第4話 歴史に埋もれた天才剣士

 時は江戸時代末期に遡る。

 江戸に三大道場といえば、北辰一刀流の玄武館、鏡心明智流の士学館、神道無念流の練兵館のことを指す。

 その中の練兵館は、一説に位桃井、技の千葉、力の斎藤と謳われた力の斎藤こと、斎藤弥九郎が設立した一大道場である。

 のちに志士として知られる桂小五郎(木戸孝充)が塾頭を務めたことでも有名で、初代総理大臣となる伊藤博文や高杉晋作、井上聞多(馨)などもここで修行の日々を送った。

 その練兵館に、勝負において誰の追随も許さない無敵の『閻魔鬼神』と呼ばれる男がいた。

――――仏生寺弥助

 自分が歓迎されていないのがわかっているのか、不貞腐れたように弥助は胡坐をかいて道場の壁に背中を預けていた。

 髪は乱暴に刃物で切ったのか、ところどころか不揃いで、どこか世を拗ねたような目つきの悪い男である。

 身体も鍛え抜かれたと評するには程遠く、まるで役者のように華奢で肉のついていないスラリとした体つきをしていた。

 通りでふとすれ違っても、彼を剣士と見抜くのは至難であろう。

 身長は五尺三寸(約百六十センチ)、決して体格に恵まれているともいえない。

 それでもなお、彼が江戸三大道場のひとつ、練兵館最強の男であることは誰も否定のできない事実だったのである。

「――――まだこないのかい? その宇野金太郎って男はよぅ」

 来ないなら来ないで早く酒が呑みたい、とわがままをいう弥助を道場の主、斎藤弥九郎の三男である斎藤歓之助は苦りきった顔で押しとどめた。

「もう少し待て。せっかくお前の借金を肩代わりしてやるんだ。少しは大人しくしていろ」

 弥助が他流試合の代打ちとして呼び出されるのは、これで何度目になるだろうか。

 練兵館一の腕を持ちながら、弥助は道場の仲間にとってこんな時にしか役に立たない厄介者でしかなかった。

 なんといってもまず修練をしない。二十を過ぎたあたりからほとんど道場にも寄りつかず、博打や色街に出かけては遊興にふけるだらしのない男で、たびたび借金が払えなくなっては金を無心にくる男であった。

 憎らしいことに、それでもこの男が最強なのである。

 いかなる努力も決死の覚悟も、この男の天才には届かないのだ。

 まともに日々修練している人間にとってこんな理不尽なことはなかった。

 聞けば三月ほど前、弥助は信濃の道中で、金がなくて行き倒れかけていたところを同門の高杉晋作に助けられたらしいが、立っているのもやっとなほど飢えているのに、調子に乗って晋作が勝負を挑んだら手も足も出ずに敗れたという。

――そんな顔も見たくない憎らしい男に頼らざるを得ない自分が、なんともいえず歯がゆくもどかしかった。

 歓之助とて、好き好んで弥助の力を借りているわけではない。

 師である斎藤弥九郎を除けば、道場で表向きに最強なのは塾頭ということになる。

 困ったことにその塾頭である桂小五郎も、歓之助もすでに宇野金太郎に完敗していた。桂小五郎にいたっては右手首を骨折して、しばらく道場に出ることもできない有様である。

 いかなる不利な体勢からでも後の先をとる宇野金太郎の小手。

 練兵館ばかりか玄武館や士学館でも、江戸に名高い高弟が宇野の小手の前に敗れ去っているというもっぱらの噂であった。

 このまま無敗で宇野を返しては江戸三大道場の名が廃る。

 歓之助が心を鬼にして厄介者の弥助を頼ったのには、そんな事情があるのだった。

「お待たせしたかい?」

「いや、たびたびのお越し、痛み入る」 

 一刻ほど遅れてやってきた宇野は、意外にも弥助とさほど変わらぬ、むしろ小柄な体格の男であった。(※ 史実では歓之助と弥助のほうから岩国に出向いています)

