第3章-3
まだ陽気という言葉で片づけられる日差しを背に、小川唯は大きく伸びをした。梅雨入りもまだ遠く、幸い屋上で過ごすにはうってつけの気候が続いている。このままの天気が続くよう、唯は切に願った。屋上の入り口、半分日陰になっている範囲に本を敷いて座る。お尻が痛くなってきたら、外縁の柵にもたれ、立ったまま本を読む。唯が最近見つけた、お気に入りの過ごし方だった。学校の授業は、教師から目を付けられない程度の最低限の出席だけ気を付けた。多少参加していなくとも、成績は維持できている。父から文句を言われる理由もないのだから、学校サボりは自分だけに許された特権と言えるだろう。
唯は立ち上がり、スカートの裾を払った。灰色の埃が宙を舞って落ちる。歩みを進めて六歩。柵まで来ると、唯の通う高校のグラウンドを見下ろすことができた。最近になって喫茶店よりもこの場所に惹かれるのは、景色が決め手なのだろう。体調が悪いと言って休んだ優等生が、実は目と鼻の先で空から見下ろしていると誰が想像するだろうか。こんなに近いのに、どこよりも見つからない場所。秘密基地のような特別感が、唯の冒険心をくすぐった。
屋上に入りたくて、地元のインターネット掲示板で花火大会を見るための穴場を検索するという発想。閃いた時は、自分は天才だと思った。尚且つ学校の近くで見つかるとは。神様にまだ見捨てられてはいないのかもしれないと、したり顔になる。
厄介なのは、時々本当に体調が悪くなる時があることだ。出席日数をギリギリにして、体調不良で休むしかなくなった場合。留年確定の日数になったら、さすがに教師になんと言われるか分からない。それにこんな屋上でうっかり死んだりしたら、死体は鳥に食べられて白骨になってしまいそうだ。医学に関する本も読み漁った唯にとっては、人間はそう簡単に死なない図太さと、ちょっとした掛け違いで死に至る脆さの双方が既知の情報だった。何かの拍子で心臓が止まったらどうしようと、杞憂とも思える考えがこびりつくことがある。そんな時、唯は少しだけ、本を読みすぎるのも考えものだと後悔した。馬鹿らしいと思いながらも、用意しておいた水筒のお茶を飲む。これで、脱水症状で死ぬことはないだろう。
もう一度柵へ頬を押し当て、校舎の方を見ようと目を動かす。唯のクラスの教室は、何度やってもギリギリ建物の陰になって見えない。頬骨と柵が直接当たっているのではないかと思えるぐらいに寄り掛かっても視界は変わらないので、諦めてグラウンドへ視線を戻した。
恵太は今頃英語の授業だろう。また眠りこけてはいないだろうか。唯は時に、恵太のことも心配になった。あの好奇心の無さ、向上心の無さは、いずれ将来ボケた爺様になってしまう気がする。この際対象は何でもいい。新聞部の記事だって、依頼されたのならいっそのこと、やり遂げるという機会になってはくれないだろうか。唯の思いとは反して、恵太は竹内先輩からの依頼にも消極的なままだ。実のところ、恵太からすれば唯が引き受けたのはいい迷惑なのだろうが。私にも譲れない理由がある、と唯は心の中で弁明した。
忘れたころに厚みのある風が全身めがけて吹き付けてくる。唯は、乱された髪を簡単に整えため息をついた。変わらず考えるのは恵太のことだ。自分の飽くなき探求心を分けてやりたいとすら思う。実際に切り取って分け与えるわけにもいかないので、できるだけ新しく知ったことや面白いと思ったことを恵太に話すようにしていた。洗脳チックでもいいから、影響を与えられないか。明日は、このビルを見つけるまでのアイディアを話そうと思う。
物思いの中、重い鉄扉が軋む音に振り向いた。約束の時間から五分ほど経っているだろうか。ファミレスで待ち合わせした時と同じく、彼女は少し遅れてやって来た。
「ほんとにこんなとこ入れるんだ。斬新」
