失恋すると死んでしまう人魚の末裔の私は、たいてい記憶喪失

瀬里

人魚の末裔の私1

 懐かしい歌声のような波のさやめきと、瞼から染み込んでくる陽の光とで目を覚まし、その日、私は始まった。

 見覚えのない天井、カーテン。首を傾けると、理科教室にあるような大きな作業机の端っこで、よくわからない器材で変な液体をかき混ぜている白衣の男の人の姿が目に入った。

 さて。ここは一体どこだろう。あの人は一体誰だろう。そして、そういう私も誰だろう? 

「起きたか。そこに説明書があるから読んでおけ」

 そんな私の疑問をよそに、その男の人は液体をかき混ぜる手を止めずに、もちろん振り返りもせずにぶっきらぼうにそう告げた。非常にどうでもよさそうだ。不思議なことにその声になんとなく安心して、私はその言葉を口にしてみる。

「あの、私記憶喪失みたいなんですけど」

「ああ。だからそれ、記憶喪失の説明書だから。俺のことは博士と呼べ」

 はい?


 説明書は記憶喪失の説明書というより、記憶喪失になった私のための日常生活マニュアルだった。

 私の名前は井口奏海。人魚の末裔で、失恋すると死んでしまう。泡にはならないけど、心臓がきゅっと動きを止めてしまうらしい。

 で、私はこの度失恋してしまい、人魚の研究者である博士の研究所で、薬をもらって記憶喪失になっていると。恋してたことを忘れちゃえば、失恋無効ってことですね。うわー、私って超迷惑。

「はかせー。私ってすごくめんどくさい人ですねー」

「拾ってやった俺に感謝しろ。しゃべってねーで手を動かせ」

「はーい」

 私は、すり鉢で何だかよくわからない鉱物を細かく砕いていた。博士はそれをやっぱりよくわからない機械にかけて、何かデータを取るという作業を延々と繰り返している。

 私は、博士の研究所で住み込みのお手伝いしながら、近所のビーチハウスでバイトをして生計を立てているらしい。

「仕事だろ。もう行け」

「はーい」

 数日一緒に過ごすうちに、実は面倒見のいいこの博士との生活がとても心地よくなってしまった。

 私は、マニュアルに書いてあった仕事先のビーチハウスに向かう。初出勤だ。地図は頭の中に入ってるし、ビーチハウスがどんな仕事をしていたのかも知っている。白い砂浜を持つこの地域には夏も冬も海水浴客やサーファーが多く集まるので、そのための休憩所や食事を提供する施設が必要なのだ。店長には、私が記憶喪失になったことは既に連絡済だという。こんなめんどくさい私を雇ってくれてるなんて、本当にいい人だ。

「奏海ちゃん、また記憶喪失になっちゃったんだって? でも心配しないで働いてよ。体が覚えてるらしくて、前の時も二三日で思い出してくれたから大丈夫だよ。俺、店長の園田。そっち、バイトの下崎。奏海ちゃんの同僚だよ」

「へへー。ご迷惑かけますけどよろしくお願いします」

 おおう、既に前科持ちだったのか。説明書なんてものがある時点でそんな気はしてたけどさ。

 店長の言った通り、私は仕事もすぐに覚えたのか思い出したのかで普通に働けた。バックヤードで在庫チェックをしていると、同僚の下崎がやって来た。

「ごめんな。お前が記憶喪失になったの俺のせいかもしれない」

 そう言って手を伸ばして私の髪に触ってくる。ゾゾっと寒気がして一歩下がってしまう。

「あ、ありがと。でも、そういう記憶全部忘れちゃったからもう平気! 同僚としてよろしくね!」

 ないから! 寒気がするような人を好きだったって多分ないから! きっと君の気のせいだよ! ナイスミドルの店長の方がまだ可能性ありそう。

 私は誰に失恋したのかはあえて博士に聞かなかった。掘り返すと恐ろしいことになりそうだから。せっかく記憶喪失にしてもらったんだからそんなことには惑わされず、平和に生きていきたい。

 

 私は、研究所の敷地内の離れに一部屋をもらって住んでいる。博士は、研究所の二階に住んでいるけど、たいてい一階の資料室か、薬品が多く並ぶ実験室にいる。血液検査などのために研究所に来ることは多いが、それ以外でも仕事がなくて暇なときは、私はたいてい研究所に入り浸る。だって記憶喪失で知り合いもいないしやることないし。

「はかせー。私、何回記憶失くしてるのー?」

「覚えてねーよ。お前はすぐに惚れやがるからな。もうここはいい。外でまともな奴でもみつけてこい」

 実験の手伝いで薬を混ぜながら問いかけると、博士からはそんな回答が返ってくる。原色の赤とか黄色とか黒とか、なんだか毒々しい色の薬は、混ぜるとさらにひどい色になった。

「え? 私そんなにたじょーな女なの? でも、恋して振られてきたら、博士にまた迷惑かけちゃうんじゃない?」

「今度は振られないやつ、好きになってこい」

 博士は相変わらずどうでもよさそうな適当な返事を返してくる。ま、他人事だからね。

「ねえ、私って結構美人さんだと思うんだけど、なんでそんなに何回も振られるんだろうー? 惚れっぽくて軽い女だって思われてるってことー?」

 博士は、私の軽口にそろそろめんどくさくなったのか、答えなくなってしまった。集中すると聞こえなくなってしまうのはいつものことなので、私はそのまま口をつぐんで手伝いを切り上げた。

 浜辺でも散歩しようと研究所の敷地から出たところで下崎に会ってしまった。初日に変な感じになって以来、店長にシフト変えてもらってたのにな。

「おまえ、ここに住んでんのかよ。ここ、マッドサイエンティストが住んでて気味が悪りいって噂の家だろ」

「ちゃんとした研究所だよー。博士は別に気味悪くなんかないよ。愛想ないけど」

 大人の対応、と頭の中で唱えて笑って言い返す。博士の事知らないくせに悪口言うな。

「お前さ、この家出たいなら、俺んとこ来いよ」

 なんでそんな話になるのかさっぱりわからない。笑顔で拒絶する。

「大丈夫。家出たいと思ってないから。問題ないから」

「無理すんなよ」

 下崎はそう言って私の腕をつかむ。私はやっぱり下崎に触られるのがだめで、ぞぞっと寒気がして固まってしまった。

「やっぱり怖いんだろ。可哀そうに」

 こちらを見るその視線が気持ち悪い。だから何でそうなるの!! もうやだ!

「奏海! ……お前、何やってる!」

 下崎は、道を降りて来た博士に怒鳴られると、舌打ちして去っていった。

「お前はどうして変な奴ばっか引き寄せるんだ」

 心外だ。ほんとはちょっと怖かったんだから、お小言よりは優しくしてほしい。

「はかせー、めんどーかけてごめんねー」

 だから私は、笑ってごまかしながら、博士の腕にそっと自分から腕を絡めてみた。そこから伝わる温かい感触は、安心に形を変えて私の体に染み渡っていった。

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