第3話 竜殺し

 その答えはすぐにわかった。

 町中の人々の悲鳴と怒号もあるが、釣竿を握った弥助の目にも、波間を蹴立てて近づいてくる巨大な竜の姿がはっきりと映ったからである。

 色は鮮やかな白。おそらくは幼竜だろう。それでも竜の全長は十メートルを超える。

 視認できる距離まで警報が鳴らなかったのは、やはり竜がレーダーに反応しないステルスであるせいだ。

 全力で移動する竜の速度は、時速にしておよそ三百㎞に達する。

 夏島の沿岸に配備された陸軍の九六式十五糎榴弾砲や九二式十糎加農砲が、五月雨のように砲弾を吐き出したのはそのときだった。

 波間に次々と水柱があがり、そのうちの何発かが竜に命中しているように思われるが、竜は気にも留めずにそのまま驀進を続ける。

 さらに何十機もの九二式重機関銃から、七・七ミリの実包が曳光弾を伴った光の矢となって竜に突き刺さった。

「だめだ! 弾かれてしまう!」

 絶望の声があがった。

――――彼らもわかっているのだ。

 竜には対物理兵器(アンチマテリアルウェポン)は全く通用しない。対霊的兵器(アンチアストラルウェポン)でなければならないということを。

 しかし効果がないからといって守るべき民を見捨て戦わないという選択肢はヒノモト陸軍にはなかった。

 なかには民間人を足手まとい扱いする軍人至上主義者もいたが、ヴァージニア共和国軍との休戦に際し大部分が排除されていた。

 軍人を別名、醜(しこ)の御盾という。

 このダンプ諸島に駐留する守備兵たちは、まさに醜の御盾に相応しく、及ばぬながらも必死の抵抗を示しているのだった。

「お逃げください。坊っちゃま」

 決然としてすらりと伸びたまぶしい太ももから短刀を取り出すと、葉月は弥助を庇うように一歩前に足を踏み出した。

 理由はわからないが、あの竜は弥助と自分の二人をめがけて一直線に進んでいるように葉月の目には見えたのである。

「……いっしょにヒノモトを逃げ出したときから、敵とは二人協力して戦う約束だろう?」

「竜が相手では特別です。私の腕では時間稼ぎしかできません」

 帝国陸軍が総力をあげても足止めすらできない竜を相手に、時間稼ぎができるというだけでも空恐ろしい話であった。さすがは完璧なるメイド葉月。殺し屋など一蹴できるわけである。

 一切の物理攻撃を無効化する竜の前には、ヒノモト帝国海軍が世界に誇る聯合艦隊さえ手も足もでないのだ。

 竜を撃退することができるのは、古来からの異能を持つ者と、選ばれた鍛冶師が鍛え、力を付与した神具のみ。

 遠く鬼の血を引くと謳われる武門の家柄に生まれた弥助と、その分家である葉月もまた異能の血を色濃く受け継いでいた。

しかし葉月程度の異能では、竜に与えられるダメージはそれこそ爪楊枝で狼と戦うに等しいだろう。

 葉月が愛用している武具も、大山積神社に奉納された土佐吉光の短刀とはいえ、格も霊気も一級の対竜神具とは比較にならないほど貧弱だった。

 それでもかろうじて竜にかすり傷ほどのダメージを与えるだけの力はあるので、奇跡が起これば撃退することも可能かもしれない。

 いや、たとえ奇跡のような確率でも、弥助のために絶対にそこに辿りついてみせる、と葉月は決意していた。

「それに葉月姉みたいな綺麗な女性(ひと)を見捨てたら男が廃るでしょ」

「そ、そういう女性の口説きかたみたいな臭いセリフを坊ちゃまに教えたのは叔父様ですか? 帰ったらおしおきです!」

 そういいながらも葉月の歯切れは悪い。ダメなことだとわかっていつつも、心のどこかでうれしいと思っている自分がいるのだ。

「――――俺は教えてないぞ! 濡れ衣だ!」

「あら、いたんですか? 叔父様」

 猫可愛がりしている美しい姪に、絶対零度の冷たい視線を向けられて、剛三は哀しそうにうるうると目元を潤ませた。それでいいのかおっさん。

「そ、そんなことより早く避難するぞ! あの竜の時間稼ぎは俺がする!」

 いささか威厳が不足しているが、剛三はこれでもかつて帝国海軍で特殊任務を任されていた予備役中尉だ。

 そして葉月と同じく異能の血も引いている。現役時代はおそらくなかなかの強者であったろうことは剛三の訓練された動きの端々から窺えた。

 だが残念なことに、戦争での異能の酷使による後遺症が祟り、今の異能の強さは弥助はおろか葉月にも劣るほどで、とても彼に時間稼ぎができるとは思えなかった。

「叔父様には無理です」

 あっさりと葉月は断言する。

「そんなことより剛三叔父さん。あれはもってきてくれた?」

「あ、ああ……弥助の家宝だからな、これだけはきちんと渡さんとと思ってな」

 剛三が弥助に手渡したのは、家宝どころか国宝にしてもまだ足りない神刀である。そのため普段は弥助が肌身離さず身に着けて守っていた。

 しかしさすがに刀をもっての外出はこのダンプ諸島でもできないので、今日は釣りに出かけるときに剛三に預けていたのだ。

「それがあれば十分だ」

 弥助が剛三から手渡された日本刀を、堂に入った動きで鞘から刀身を抜くと、美しい波紋が太陽に反射して眩く煌めいた。

 この刀さえあれば相手が竜とてなんら恐れるに足らなかった。

「――――来ます!」と葉月が叫ぶ。

 そんなやりとりの間にも、竜は波打ち際まで瞬く間に迫り、大きく凶悪な牙をむき出しに咆哮した。

 人の精神を揺さぶり恐慌に陥れる咆哮。

 しかし異能の血を引く弥助達には効果がない。いや、剛三だけはオーラのガードが弱っているせいか心なしか動きが鈍くなったようだ。

「哭くなよ。耳が痛いじゃないか」

 ごく自然に口角が上がる。備前長船兼光太刀二尺五寸――鬼山家に代々伝わるこの神刀を握るだけで、弥助の胸に痺れるような高揚が湧き上がっていた。

 この刀ある限り、何者にも負ける気がしなかった。

 ヒノモトでもっとも有名な刀工といえば相州正宗その人であろう。天下五剣にこそ選ばれていないが、武人がもっとも崇拝し愛するのは刀は、今も昔も正宗が唯一無二の頂点である。

 長船兼光は十三世紀の刀工で、その相州正宗の十哲と呼ばれる直弟子でもあり、神刀鍛冶師としてその力量比類なしと謳われた。

 左文字や来国次、美濃国金重など名だたる正宗の弟子たちのなかで、こと神気を扱うことにかけて兼光に匹敵する者は誰もいない。

 彼こそが伝説の刀工、相州正宗の真の後継者と呼ばれる所以である。

 東京国立博物館の福島兼光や、高知城歴史博物館の今村兼光の優美かつ躍動的な、のたりに互の目の刃紋を見て感動した者も多いだろう。

 抜いただけで全身に神気が漲り、使用者の力を爆発的に増幅するその効果は、まさに兼光が稀代の神刀と謳われる証左であった。

――――昔、鬼山本家の血筋が途絶えたと思われた際、先代の隠し子が身売りされて今は女郎に身を落とされていることがわかった。半信半疑でその女郎に兼光を抜かせたところ、これまで誰にも抜けなかった兼光がすらり、と抜けたため、鬼山家の家宝備前長船兼光の別名を特に『女郎兼光』という。