莉花が、物珍しそうにあたりを見渡し、後ろ手でドアを手放した。風のせいもあって、大きな音とともに激しく閉じる。
「意外といいでしょ」
「そうかも、意外と」
莉花が近寄ってくる。初めて見る制服姿は、身軽そうで活発な莉花の魅力がよく表れていると思った。以前見た黒光りするジャケットより、半袖から肌が出ているぐらいの方が似合っているのに。そう評論しながらも、服装とメイクで、あれだけ普段と違う自分を生み出せるのは羨ましい気もした。
唯がインタビューの時のことを詫びると、莉花はあっけらかんと笑って意に介していない様子だった。
「いつもここでサボってんの?」
「そう、学校を見下ろしながらサボるの。お手軽国王スタイルかな。あとはね、桜町通りもたまに行くかな」
「あはっ、意味わかんない。そのキャラでそのシュミ意外すぎ」
「柳さんは? いつもどこでサボってるの?」
「なにサボってるって決めつけてんの? まあ、サボってるけど」
唯が説明したように、莉花は柵に掴まって学校を見下ろす格好で笑った。
「てか、莉花って呼び捨てでいいよ」
曖昧に頷きながらも、同姓を呼び捨てにする文化が唯にはなかった。心の中で、ちゃん付けで妥協してもらおうと誓う。
二回目に会う約束を、学校の授業中はどうかと提案したのは莉花だった。唯が時々サボっていることなど、莉花は知らないはずなのに平然と授業を抜け出せばいいとメッセージを送ってくる。その時は驚いたが、顔を突き合わせてみれば莉花の正直さゆえのことなのだろうと思った。楽しいことも嫌いなことも、自分の感性に正直に表現する。莉花がサボりたいと思ったから誘った。それだけのことなのだろう。
二人はヘイトロッカのことはそっちのけで、思いつくままの話で盛り上がった。唯は不思議な感覚も同時に覚えていた。同性との会話の機会が思い出せないぐらい遠く失われている今、つい余計なことを話し過ぎてしまう心境にある。それは唯自身理解しているつもりだが、なぜ莉花はそんな相手に付き合ってくれるのだろう。唯が尋ねると、莉花は「私はバカだから、学校サボるの付き合ってくれるならなんだっていいんだって」と笑っていた。そういうものなのか、と変に納得させる大らかさがあった。
心の中で、意図していなかった方へ進んでいることが歯痒かったが、久しぶりの女同士の会話を止めるのが名残惜しい。もう一つだけ、この話題だけ、と続けていると、瞬く間に日が暮れ始めている。さすがに喋りすぎたと後悔したが、胸の中でひっそり詫びる他なかった。
「ごめんね、遅くなっちゃった」
「いいよ、唯って真面目そうなのに無茶苦茶だし。結構面白かったよ」
過去形になった莉花の言葉に、そろそろ本当に終わらせなければと我に返る。
「ねえ、そういえばあれはもう、大丈夫?」
「ああ、あれ。ひどくなる一方」
莉花はすぐに唯の指すものを察知したようで、途端に顔を曇らせる。メッセージ上でやりとりをするようになって、唯は莉花がヘイトロッカのファンから度々嫌がらせを受けていることを聞いていた。
「これ、見て」
莉花がスマホを差し出してきたので、言われるがままに受け取る。二階建ての一軒家が玄関前から写された写真だ。これといった特徴のない家に、莉花の意図が分からず顔を見る。
「私の家だよそれ。サイトの掲示板に晒されてるの。ありえなくない?」
「え、それほんと?」
「ほんとに決まってんでしょ。家は関係ないだろっての。マジでムカつく。頭おかしいんだよここの管理人」
「管理人? サイトの管理者がやってるってこと?」
「そういうこと。他に住所とかバレるわけないし」
脳裏に、唯自身がこのサイトに登録した時のことがよぎる。有料なわけでもないのに、やたらと連絡先や住所を入力する必要があり戸惑った。とはいえヘイトロッカのファンに接触するにはこの方法しかないと、渋々打ち込んだ記憶。偽りの情報で登録できないよう、身分証明書の写真まで送らされる徹底ぶりだった。男子禁制のため、という仰々しい赤文字が画面上の形のまま記憶に残っている。
「今さら分かったけど、遅すぎた。あのサイト自体、頭おかしい管理人が標的を探すためにやってんだって」
「標的って、なんの?」
口元を半分だけ歪ませて、付け足したような笑みで莉花は答えた。
「生け贄にする相手、ってところかな。知らないけど」
唯は背中を伝う冷たい感触に身をすくめた。奇しくも、恵太や竜海に使った生け贄という言葉。思いがけない一致と、莉花の不自然な笑みが唯の鼓動を早める。
「あいつ、自殺に追い込む相手をああやって探してるんだよ」
大丈夫、ただの偶然だと自分に言い聞かせる。常に平静でいないと、莉花の助けもできなくなってしまう。悟られないよう、懸命に邪魔な思考を振り払った。
「その管理人が、自殺を仕向けてるの?」
「絶対そう」
動揺で莉花の言葉を聞き逃していないか不安だったが、不自然な返しではなかったようだ。莉花は引きつった笑みこそ止めていたが、今は管理人への憤りが露わになっている。ため込んでいた鬱憤を解き放つように、莉花は詳しい経緯を話し始めた。
莉花がまくし立てた話によると、この一か月ほどで自殺を促すようなメールが一日に何度も来ていたそうだ。馬鹿げていると無視を続けていたが、ついには家まで来て写真を撮られ、サイトに掲示された。二年ほど前から、突然サイトに誰かの家の写真が載っていることがあったそうだ。載せた誰かの意図は分からなくとも、写真自体は何の変哲もない民家のため話題にもならず、忘れ去られていく。だがそれから一か月ほど経って、ヘイトロッカのファンが一周忌でまた後追い自殺をしたとニュースで報道されると、例の写真が注目を浴びた。遺族のインタビュー映像の、一瞬映った背景と写真の家とが同じ場所ではないかと、誰かが書き込んだという。同じ現象は昨年も続き、写真と自殺者の関連を莉花自身も認めざるを得なかったと、不服そうに話した。
メールに対して強気でいたという莉花も、写真を貼られたことでさすがに気味の悪さが強くなってきたのだろう。警察に相談するべきだという唯の提案をすんなり受け入れてくれた。唯はようやく一つ、安堵の息をつくことができた。
「でもその管理人って人、なんで莉花ちゃんを選んだんだろう」
「私が、死にたいって書き込んでたからだろうね。しかも何回も」
莉花が今度は自然な苦笑を浮かべた。
「なんでそんなこと、死にたくなるぐらい酷いことがあったの?」
頭が揺れる、そう思った途端、唯は背を柵に預ける格好でしゃがみこんでいた。不快な浮遊感の後、何事もなかったように莉花の顔を見上げることができた。
「別に。ちょっとそう思っただけ。あんなの本気にして、自殺するように言ってくるかな普通。イカれてるよね」
「書き込みを見て、狙われたってこと?」
「多分ね。しつこく押せば死んでくれそうな相手を探してるんだと思う。去年とかもそうやって、誰かを死なせてるんだよ絶対」
莉花は腕組みをし、姿の見えない悪意にぶつけるように舌打ちをした。
「でも、本当にそうなのかな」
「どういうこと?」
納得できないことがいくつかあった。莉花は唯の疑問に、表情を変えず耳を傾けている。
「いくら死にそうな人を選んだからって、そう簡単に死ぬ人がいるかなって。それに、一番分からないのは目的かな。人を死なせるのが面白いんだとしても、一年に一回ていうのが変だなって。そういう人って、エスカレートして間隔が短くなるのが大体だもん」
「なんか探偵みたいだね」
見開いた莉花の目に見つめられ、唯は中途半端にはにかむ。ミステリーでよく出てくる、犯罪者のプロファイリングをするシーンから知識を取り出しただけだ。感心されるのは照れ臭かった。