 男ぶりもよく、錦絵にでてきそうな苦み走った男前である。桂小五郎もまた美男で知られる男であり、この二人が戦った試合はさぞや絵になったことだろうと弥助は思う。

 刻限に遅れてきたとはいえ、桂小五郎、斎藤歓之助と連敗しているところをわざわざ道場まで足を運んでもらったのだ。

 歓之助が宇野金太郎を強く非難できないのは当然のことであった。

「…………あんたかい? 練兵館の秘蔵っ子っていうのは」

 強者は強者を知るものか。宇野の目は道場でひと際異彩を放っている弥助をすぐに見つけ出した。

「俺は素行が悪いんでね。気が向かなきゃ戦ったりしないのさ」

 宇野の言葉に、はっきりと歓之助は顔を曇らせる。

 息子であり、塾頭でもある自分こそが弥九郎の後継者という思いがある。弥助のようにごろつき同然の男が父の秘蔵っ子と思われるのは心外なのだ。

 だが現実は彼の思いを裏切っていた。弥九郎の剣を誰よりも体現しているのは、目の前の風采の上がらぬ男なのだった。

「要はあんたを倒せば、練兵館は負けを認めるってことだろ?」

「ま、そういうことになるけど、無理だろ。お前より俺のほうが強いからな」

「大した自信だが、桂殿のようにならぬといいがな」

 余裕と凄みのある宇野の嗤いを見て、再び歓之助は苦い顔をして唇を噛んだ。

 色男でいささか自信過剰の気質のある桂小五郎だが、その腕は十分に塾頭にふさわしいだけのものがある。

 柳生新陰流の免許でもあり、あの新選組の(この時点ではまだ江戸試衛館の館長だが)近藤勇をして「あれほど怖い剣士はいない」と言わしめ、直心影流で有名な男谷精一郎の愛弟子を撃破して江戸中に名を挙げた男だ。

 その桂が「いつなりと参られよ」と大上段に構えていたら、ほんの一撃で右手をへし折られたのだ。

 正しく練兵館の面目は丸つぶれである。

 ところが弥助は、そんな思惑など歯牙にもかけない。

 ただ借金を肩代わりしてくれるから、別に頭を下げる必要もなく金が入るから来ているだけ。最初から自分が勝つことなど、考えるまでもなくわかっている。

 本人が勝利を疑ってさえいないその傲慢が、その強さが、歓之助にはたまらなく妬ましく、同時に心強くもあった。

「――――面白い。ならば受けてみよ!」

 宇野の得意技は後の先をとる神速の小手だが、突き技にも定評がある。

 素人目には一度突いたように見えない三段突きを、弥助は軽く下から竹刀を合わせて逸らしてみせた。

「ほう……どうやら口先だけの男ではなかったか」

 宇野は弥助に対する警戒の色を深めた。

 こちらの突きの間合いも速度もすべて見切っていなければ、あれほど力を抜いた軽い一撃で宇野の突きは逸らせない。

 やや半身で晴眼の構えをとり、宇野は待ちの態勢に入った。

 相手が攻撃のために前に出たその手首を狙い、カウンターの小手で一撃する。その技を宇野は必殺の領域まで磨きに磨いている。

 だからこそあの桂小五郎が、なんの抵抗をすることもできずに敗れた。

 だが――――いかに血がにじむような必死の努力で手に入れた技だとしても、飛びぬけた天賦の才の前には等しくむなしい。

 そんな理不尽の象徴を、歓之助は何度も、何度もその目に焼きつけてきていた。

「――――面、でござる」

「うん?」

 ゆっくりと竹刀を振りかぶり、大上段に構えて予告面。

 思わず宇野が耳を疑ったのも無理はない。

 胴ががら空きになる上段の構えは、同格の相手の戦いでは滅多にみることのない構えだ。ましてこれから面を打つ、と予告されるなど新弟子として修業を始めた少年時代以来、一度も記憶がなかった。


――――パァン!


「一本! それまで!」

「なっ?」

 気がつけば宇野は鮮やかに面打ちを決められていた。

 いつ打たれた? 一切油断などしていなかった。いつでもカウンターで小手打ちができるように万全の態勢で待ち構えていたはずなのに、気がついたら打たれていた。そんなことが現実にありうるのか?

 むしろゆっくりとした動作で、再び弥助は竹刀を上段に構える。

 隙だらけのようにさえ見える無造作な動きであった。そこに宇野の目をもってしても捉えることのできない奥義が隠されているようには到底見えない。

「面、でござる」

「くっ!」

「一本! それまで!」

 面を打つと予告され、面が来るとわかっているのに、どうしても面打ちが防げない。立て続けに三本面打ちを決められ、先に宇野の方の心が折れた。

 この男には絶対に勝てない、と心の底から認めてしまった。こんなことは人生で初めての経験だった。

「ま、参った! 俺の負けだ!」

「おお! ご苦労さん、あんたもなかなか強かったぜ? それじゃあとは頼まあ」

 もう俺の仕事は終わったとばかりに、弥助はいくばくかの金を歓之助からせしめると、いそいそと吉原へと繰り出すのだった。

「――――どうして天はあんな男にあれほどの才を与えたのか……」

 苦渋に満ちた歓之助のつぶやきは、誰に聞かれるともなく宙へと消えていった。

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