 初めて弥助が女郎兼光を抜いたのは、三年前のあの日、ヒノモトで刺客たちに襲われた日の夜のことだった。

――――そして自分がかつて、全く違う人間――仏生寺弥助――として生きてきたころの記憶がよみがえったのも、神刀を抜いた瞬間であった。

 弥助が今とは、こことは違うもう一人の弥助、仏生寺弥助であったことは、今では葉月だけが知っている。

「神道無念流免許、仏生寺弥助推して参る!」

 かつて江戸の練兵館に閻魔鬼神と恐れられ、幕末道場破りを相手に無敵の名を欲しいままにした仏生寺弥助という天才剣士がいた。

 なぜかこの世界へと生まれ変わった幕末の天才と、かつての日本にはなかったヒノモトに連綿と伝えられた鬼の血が一つとなった時、――――そこに怪物が生まれた。

「坊っちゃま!」

「葉月姉はそこで待っていてくれ。必ず戻る!」

 ゆらゆらと陽炎のように揺らめきが視認できるほど人並外れた発気に、思わず剛三は全身を総毛だたせて呻くように言った。

「これが――帝国四鬼、鬼山家正統の血を引く者の発気か!」

 異能の血に曰く、初めに錬気あり。体内で気を鍛錬することで活性化させることである。そして十分に気が練られるとそれを体外に放出する。これを発気という。

 今弥助が行っているのがまさにその発気であり、その量は葉月の数十倍、剛三の百倍以上はあるように思われた。

「二人で協力して戦う約束なのでしょう?」

 くすりと笑って葉月はコツン、と弥助の額を叩く。

つい先ほど自分の言った言葉をそっくり葉月に言い返されて、弥助はしまった、と苦笑した。

「いいよ。それでも俺は葉月姉を守るから!」

気になる女一人守れなくてなんのヒノモト男児。葉月姉の嫁入り前の玉のお肌は俺が守ってみせる!

「――――ふんっ!」

 全身の発気を足に籠め、弥助は竜へと一気に加速した。

 『神足通』――古の央華帝国で仙人からもたらされたという絶技は影すら置き去りに、弥助を竜の鼻先に移動させる。

 息吹(ブレス)を吐くタイミングを逃して、竜は再び怒りの咆哮をあげた。

 現在世界で主力とされるレシプロ戦闘機の速度すら上回る弥助の接近速度は、竜にとっても意外であり、驚きでもあったのだ。

「ギュオオオオオオオオオオオオオオオッ!」

 精鋭として知られる帝国海軍航空隊のパイロットを、恐慌状態に陥らせ半ば潰滅に追いやった竜の咆哮である。

 気の弱い者なら、それだけでショック死しかねない精神的な衝撃は、伊達に魂砕き(ソウルブレイカー)の異名はとっていないことを証明していた。

 しかし弥助にとっては、わがままな子供が思う通りにいかなくて泣きわめいているようにしか見えない。

「なんだ、この程度かよ」

 今や世界を滅ぼすと恐れられる竜だが、弥助にはでかい図体以外になんのとりえもないように思えた。

 これなら葉月姉のほうがよほど恐ろしい。

「――――坊っちゃま、今何を考えました?」

 うん、そういうとこやぞ。

 嘗められていると思ったのだろう。

 竜は尾を横なぎに振り回すと同時に、再び息吹(ブレス)を吐く態勢に入った。

 巨体に似合わぬ素早さであり、尾の末端の速度はおそらく時速六百キロメートルに達していたと思われる。

 なぎ払われた風圧だけで、断崖の岩が割れ、礫が暴風に飛ばされるように撒き散らされた。

 しかし弥助と葉月にはかすりもしない。必要最小限の動きで苦も無くこれを躱した。

 一流の鬼の末裔の身体能力は、単体で近代兵器を優に凌駕する。

 現状、近代兵器による物理攻撃が一切通用しない竜に対して、唯一彼ら異能の者が対抗しうるのはその実力があってこそといえた。

 生身の体でありながら銃弾を避け、岩を割り、鉄より硬い竜の皮膚をやすやすと切り裂く。それがこの世界の異能なる者なのである。。

 そしてもっとも異能の血が濃いとされるヒノモト帝国四鬼家のひとつ、鬼山家の正統なる後継者こそが弥助なのであった。

 さらに異能がいない日本に生まれ、その天賦の才によって斬鉄をも成しとげた神道無念流の『閻魔鬼神』の力がそれに加わる。

――――もはやこの世に斬れぬものなど何もない。

 そんな確信が弥助にはある。いや、斬れると信じることこそ剣士の力の源だと、かつて弥助は、師匠の斎藤弥九郎にそう教えられた。

(さて、そろそろ本気を出すとしようか)

