第31話 帰宅、そして……


 電車が運休し、運転再開の見込みが立たない。

 雨が止む様子はなく、年頃の少女をひとりにはしておけない。

 ……というわけで、つとむ茉莉花まつりかを伴って自宅に戻った。心の中で何度も『友だちだから、友だちだから』と連呼しながら。

 途中でコンビニに寄りたいという茉莉花の言葉には従ったが、彼女が何を買ったかは教えてもらえなかった。

 店内でも近くに寄ろうとすると、露骨に視線で威嚇された。

 理不尽だと思わなくもなかったものの『義妹いもうとにもこういう時があったな』と強引に納得した。


「前に来た時も思ったけど、いいところに住んでるよね」


 マンションのエントランスを抜け、エレベーターに乗って、廊下を歩いたその先で。

 勉の家のドアを開けて、中に入った茉莉花の第一声がコレだった。

 単純に褒めているだけではなく、意外そうな心持ちが声色から透けている。

 あけすけな感情が嫌味に聞こえないのは、彼女の得難い資質のひとつだろう。


「まぁな」


「ん? 狩谷かりや君、この家嫌いだったり……くしゅん」


 気のない勉の返事に怪訝な気配を見せた茉莉花は、くしゃみに遮られて最後まで言葉を口にすることができなかった。

 勉がそれとなくガードしてきたとはいえ、荒れ狂う雨中を強行突破してきただけあって彼女は全身ずぶ濡れ。

 薄手の夏服が肌に張りついていて下着まで透けて見えた。『濡れ透け』それは男のロマン。思わずガッツポーズを決めてしまった。

 勉の邪な眼差しに気づいた茉莉花は両手で身体を抱きしめて、視線の主にしてこの家の主から距離を取り、ジト目で睨み付けてくる。

『野良猫みたいだ』と見当違いな感想を抱いてしまった。勉は猫派だ。エロ画像だけでなく、猫動画もしばしば漁る。


「狩谷君あのね……くしゅん」


「大丈夫か、立華たちばな?」


「へ……くしゅん! だ、大丈夫じゃないかも」


「こんなところで風邪を引かれても困るんだが」


「それはわかってるけど……ねぇ、お風呂入っていい?」


「む」


 茉莉花のお願いは順当なものだと思った。

 雨に濡れて身体が冷えた。特に女子が身体を冷やすのはよろしくない。

 だから、冷えた身体を暖めるために風呂に入る。

 何も問題はない。勉だってそうするつもりだった。


「だめ?」


「いや、ダメではないが……ぶしっ」


 逡巡していると、勉も鼻をむずつかせてくしゃみを放つ羽目になった。

 茉莉花の方ばかり気にしていたが、勉自身も雨でドボドボに濡れている。

 靴の中まで雨水が入り込んで、ここに戻ってくるまでも不快な感触を味わい続けてきた。

 兎にも角にも酷い有様だ。茉莉花がいなければ、今すぐ浴室に飛び込んでシャワーを浴びている。


「ほら、狩谷君だって風邪ひいちゃう」


「そ、そうだな」


 風呂に入ることに異存はない。

 異存はないのだが……素直に頷けない。


「あ、いいこと思いついた」


「……なんだ?」


 茉莉花の明るい声が不穏に響いた。これは絶対にロクなことを言わない。

 関わり合うようになってからそれほど時を過ごしたわけではないが、直感でわかってしまう。

 どんなことを言われても耐えられるよう、勉は身構えた。


「一緒に入ろっか、お風呂」


「……本当にいいのか? 本気で言ってるか?」


 どうせそんなことを言ってくるだろうなとは思っていた。

 実際に口にされると想像以上の破壊力で、鮮烈すぎるインパクトに脳みそが一瞬フリーズした。

 透けた制服と柔らかな肢体、白い肌を垂れ落ちる水滴に魅せられて、ゴクリと唾を飲み込んでしまう。

 下半身に直結した反応に、言い出した茉莉花の方が目に見えてたじろいだ。


「ごめん、嘘。妊娠しそうだから今のなしで」


「妊娠って……立華の中の俺がどういう人間なのか、一度ちゃんと聞いておく必要がありそうだな」


「えっと……えっちな人?」


「……風呂を沸かすから、先に入ってくれ」


「は~い」


 タオルを手渡すと、茉莉花は濡れそぼる髪や肌を拭い始めた。

 ひとつひとつの仕草がむやみやたらに艶めかしい。嬉しいけれど、恨めしい。

 努めてそちらを見ないように、勉も同じように水を拭きつつ風呂の用意を始め――


