ジオラマ

日隅

ジオラマ


 がったん、がったん、と聞く者を不安にさせるようなリズムを刻みながら、始発列車が走り始める。


 僕はといえばそれには乗らず、暖房の無い冷えた喫煙室で朝日を拝んでいた。口づけないまま燃え尽きようとしていたそれを深く吸い込み、白い息を吐く。吸い殻を床に転がし、箱からまた一本取り出す。昨日の終電からずっとこうしている。


 駅に人気は無い。列車にも人気は無かった。駅員や運転手の姿すら見当たらない。日本の都心部とは思えないほど静まり返ったこの場所には、僕ともう一人しかいなかった。


 僕は首を左方向に回し、同じように煙を吐き続ける彼女に声をかける。


「そろそろお腹空いてきたんだけど、君は?」


 反応は返ってこない。それどころか、彼女はまるで聞こえていないかのように悠々と煙草のような何かを咥えている。放たれた言葉が行き場を無くし、間抜けに宙を漂った。

 諦めて首を戻したところで、唐突に返事が返ってくる。



「空きました、と言ったところで貴方はどうにかしてくれるんですか」


「残念だけどできないね」


「では出来もしないことを口にしないでください」



 どうにかしようという姿勢すら見せずできないと言うのは、人間としてあまり良くないのかもしれない。だが実際できないものはできない。そもそも食べる物が何処にも無いからだ。

 僕は反論することなく、また白い息を吐く。沈黙が流れる。



「貴方未成年でしょう。煙草なんて吸って良いんですか」


「その言葉、そっくりそのまま君に返すよ」


「うるさいですね、こんなの草でも何でもない偽物なんだから別に良いでしょう」



 そう言って彼女は喫煙室の扉を開ける。ただでさえ冷えていた部屋にさらに冷たい風が吹き込んでくる。二本目の列車がちょうど停車したが、そこにもやはり人は乗っていない。


「それに、法を犯して咎める人間が、この世界の何処にいるんですか?」


 さっきとはまた違った沈黙が喫煙室を満たした。人間どころか、僕と彼女以外に生命の音はひとつも聞こえない。がったん、がったんと機械的な列車の音だけが繰り返される。



「面白い話をしようか」


「面白いかどうかは私が決めることですが、まあ聞きましょう」



 彼女は咥えていた煙草のようなものを床に捨て、その場にしゃがみ込んだ。彼女なりの聞く姿勢らしい。


 相変わらず静かで変化の無い空間だが、彼女のひねくれた言動だけがそれに色をつけているようだった。僕は首の角度を変えることなく、虚空に向かって問いを投げる。


「もしこの世界が作り物だったとしたら、君はどうする?」


 視界の端で、彼女が何とも言えない顔でこちらを見た。しかしやはりというべきか、すぐに反応は返ってこない。


 列車が二度通過するくらいの時間が経った後、彼女はようやく口を開いた。



「対話ですか。話をする、なんて言うから説教でも聞かされるのかと思いましたが」


「長話をしたって君は聞かないだろう」


「よくご存知で」



 彼女が薄く笑い、溜まりに溜まった吸い殻を蹴飛ばす。山のように積み重なっていたそれは、部屋中に満遍なく散らばった。



「それで、世界が作り物だったら、ですか? 別にどうもしませんよ」


「だろうね」


「そもそも『もし』ですら無いでしょう」



 今度は僕がなんとも言えない顔をする番だった。僕の阿呆面が気に入ったのか、彼女は薄い笑みを少し濃くする。



「というと、君はこの世界は作り物だと言うんだね」


「ええ。さあ、こんなところに居座ってないで作り物の世界を見に行きますよ」



 そう言うと彼女は僕の首根っこを掴み、喫煙室を出た。



***



 僕と彼女は、相変わらず生命の音がしない世界を歩いていた。鳥の鳴き声がしない。木々のざわめきも聞こえない。そのくせ時計は正しく時を刻み、信号は正しく色を移しているのが妙に可笑しかった。


 横断歩道を渡ろうと一歩踏み出した矢先、信号に足止めを食らう。仕方なく立ち止まると、隣で律儀に信号を守る彼女が口を開いた。



「例えば、何でも願いの叶う理想郷があるとしましょう」


「それはどの世界の話なんだろう」


「仮の話です」


 彼女が軽くこちらを睨む。何か気に障ったらしい。


「理想郷が存在するとすれば、同時に平和も存在するはずでしょう。ただ、複数の人間が同時に世界一を願った場合は別です。誰より上に立つ、という願いが複数叶えられれば当然そこには争いが起こります」


 経験したことは無いが、容易に想像できる話だった。一番には一人しかなれない。猿でもわかる話だ。僕が軽く頷いたのを確認して、彼女は続ける。


「私には争いなんて無駄にしか思えません。ですが生物は争うようにできているのでしょうね、生きるために」


 そこまで話すと彼女は口をつぐんだ。信号が青に変わる。誰もいない横断歩道を悠々と闊歩する彼女の後ろ姿は、まるでこの世界を統べる女王か神のようだった。


 その背中を追って横断歩道を渡り、交差点を右に曲がり、商店街を二つ通り抜け、歩道橋の上で立ち止まる。

 少し高い位置から見下ろす世界はいやに規則的で、ジオラマのような何かを連想させた。



「例えば、生物がいない世界を願ったとしましょう」


「ここみたいな世界を願うわけだ」


「仮の話です。あくまでも」



 彼女が僕の頭をはたいた。痛む頭が、自分が生物であることを確かに証明している。痛みに悶え苦しむ僕には見向きもせず、彼女は続ける。


「生物がいなければ、争いなんて起こしたくても起こりませんから。平和を望むのならば、争いの根源を無くせばいい話です」


 話は終わりだ、とばかりに彼女は座り込んでしまった。沈黙が流れる。何十メートルも離れた場所の信号の音が聞こえたような気がする。

 それ以上の話は聞けそうにない、と踏んだ僕は、彼女から少し離れた場所に腰を下ろした。



「随分と過激な思想を持つんだね」


「同意は要りませんよ」


「するつもりも無いから安心するといいよ」



 もう何度目かもわからない沈黙が流れる。景色も静けさも変わる気配は無いところを見ると、どうやら世界の終わりを迎えているというわけでは無いらしい。

 仮に彼女の思想を当てはめるとするならば、新たな世界の始まり、或いは既に終わった世界といったところか。どちらにせよ、この世界は彼女が願った場所なのだろう。


 ……ふと、疑問が浮かんだ。



「一つ、聞いてもいいかな」


「構いませんよ。答えるとは限りませんが」


「君はともかく、僕はなんでここにいるんだと思う?」



 彼女が、ふ、と笑うのが見えた。馬鹿にしたような、それでいて温かみを含んだ、僕には理解しきれない笑い方だった。彼女がこちらを見やる。


「そういうの、愚問って言うんですよ。覚えておいてください」


 どういう意味なのだろうか。でも彼女が笑ったのだから、おそらくは悪い意味では無いのだろう。


 ああ、と返事をしようと口を開いたが、先に返事をしたのは腹の音だった。腹が空いた。



「結局、空腹は解決してないけど」


「そんなの、この世界がどうにかしてくれるでしょう」


「随分と都合が良いんだね」


「貴方と私だけのための世界ですから」



 彼女はそう言って薄く笑った。

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ジオラマ 日隅 @waka-nu-6109

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