 不敵な笑みを浮かべる弥助に激怒したように閃光が走り、竜の息吹(ブレス)が弥助の頭をかすめて、チリチリと髪の毛が焦げる独特の嫌な匂いが広がった。

 着弾した場所のサンゴやらガジュマルやらが粉々になって吹き飛んで、半径数十メートルのクレーターが出来上がる。

 威力のほどはおよそ重巡の主砲クラスのようだ。やはり成竜よりはかなり威力が落ちる。

 これが現在世界を支配する四大竜王ともなれば、あの大和の四十六サンチ砲どころか、プロイセン王国の誇る世界最大の八十サンチドーラ砲をも上回るであろう。

 それでもまともに食らえば、異能の者といえど弥助でも即死は免れないのだが。もちろん、まともに食らえばの話だ。

 ヒュウ、と弥助は細く鋭く息を吐いて目を閉じた。

 呼吸のなかには生と死がある。正しく自分の生の時を知り、敵の死の呼吸を知れば――すなわち無敵、斬れぬ道理がなかった。

 幕末の天才剣士、仏生寺弥助が天才であったゆえんは、努力ではなくこの呼吸の、鼓動の、思考の、万物の生と死の刹那を感じ取る力を生まれながらに体得していたことにあった。

 意識を集中しているようにみえても、実は意識にはほんのわずかな継ぎ目のような隙間があり、筋肉もまた継続して緊張させているように見えても、実は同じ力で均等に緊張を持続させているわけではない。

 そこには意識してもわからぬほどの刹那の弛緩があり、空白があるのである。

――――感じる。呼吸、鼓動、そして身体をめぐる気の流れ。そしてそれにはほんの瞬く間ほどもない小さな生と死が繰り返されている。

――――刮目!

 兼光を左上段に振りかぶり、弥助は弾丸のように走り出す。

 竜の足と尾の攻撃をひらりと躱し、その鼻先を蹴り上げて跳躍した弥助を援護するように、葉月は自分の持つ最大の気をこめた短刀を竜の目をめがけて投げつけた。

「坊っちゃまの邪魔をするな!」

「ギュオオオオオオオオオオオオオ!」

 竜は突如瞳に突き刺さった短刀に激痛に身をよじらせる。正確には身をよじらせようとした。が、それより早く弥助が兼光を振りぬいていた。

 互(ご)の目交じりの美しい刃紋が、鉄砲切りとも兜割りとも切れ味を恐れられた兼光の魔性を高らかに詠うようにまぶしく煌めく。

――――――ザシュッ!!