――しまった、雰囲気に押し流された。


『一緒に風呂』という響きのインパクトに意識を持って行かれてしまって、思わず茉莉花が風呂に入ることを了承してしまった。


「まぁ、別にいいか」


 身体は冷えて体力は失われている。このまま一夜を過ごすとしても、どうせどこかのタイミングで風呂に入ることにはなっていた。

『あーでもない、こーでもない』と悩む手間を省いてもらったと思えば、頭ごなしに否定する気にはなれなかった。


「……」


 実のところ、家に帰ってきた段階で『ここで金を貸してタクシーを呼べばいいのでは?』と気付いたのだが、そんなことを言い出せる雰囲気ではなくなっていた。

 茉莉花は勘が良く頭も回る。勉が冷静さを取り戻す前に先手を打ってきたという可能性を否定できない。

 さすがに『そこまでしてうちに泊まりたかったのか?』なんて、本人に面と向かって口にすることは憚られたが。

 ガラリと浴室のドアが開く音が聞こえた。彼女はすでに濡れた服を脱いでしまっている。

 ここまで来て茉莉花を家から追い出すのも気が引ける。


「俺がしっかりしていれば、いいだけだ」


 勉はあえて言葉を口にした。

 他の誰でもなく、自分自身に言い聞かせるように。



 ★



 ザアザアと窓の外では強まりに強まった雨の音がする。

 バチバチと窓に叩きつけられる水滴の音と、びょうびょうと吹きすさぶ風の音も混じっている。

 しかしてリビングで身体を拭っている勉の意識を奪っていくのは、外から聞こえてくる激しい音のいずれでもなかった。


 水の音だった。

 重苦しい雨のそれとは違う、軽やかに流れる水の音。

 本来耳に届くはずのない音色は、しかし確かに勉の脳内に繰り返し反響している。

 シャワーがすべらかな肌を打つ音。それはきっと幻聴だった。


「……」


 雨に濡れて冷え切ったはずの身体が、頭が妙な熱を帯び始めていた。

 麦茶を流し込んだはずの喉はカラカラで、心臓はバクバクと脈動を打っている。

 落ち着く落ち着かないという話ではなく、正気そのものがゴリゴリ削られている。


――何かの冗談……のわけないよな。


 自宅の風呂で『立華 茉莉花』がシャワーを浴びている。

 一糸まとわぬ生まれたままの姿で。見てないけれど、きっとそう。

 彼女の身体を目にする機会はこれまでにもあった。何度もあった。

 なぜなら、彼女は学園のアイドルであると同時に人気エロ画像投稿裏垢『RIKA』でもあったから。

 それでも、『RIKA』が投稿した写真は、いずれも18禁な部分は隠されている(一応)健全なものだった。

 今、この家でシャワーを浴びている『RIKA』こと茉莉花の裸体は、何ひとつ隠されていないに違いなかった。


「ぐぬぬ……」


 これまでに蒐集してきた『RIKA』の画像データが、勉の脳内で高速再生されていた。

 最近になって茉莉花が送信してきた水着画像も入り混じって、解像度が急速に向上している。

 そこから導き出された彼女の裸身。背景は見慣れた自宅の浴室。いずれのイメージも実に鮮明だ。

 そんなふたつの画を合成することによって、限りなくリアルなシャワーシーンを描き出すことが可能となってしまった。

 壁を隔てた隣の部屋が桃源郷。目にすることが叶わないからこそ、想像力が掻き立てられる。

 勉の妄想は、もはや爆発寸前。なお理性は消失寸前だった。


――早く出てきてくれ……いや、出てこないでくれ!


 出てこないことなどありえない。

 ずっと風呂に入っていたら、茉莉花が茹ってしまう。

 もしそうなったら、彼女を助けるのは勉の役割であり、状況はさらにヤバい方へ加速する。

 だから出てきてくれないと困る。

 でも、風呂から上がった茉莉花を目にしたら、いったいどうなってしまうのか。勉は自分に自信が持てなかった。

『しっかりしていればいいだけ』なんて強がってみたものの、意思はグラグラガタガタと揺れて、今にも崩れ落ちそうだ。


「立華……」


 バカバカしくも矛盾した願いに煩悶していた勉の背後から、ドアが開く音が響いた。

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