人魚の末裔の私4
それから数日、痛みを隠してお仕事を続けた私はそろそろ限界を悟った。夜の静寂は心臓の痛みを加速する。私は痛みに耐えられなくて夜中に博士のいる研究所にやってきた。驚くことに博士は、こんな夜更けなのにまだ実験室で仕事中だった。
「はかせー。私、もうだめかも」
博士の姿を見て、安心したのと同時においしそうと思ってしまった私は、もう、壊れている。自分が怖い。死んじゃいたい。博士の姿を見ると痛みがどんどんひどくなって、立ってられなくなった私は、実験室の扉に肩をつけてずるずると床に座り込んだ。
「お前、また俺に惚れやがったのかよ」
博士は急いで近づいてきてしゃがみ込み、ちょっと困ったような痛ましいいものを見るような笑みを浮かべた。これは愛ではないだろう。研究対象の私に向けてくれた、ほんの少しの情と優しさ。でも、返されたそれを勝手に好意に変換して、私の心臓は痛みが少し和らいだ。浅ましい私の心臓。
「うん。ごめんなさい。何度も好きになってごめんなさい。でもはかせが好き」
「どうしたい?」
おいしそう。ああ、そんなことを考える自分に絶望が深くなる。
「記憶喪失はもう嫌なの。だから、もう、死んじゃいたいの」
あれからずっと考えてた。何度も繰り返す記憶喪失。終わりのない連鎖。決して愛されることのない呪いのような繰り返し。
あの日記帳。冷静になって読み直してみたらわかった。記憶喪失の回を重ねるとごとに、おかしくなっている。だんだん、博士を盲目的に愛する狂った文章になっていた。記憶をなくすほどの強い薬を私は何回飲んだんだろう。人魚に会って、本能に目覚めてしまった私は、きっと遠くないうちに狂って博士の胸に腕を突き立ててしまうだろう。それだけはいやだった。もう、この呪いから自分を解放してあげよう。残された選択肢は、死ぬことしかなかった。
「死んで逃げんな。心臓が欲しいんならやるぞ。それで終わりにするのも、ありだ」
私は息をのむ。博士がそのことを口にすることはないと思っていたから。死にたくないから教えてくれないんじゃなかったの? 隠してたんじゃないの?
「お前は、俺の心臓で自由になれる。自由に生きていける。俺が死んでも、お前が罪に問われないように全部手配してある。お前が本当に欲しいんなら、やる。奏海が欲しいなら全部」
なんで博士がそんなこというのかわからない。だから、ずっと考えてた私の気持ちだけを伝える。
「ううん、いらない。食べたくない。でも、間違って食べちゃうと嫌だから、私が死んで終わりにしたい。博士も怖いでしょ。自分を食べちゃうかもしれない化け物が側にいるんだよ。博士を怖がらせたくないの。早く死んじゃいたい。だって、私、だんだんおかしくなってる。記憶喪失はもういや」
「別に、怖くねーよ。お前が欲しいならいつでもやるって言ったろ」
博士は、私の頭をなでた。また、心臓の痛みが和らいでくる。
「お前のしたくないことは分かった。じゃあ、お前のしたいことは何だ? 欲しいものはなんだ? 死にたいだけじゃねえだろ?」
博士はいつの間にか床に転がっていた私を抱き上げていた。
早く終わらせてくれればいいのにと思いながら気づいた。ああ、そっか。これは儀式だ。きっと、言わないと終わらないんだ。
「はかせ、私、告白するから優しく振ってね。死んだらかいぼーしていいよ。役に立ててね」
一番欲しいものは、Yesの答えだ。でも、そんなものを口に出すほど、私も落ちぶれてはいない。
「博士。私は博士が好き。人魚の告白に、答えを頂戴」
答えと心臓がはじける瞬間を待って、私は目をつぶる。すると、唇に温かいものが静かに触れて、そっと離れた。
「ああ、俺もずっと好きだった。だから、奏海の失恋はもう終わりだ。待たせたな」
私の心臓は弾けなくて。
とくん、と、この時初めて、次へとつながる時を刻み始めた。
「お前の父親と母親の話だ」
博士は、別の意味で落ち着かない心臓を抱えた私の手を引いて、夜の浜辺まで連れて来た。夜の張り詰めた空気は、いつも以上に潮騒を響かせる。
「お前は、俺の恩師と人魚の末裔の女性との間にできた娘だ。先生は事故で妻と娘を残して死んでしまった。そして、お前の母親の心臓もそれに耐えきれなくて亡くなってしまった。小さな娘を残して」
私たちは、浜辺に二人で座りながら波を見つめていた。初めて聞く両親の話が死の話なのは悲しいけれど、私は記憶がないせいであまり実感がわかない。でも博士の顔は、今まで見たこともないくらい苦痛に歪んでいた。
「お前の母親は、お前をとても大事にしていた。でも、愛した夫の心臓を食べることはとうとうできなかったんだ。先生の妻も死に、残された娘は母親を奪われた。俺は後悔した。側にいたのに、何一つ救えなかった自分が不甲斐なかった。だから、同じことを繰り返さないために、先生の研究を引き継いで人魚を幸せにする薬を作ることにした。奏海。お前が将来恋をして、誰かと一緒になって子供を持った時に、その子供がお前のように母親を亡くすことがないように、そんな薬を作りたかったんだ」
博士は、遠い目をして波の向こうを見つめてた。
「薬は二つ、作ってたんだ。一つ目は記憶喪失の薬だった。これができた頃、奏海が初めて俺を好きになった。だけど俺は、一回りも年が離れてるしお前を幸せにする自信もなかったから、迷わず記憶喪失の薬を飲ませた。奏海を他の誰かに託すために。でも、お前は何回繰り返しても俺に惚れやがる。根負けだ。だから、二つ目の薬ができたら、お前を受け入れると決めていた」
「薬、できたの?」
「ああ、さっきな。人魚は脳の作りが特殊で、扁桃体からの神経伝達が心臓に直結してる。その特定のシナプスを恒常的に遮断できる薬――つまり、人魚が失恋しても死ななくなる薬が、さっき、できた」
博士は、ポケットから、小さな薬瓶を取り出した。
「飲んで」
私は、その薬を飲み干した。甘くて、苦い、長い、長い時間と想いが込められた優しい薬。
「これで、これで、もう大丈夫だ。お前は、俺に何かあっても絶対死なない」
そうつぶやく博士の声には嗚咽が混じっていた。
「ずっと謝りたかった。俺はお前の中から、父親と母親の存在を消してしまった。本当にすまない」
そっか。博士は何も知らない私の分の記憶と罪まで、今まで全部背負って生きて来たんだ。
「許さないよ、はかせ。一生許さないからその代わり、はかせが私に父さんと母さんのことをいっぱい教えるんだよー」
私は、博士の貴重な泣き顔を楽しむべく、博士の顔を覆っていた手を無理矢理はがして、無理矢理にキスをした。
博士は一年に一度、結婚記念日に私にこの薬を飲ませる。神経回路は再生してしまうので、毎年薬を飲み続ける必要がある。
でも、子供が大きくなって独り立ちした今、博士は私がこの薬の中身をすり替えていることを知らない。
毎年結婚記念日に、私はあの日記帳を開く。
博士の知らない、大事な私の、恋の記録。
失恋すると死んでしまう人魚の末裔の私は、たいてい記憶喪失 瀬里 @seri_665
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます