大洋と宵の口の船出

(まったくの時間の無駄だった!)


 山中にただひとりということもあり、明良あきらは誰はばかることなく舌打ちを鳴らす。

 バリ大師の小屋を発ってからすでに半刻以上。

 だが、彼の苛立ちはいまだ落ち着きをみない。歩くたびにジクンとうずいていた胸の刀傷のほうが、むしろ落ち着いてきている。


(魔名を返上した者があるだと? こといた妄言を……)


 手元の「相双紙そうぞうし」に目を落とす明良。

 彼の心中の騒がしさは、大師の態度や無法な言葉のせいだけではない。たびたびに遺物に書き込んでも、相手――美名からの返事がないことも大きいのだ。


「……ヤツの占いなどあてにならない! 無難に海を渡りきり、そのことを明かしてくれる!」


 次第に歩調を早めながら、明良は下山を急いだ。


 *


「しかし、ほんに俺はのんちでええがなん?」

「ああ……。大丈夫だ。船の操法と航路は教えてもらえた内容なかみを叩き込んだ。マオが来てくれるなら心強いが、もしも……、万が一、俺のせいでマオに何かあると、ガドオに申し訳がたたんしな……」


 桟橋の上で夕日に照らされ、厚ぼったい唇をへの字に曲げ、「さあかね」とマオは心配そうである。傍らでガドオも同じように口をひん曲げる。 

 その並び立つ姿はやはり、親子の相似そうじ


 入り江の段状集落、トバズドリに戻ると、明良のため、船出の準備が整えられていた。宣言していたとおり、マオは船の点検や食糧の積み込みをまめやかに、速やかに終えていたのである。

 急ききって船に乗り込む明良だったが、当然とばかりに自身も乗り込んできたマオ。

 明良はほとんど力尽くで彼女を下ろすと、「ひとりで行く」と断言した。


「……しょんで日も暮れんじゃが。アキラは船、れなんじゃが?」

「船、船……、そうだな。俺には操船の心得はない」

「んだら? ふなりおんしえんに日が暮れんじゃ。よぉはアヤカシんモンの領分りょんぶんじゃで、明けでじゃがにしちょれ、なん?」


 褐色のたくましい女に、明良は「いや」と首を振る。


「俺はすぐに発たねばならん」


 少年の頑固さに、マオはしぶしぶとではあるが、船の操作を教えてくれた。

 そうこうしてる間に、海と空は茜色に染まりきっていたのだ。


 桟橋にかけられたくくり縄を外しながら、明良は「そうだ」と何をか思いついたようだった。


「言っておくことがある」

「なん?」

「バリ……、『バンリ』だが……。あんな者との関係はったほうがいい」


 大師いわく、トバズドリの者はオ・バリを神聖視してるとのこと。

 ふたりに反発されると覚悟しつつも進言した明良だったが、意外にもマオは、そしてガドオも、噴き出しておかしそうにするのだった。


「わぁっは、はぁ……。あん方、おもしぃ方じゃったが?」

「……『おもしぃ』が判らんが、不愉快なヤツではあった」

「なぁ? えれえんでもんのが知っとるが、でれすけで、あかぐっちもん。ほん、ガドオんがしゃんとじゃが、なん?」

「だ。オラんが、しゃんとじゃ。バンリ様、とろがぁでしんなじゃ」

「ほん! わぁっはぁ!」


 母子ふたりのなまがたりは、いよいよ明良には判らない。

 しかし、笑い合うふたりは――いや、集落の住人は皆、そうなのだろう、「バンリ様」をおおらかに受け入れているよう。決して、あの粗忽そこつな大師が「神様」などと崇め奉られているわけでないことは、目の前のふたりの様子にも明らかだった。


(この海のように大きく、なんとも清々しいやつらだな……)


「不測にもこのトバズドリの島に落とされ、よかったと思えるのは……。自分の不甲斐なさ、小ささを痛感したことと、お前たち……、マオとガドオに会えたことだ」

「なんじゃ、ええなん? アキラ」

「いや……、何でもない」


 ふっと鼻で笑って、明良は船に乗り移る。


「では、俺は発つ。色々と世話になった」


 「たいぎくね」と答えるマオ。

 「なん」と短く笑うガドオ。


「着いた先で頼みはするが、最悪の場合、船を返せんかもしれん」

「なんって。せん、使わんかったじゃが。とろなんで、よぉけんじゃ、早くいぎちょれ」

「すまん。いずれ必ず、あらためて礼に来る」

「ようよう、戻りちゃれ。アキラ」


 かいで漕がれ、入り江を走り始める船。

 このトバズドリの別れの挨拶だろうか、刻一刻と進む夕闇のなか、「ようよう!」と手を振って送り出してくれる母子の影に、明良も手を振る。


 大洋に呑まれるように、日輪は沈みゆく。

 明良は夜の海原にひとり、船出ふなでした。

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