司教の敗走とひとまずの落着

「ゼダン」


 おかしな様相ではあるが、司教ゼダンは上空において、地にひざまずき、茫然としているようだった。

 識者しきしゃ大師より声をかけられ、ほとんど無意識であろう、おもむろに向けて寄越したおもてにも覇気がない。


「どうした? 『封魔ふうま』のほどきはあとひと押しじゃろうて。このまま、お前様は捕囚の身の上となってくれるのか?」

「……そうだ。そうだな。そうだったな……」


 老師に煽られ、刻刻と自我を取り戻すかのよう、ゼダンの顔に厳然さが還っていく。


「貴様らを、私は……」


 パンと破裂する音が空に木霊こだまし、司教は宙において仁王立つ姿となる。

 今の彼は自らの「カ行・浮揚ふよう」で空に浮かんでいる。タイバの識者術、「くうの壁」は取り払われた――。

 ゆっくりと、厳かに、丘の上の者らに平手を向けるゼダン。

 美名たちはキッと司教を見据え、身構える。

 だが――。


「……今や、無為な徒労か」


 自嘲するような呟きとともに、ゼダンの腕が収められた。

 少女らとの闘争のため、傷みも激しい白衣をはためかせ、眼下の者らへ、ただ静謐せいひつな眼差しのみを寄越す。

 美名も明良あきらも、タイバもグンカも、丘の上の者らは皆、ゼダンのその様で、彼はすでに戦意を、自分たちへの殺意を失くしてしまったのだと知れた。


「見て取れるな」

「……なんだと?」


 司教の呟きを聞き咎めた明良に、空に浮かぶ者は冷ややかな目をくれた。


「小僧。今のフクシロの通告は……。彼奴きゃつの言葉を借りるなら、居坂いさかを幸福に導く、はじまりの一歩だと思うか?」

「……」


 答えない明良に口の端を歪ませると、ゼダンは「逆だ」と言い放った。


「居坂はこれより、史上、最も激しい争乱の時代を迎えるであろう。『真名まな』などと、騒擾そうじょう必定ひつじょうの火種を抱えさせられ、死をたまう者らが山のように出る。此度こたびの通告は幸福でなく、大過たいかへ向かう一歩。踏み外した足。貴様らはいずれ、あのとき、あの『カ行の丘』で、私に殺されていた方がよかったと悔やむときが来る。その様が、今からすでにありありと見て取れる」

「……」


 片眉をひそめるだけで、なおも答えない明良だったが、少年はふいに身体を反転させた。

 そのまま、背後の「解放党」の面々に「おい」と呼び掛ける。


「マ行幻燈げんとうの魔名の者はいるか?」


 十人弱ほど、おずおずと手が挙げられる。


「誰か、司教殿に幻を見せた者はいるか? いれば、そのまま手を挙げておいてくれ」


 挙げられた手は、すべて下がった。

 ふんと鼻を鳴らし、少年はふたたび、司教ゼダンを見上げる。


「だそうだ。その、俺たちの後悔の姿とやら、白昼夢ではないか? 司教殿はひとりで何でもこなし、飛び周り、少し激務が過ぎるんじゃないか? ゆっくり休養するといい……」

「……ふん」


 少年の隣、少女が一歩、前に出る。


「後悔なんてしないわ」


 紅い瞳がゼダンの浮かぶ姿を捉える。


「教主様の『真名』は……。居坂にかれた『真名』の考えは、争乱の元になんて、絶対にならない。絶対に起こさせない。アンタがまだ、そんなつもりなら……」


 「かさがたな」を構える美名にも一瞥いちべつをくれ、ゼダンはほくそ笑む。


「せいぜい意気がるとよい。今、聞き及ぶ限り、『真名』の理念とやらにのは私ではない。それを肝に銘じるがいい」


 そう言い残し、司教の姿は忽然と消えた。

 慌てた様子で、タイバ老師は「主塔じゃぞ、ゼダン!」と叫び上げる。


「フクシロ様よりの言伝ことづてじゃ! 話し合いは主塔にて、今日より四週以内に訪問されたし、じゃ!」


 皆が聞き耳を立て、身構えて静まる場。しかし、返答の声はない。

 しばらくしてから、タイバの「やれやれ」と呆れる声があり、それで場の緊張が一気に解き放たれた。その場に座り込む者。お互いに抱擁し合う者。そそくさと歩き去ろうとする者。実に様々。


 司教ゼダンは消えた。

 何やら不穏な言葉を残してはいったが、あの様は、「敗走」のていも歴然である。

 司教の脅威は、ひとまずのところは除かれた――。


 美名は、助け出した者らを見渡している。

 この場ではないだろうから、「烽火ほうか」での受傷であろう。いくらか怪我のある者もいるようだが、おおむね、命までは障りない様子。

 しかし、美名の恩師、メルララの手首。

 ゼダンの手刀により一度は断たれ、接合された傷痕。

 滑らかな肌に不自然にできた癒合の段。

 おそらく、これからの彼女の旅路、この痕は残り続けるであろう。

 これだけは少女も口惜しい。自らが不甲斐ない。

 恩師のため、ひとつ涙を流すと、少女は彼女に近づき、そっと手を取った――。


 *


 「真名まな宣布せんぷ」より、三日後。

 教会本部どころか、福城ふくしろの町からも姿を消したらしきゼダンから、早朝の主塔の門前、封書が届けられていた。

 しかし、フクシロが中身を確認するその間際、彼女の元には、「大都独立」の速報が入れられた。

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