「ちぃっ! 浅い、か」

 長い鼻を真っ二つに叩き斬られて、竜は哭き声をあげて悶絶した。自慢の竜髭が鼻と一緒にプラプラと揺れていた。

 あまりの苦痛からか、竜の大きな瞳から、ボタボタと大量の涙が零れて落ちた。竜涙というやつだ。

 アンチエイジングにかなりの効果があるらしく、飲めば二歳は若返るという。好事家がみれば狂喜してうなるほど金を積むだろう。

「なんとすさまじい……これほどの切れ味、歴代の当主にも真似できるかどうか……」

 いともあっさりと竜の鼻を切り裂いた弥助に剛三は瞠目した。

 元が職業軍人であった剛三は、あの戦艦長門の四十一サンチ砲、大和の四十六サンチ砲ですら、竜の肌にかすり傷ひとつつけることができなかったことを知っている。

 そして弥助の父にあたる鬼山多聞や、かつて上司であった百目鬼将暉といった、帝国四鬼と呼ばれるヒノモト最強の男たちの実力を目撃してもいた。

 弥助の力は、その全てを上回るものであった。これがどうして驚かずにいられようか。

 そう思う間もなく、竜の角から二筋の光が弥助を襲った。

 鼻と口が割られてしまって息吹を吐けなくなってしまったからだ。

 息吹(ブレス)だけではなく、竜はその角から雷を発することができる。実際の雷とは違って避雷針も利かないのは、雷が自然現象ではなくそれが法術だからなのかもしれない。

「ふう……危ねえ」

 間一髪で雷を躱し、次いで襲いかかってきた尾の連続攻撃を躱して、弥助はひとまず竜との距離を取った。

 弥助と竜とではもともとの体格差がありすぎる。普通に斬りつけただけではたとえ斬れても致命傷にはならないようだ。

 大太刀に分類される女郎兼光の刀身はおよそ三尺ほど。すんなり斬ることができても竜を傷つけられる深さは九十センチ強ということになる。

 もっともこれが普通の剣士なら、鋼鉄よりも遥かに硬い竜の肌にかすり瑕ひとつつけることもできないだろうが。

「ま、さすがは竜ってことかな」

 まだ日本の剣客であったころの記憶が抜けきっていないようだ、と弥助は剣の感覚を対人ではなく対竜用に調整した。

 ゆっくりと息を吐き足を止めると弥助は改めて全身の気を練る。その気を兼光へと付与するためだった。

 ただ単に斬るだけでダメなら、兼光に弥助の力と気を上乗せして斬るしかなかった。

「きゃっ!」

「葉月姉!」

 可愛らしい悲鳴に、慌てて弥助は葉月に視線を向けた。

 弥助が気を練っていることを察した葉月が、その集中力を乱すまいと攪乱をしてくれていたものの、息吹を避けたはずみに割れた大地の破片を浴びてしまったようだった。

 幸い怪我はなさそうだが、あの綺麗なメイド服が裂けて白い二の腕が露出している。さらに綺麗な鎖骨のラインと胸の谷間もちら見えしていた。なかなかにエロい。

「こらっ! 葉月姉の玉の肌になんてことしやがる!」

「いきなり何をいうんですか坊っちゃま! ていうか見ないでください!」

 恥ずかしそうに叫んで、思わず葉月は胸元の鎖骨のあたりを右手で覆うように隠した。

「いーや! 見るね!」

 どうせ避けるならもう少し胸元とか、太ももを狙えばいいものを。まあ、葉月姉を傷つけるわけにはいかないんだが。

「発気付与」

(よい気じゃの。主様)

 弥助の気にこたえるようにして、兼光の刀身が輝いた。

(わっちを放り投げて釣りに興じるとは、いけずな主様でありんす)

「まさか竜が来るとか思わないだろ。ふつう」

(竜ごとき、わっちと主様の敵ではありんせん)

「わかっているさ、高尾」

 弥助の脳内に響く声は神刀女郎兼光の精霊、高尾の声であった。

 ごくまれにだが、類まれな良質の気を持つ主は神刀を精霊化することができる。

 今のヒノモトでも、数えるほどしかいない奇跡のような現象を、弥助は十一歳ですでに達成していた。

 精霊化した対竜神具の威力はそうでない対竜神具の何十倍にも達するという。

(せっかく竜を相手するのにずいぶんとつれないのではないかえ? 主様)

「あの程度、高尾の手を煩わせるまでもないと思ったんでね」

 人類の天敵、竜の威容を前にそう放言してしまえるのは世界広しといえど弥助くらいではあるまいか。

 それが全く本気で言っているのが恐ろしいところであった。

(たまにはわっちにも見せ場をくりゃれ)

「高尾に頼まれちゃいや、とは言えないな」

 女郎兼光を包む光がさらに輝きを増した。

 それが何を意味するのか、葉月と剛三にはわかっていた。精霊が顕現するのだ。

 強力無比な人類の希望、竜をもたやすく葬り去る神世の刃。

「――――顕現」

(――――顕現)


 絢爛豪華な吉原の太夫らしき麗人が現れたのはそのときである。

 切れ長の妖艶な瞳、長い黒髪を結い上げ凝ったつくりの鼈甲の櫛が金細工で装飾され、まるで夜空に浮かぶ星のようであった。

 天壌の舞乙女のようでありながら、発散される武威は弁慶、武蔵もかくやという濃厚な圧力を放射していた。

 これが女郎兼光の精霊、高尾大夫である。

(さて、ひとさし舞わせておくんなし)