「でも、その答えは簡単だよ」
腕組みしたまま、莉花は吐き捨てるように続けた。
「目的は、ヘイトロッカの話題を作りたいだけだから」
「話題って」
大よその答えがチラついて、嫌悪感を覚える。フィクションでなく、そんなバカげた理由で人の命を使う者がいる。唯は、できれば自分の考えが外れていて欲しいと願った。
「毎年ファンが死ねば、そのたびにニュースで取り上げられるじゃん。ヘイトロッカが忘れられないように必死なんでしょ。死んじゃった奴は、その方法に乗っかったってこと」
他人事と言いたげな投げやりな説明は、唯の想像通りの話だった。頭が揺れる予感は明確な眩暈に変わりつつある。座っておいてよかった、と唯は思った。
「本当は、どうしたいのか自分でも分かんないんだよね」
莉花は柵を掴み、自分の足元より遥か先の、アスファルトが敷き詰められているはずの地面の方へ目を向けた。唯は横目でその様子を追うのを止め、膝を抱えて丸くなった。
「自殺したらね、トビガミって呼ばれるんだよ。なんでか、みんな飛び降りて死ぬから。それでヘイロが話題になって、喜んでる奴らから神って崇められる。どんな神様だっての」
唯の前に、唐突に莉花のスマホが差し出された。促されるままに見ると、画面いっぱいに、同じアドレスから来たメールの一覧が並んでいる。上から莉花の指が伸びてきて、その一つに触れる。開かれたメールは、一行のシンプルなものだった。
「つまらない人生にさようなら」
唯の反応を待たず、莉花は次々メールを開く。
「今日もつまんなかったでしょ?」
「痛くないよ」
「死ね死ね死ね死ね死ね」
「生きてて意味あるの?」
「ヘイロとトビガミは永遠」
「未来に楽しいことなんてない」
「七月六日が楽しみだねw」
淡々と流れる画面の一つ一つに、悪意に満ちた誘いが続く。
「七月六日……」
唯が突然出てきた日付を口にすると、莉花は「アキトの命日」と補足した。
簡素な文面だが、確実に煽り立てる意思を感じる。薄ら笑いを浮かべながら送る誰か。唯は、こみ上げてくる吐き気をなんとかこらえた。
「ムカつくけどさ、こいつに言い返せないんだよね。生きてる意味あるの? って聞かれたら、無いって答えると思う。そんな人生ならいっそ、飛び降りちゃえばアキトのためにもなるのかもね」
唯は黙って、ただ莉花の言葉をやり過ごすよう努めた。そうしなければ、正気を保っていられる気がしない。卒倒しそうな眩暈の中、風に負けてしまいそうな声をふり絞る。
「やめてよ、よくないよそういうの」
「あれ、ごめん私おかしいよね。あんなメールばっか来るからさ、私まで頭おかしいのがうつっちゃったのかも。ヤバイ奴って思わないでね」
取り繕うように、莉花は大げさに笑って髪をかき上げた。唯の異変に気付いたわけではないようで、気まずそうに柵沿いに歩き、景色を探す素振りをしていた。
「絶対に忘れないで」
気を失ってでも、これだけは伝えたくて莉花を見上げた。何事かと、莉花が振り返る。
「莉花ちゃんが生きてる意味はちゃんとあるし、これから先、いいことなんかいくらでもあるよ」
莉花は面食らったように一度動きを止めた。唯の言葉を確かめるように何度か頷くと、小さく笑った。
「ありがとう。いい奴だね、唯って」
莉花に引っ張られるように頬が緩んだが、唯は拭い切れない不安を隠していた。どうか、莉花に明るい未来を信じてもらえますように。今まで読んだどの本を引用しても相応の言葉がなくて、同じようなセリフを何度も続ける。今更になって、知識だけでは補いきれない、経験というものの不足を思い知らされたのが辛かった。
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