクターには分からないが、男がシェリーを相手にと求めるのであればもしかすれば1ポンドを出す事もあり得るかもしれない。

 あくまでこれは推測であり、そしてこの推測は外れている。

 

「それで、どうしたのかね? ジェントル……と言うには些か獣じみているような気もするが」

 

 霧に紛れて現れたのは鋏を持ったホワイトシャツの青年だ。胸元を開き、白色の胸板が僅かに露出している。

 

「…………」

 

 充血した目がシェリーを見つめる。

 ドクターの言葉には耳も貸さない。まるで聞こえていないかのように。

 

「ちょっと、こっち見てるんだけど!」

「…………ふむ」

「10ポンドは貰ったけど! 命をかけるなんて言ってないからね!」

「はしゃぐな、レディ」

「はしゃいでないわよ!」

「私だって無手でここに来たわけではない」

 

 そう言って懐から取り出したのは拳銃ピストル

 弾を込め、ゆっくりと撃ち放つ。距離にして大凡、三ヤード。

 放たれた弾丸は鋏によって弾かれた。

 

「何……?」

 

 出来るのか、この様な事が。

 神業だ。

 新聞に取り上げられないものか。

 

「ひっ……!」

「もう少し痩せたらどうだ、ミス・シェリー」

 

 姫抱きの状態でドクターはシェリーを抱えてロンドンの街を走る。

 

「こ、これでも痩せてる方なのよ!」

「ジョークだ。本気にするなミス。ジェントルはジョークも嗜むのだ、ドクターといっても私も男だからな」

「それより、貴方の目的は!?」

「あれを見ればわかるだろう! 不可能だ」

 

 一人でも回収はして見たかったが拳銃が通用しない事が分かっただけマシだ。文明の利器がまさか鋏に破れるとは思いもしなかった。

 今は生存を第一に考えるべきだろう。

 

「どこの誰が作ったか分からんが、血でも採ればウイルスの特効薬を作れると思ったのだがな!」

「言ってる場合なの!」

「君を捨てれば私は無事なのだが、どうするね?」

「止めなさいよ!」

「もちろんジョークだとも」

 

 ロンドンの街並みに利用できそうなものは見当たらない。魔術、などと言うオカルトにどっぷりと浸かり込んだ怪しげな物が科学の信徒であるドクターに使用できれば話は変わっていたのだろうか。

 ただ、彼がオカルティズム人目に触れぬ物へと足を踏み入れなかったのは、単に奇跡と言うものを人間の手で解明したかったからなのかもしれない。

 古くから伝わるアーサー王伝説に登場するマーリンは単なるフィクションでしかない。童心は惹かれた、今となっても解明してやりたい気持ちもあるが、やはり魔術は扱えない。

 馬鹿馬鹿しいにも程がある。

 

「タッチ・ウッド……!」

 

 胸元から寄せ出し木でできたクロスをシェリーは握りしめる。

 

「おまじないをしてる場合かね!」

「ドクターはおまじないを信じないかもしれないけど! これまでだって何度もおまじないで幸運は訪れたの!」

 

 馬鹿な話があるか。

 まじないなどとは心の持ち用だ。人の行動にまじないなどと理由をつける事で無理矢理に納得させているにすぎない。

 

「…………」

 

 鋏の鈍い輝きがチラつく。

 

「ふっ、ふうっ」

「ドクター! 追いつかれたわよ!」

「ひ、人を一人抱えて走るなど、私はスポーツに力を入れていないのだ! ギリシアのパンクラチオンでも収めていれば良かったか! 出来る事なら来世ではそうしよう!」

「それはジョークよね!」

「どうだかね」

 

 ドクターの額に脂汗が滲む。

 どうしたものか。

 出来ることなど、大してありはしない。死が直ぐそこまで来ている。

 ただ、やはり男の目に彼は映っていない。

 

「……私の責任だからな」

 

 それでも彼女を置いて逃げると言うのはドクターの倫理に反した。彼女の命に10ポンド、それだけの価値が、いやそれ以上の価値がある。

 

「当たれ!」

 

 ピストルの引き金を引いた。

 放たれた弾は再び鋏によって弾かれる。

 

「ふふふっ、打つ手なしだな……」

「幸運を……、神様助けて!」

 

 強がり、とはならない。

 ドクターの口からも漏れ出た祈りの言葉の始まり。ただ、全てが紡がれる前に鋏を持った男の身体が跳ねた。

 

「神、ではないが。まあ、何だ君たちに注意が向いていて僕は安全に彼を気絶させる事ができた。感謝するミス」

 

 彼の手には何もない。

 焦げ臭いようなにおい、一瞬の光。

 これは電気だ。

 つい最近、神から人の物へとなった。だが、ドクターの目には電気を発生させる装置が見つけられない。

 

「僕はエドワードだ。しがないオカルティストだよ」

「……電気を扱うか」

「よく分かったね。ただ、僕にとっては魔術と言うわけでもない。学問的な物ではないからね。ただ、僕は自分の身体の謎を解き明かしたいだけだ」

 

 エドワードに取っては彼本来の体質であって魔術的な要素はないと言うことらしい。彼自身にも制御ができないためゴム製の手袋を身につけているようで、今も両手に黒色のゴム手袋を装着した。

 

「……不思議な体質だな。君に痛みはあるのか?」

「特にないよ」

「ふむ……」

 

 考えを巡らせようとするが腕から降りたシェリーはペチペチとドクターの腕を叩く。

 

「ねえ、取り敢えず気味が悪いから、まずはここを離れましょうよ……」

「それもそうだな……ミス、今回の事は君のまじないのおかげ、と言うことにしておこうか」

「ほら! 効果あったわよ!」

 

 ただの偶然だろうが、そう言うことにした方が簡単だ。ドクターは顎をさすってふと視線をエドワードの居た方向へと向けると、先ほどまでいた茶髪の彼の姿はどこかへと消えていた。

 

「黄金の夜明け団……」

 

 近年発足された秘密結社の名前をドクターは小さく呟いた。

 

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