 弥助の練りに練られた気が、高尾の気と一体となり、兼光はさながら太陽のように光輝いた。

 竜の注意が葉月から自然と逸れる。

 弥助の殺気が伝わったのか、鼻を割られた激痛に怒り狂いながらも警戒したように竜は兼光を睨んだ。その攻撃が自分の命に届きうることを本能的に察したのである。

 あるいは竜はこのとき生まれて初めて、死というものに恐怖したのかもしれなかった。

 そんなことは気にも留めず、弥助はゆっくりと兼光を振りかぶった。狙うは竜の眉間、その一点のみ。

「――――面!」

弥助によって前もって予告された上面打ち――眉間への一撃を竜は避けることができなかった。それどころか、攻撃があったことさえ気づいていないかもしれない。

来るとわかっているのに誰も避けられない、弥助が前世から受け継いだ神技である。

神刀兼光はまるで柔らかなバターのように、有無を言わさず竜の頭部から胴体の半ばまでを真っ二つに切り裂いた。

次の瞬間、轟音とともに竜の体は地面に落ちて、ビクリビクリと断末魔の痙攣を晒す。

鎧袖一触とはこのことであった。

今や人類を滅亡に追いやろうとしている無敵のはずの竜が、弥助と高尾の前には赤子同然に無力な姿をさらしていた。

(まだわっちは舞いたりぬんじゃがのう)

 他愛もなくぶった切られた竜を見下ろして、高尾は不満そうに口を尖らせた。

「幼竜みたいだし、こんなもんだろ?」

 弥助もごく当たり前のことのように受け止めているが、これは実は恐るべきことであった。

「す、すげえ。竜を追い返すどころか、本当に倒しやがった!」

 剛三があんぐりと口を開けて放心するのも無理はない。

それは実は、これまで人類が一度も成し遂げることができなかった、異能者による単独での竜の討伐だったのである。

高位の異能者が集団で力を結集しなければ、たとえ四鬼家といえども竜は討伐できないというのがこれまでの常識であり世界の現実だった。

十分な魔法支援を受けた異能者が複数で竜を倒したことですら、いまだ世界で両手で数えるほどしか成し遂げられていない。

しかもただの一撃で、など空前にして絶後ではあるまいか。

本人はそんな偉業を達成したことにも気づかず、のんきに額の汗をぬぐっていた。

「……ふう、さすがに緊張した」

「坊っちゃま!」

「うわっ!」

地上に着地すると同時に、葉月が弥助めがけて体当たりするように抱きついてくる。

この一年の間、滅多になかった葉月との密接な肉体的接触。

成長著しい胸が押しつけられ、顎の下あたりにうずめられた葉月の髪から、木蓮のようないい香りが立ち上った。

思わず男の本能が、弥助の右手をするりと滑らせたとして誰が責められようか。


ふにゃり


(あ、柔らかい)

 柔らかさのなかにも張りのある極上の感触。

 ついうっかり、ほんの出来心で葉月のお尻に手を回してしまった弥助は、そのまま葉月にジャンプ一番、顎下にしたたか頭突きを食らった。

「――――この助平!」

 大きなおしりを両手で隠し、葉月の顔は羞恥に真っ赤に染まっている。

 自分でも表現しがたい感情に、目じりに涙を浮かべている葉月をみて、弥助は速やかに土下座を敢行した。

「大変申し訳ありませんでした!」

(いけねえ、いけねえ。ここは昔弥助が生きてた時代じゃないんだ)

 久しぶりに女、というものを感じて前世の感覚で女性との接触をやらかしてしまった。

 人類史上初めて単独の竜殺し(ドラゴンスレイヤー)となった少年は、前世の記憶に引きずられる自分を戒めつつも、思わず葉月のお尻の感覚を思い出して右手のひらをわきわきとさせた。

…………あれはいいものだ。うん。

 卑猥な手の動きを見た葉月は、頭から湯気を出さんばかりに顔を真っ赤に染めた。

「――もう! もう! 坊っちゃまの馬鹿! 助平! 変態!」

 ああ、ものすごく可愛い。

 ふとまだ弥助が仏生寺弥助であったころ、通った吉原の格子女郎、墨染のしなやかな肉体を思い出し、女の勘で何かを察した葉月は叫んだ。

「ひとのお尻を揉んでおいて、ほかの女のこと考えないでください!」

(あれあれ、色事では我が主様もまだまだでありんすなあ)

 烈火のごとく怒りまくる葉月と、平身低頭する弥助を、高尾はころころと鈴が鳴るような声で笑った。

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