四、内と外 2

《西暦一八九年 五月 後漢 冀州中山国》


 皇帝が死んだ。まだ、三十と四才だった。

 都からの使者がもたらしたその報せを聞いたとき、劉備の胸には、大した感情は湧いてこなかった。安喜の県治所にある一室には、灯芯の燃える焦げ臭さとともに、皇帝を悼む啜り泣きの音がこだましている。劉備と同じように、県令に呼びだしを受けた高官たちだ。

 中原を揺るがした、あの胡族反乱が収まって半年。劉備は戦功を認められ、中山にある安喜県の県尉(軍事官)に赴任していた。

「——大変なことになったな、県尉」

 慟哭どうこくの儀式を終えたあと、初老の県令が喋りかけてきた。突然の報せであったので互いに喪服に着替えてはおらず、黒い書服の懐から、帯に結んだ青黒い印のひもが覗いていた。劉備はこうべを軽く垂れ、拱手した。己の懐にも、県尉の証である印の黄じゅが見えている。秩石千石の県令は銅印黒綬、二百石の県尉は銅印黄綬、法によりそう定められているのだ。

「かの胡賊反乱を企てた張純めも、先月、官軍の勢いを前に胡賊けものどもに殺され、やっと世に平和が訪れると思うたが——この混乱に乗じ、安喜にも再び賊が頻発するやもしれぬな」

「 “狼”が居ます。それはありますまい」

「……烏丸か」県令が顔を顰める。「この地に平穏をもたらしたそなたの仕事ぶりは大したものだが、ああいう野蛮な連中とつるむのは如何なものか。従えている私兵というのも、少々品性のないごろつきばかりのようであるし……」

「……ともかく。国家にとって重要なこのときに、先帝の眠りを妨げさせはしません」

 帝。己で口にしたその言葉に、虫唾が走った。神話の時代の神王たち——三皇五帝から名を冠した、偉大なる王の名。それが帝だ。獣を人と混在させ、神秘を殺した後漢の皇帝など、帝ではない。先の帝も、宦官と外戚の跋扈に抵抗もできず、世の中を好きなだけ引っかき回して死んだ。徳のない人間に相応の帰結があった、としか思えなかった。

 県令に会釈し、治所を出る。晩春でも冷たい北の夜風が、劉備の衣の裾を揺らした。灰緑の袍に黒っぽい帯、野にいた頃とは大違いの、地味な服装である。

「——お帰りなさい、兄貴」

 多忙のなか、数日ぶりの帰室だったが、張飛は笑顔で迎えた。劉備は上座へ座すと、皇帝が死んだこと、しばらく喪に服さねばならぬ旨を張飛に伝えた。張飛はつぶらな眼をぱちくりとさせ、

「はァ」

 と云った。皇帝の死という国家の大事も、苦労の多かった張飛にとっては、その程度の想いしか抱けないことなのかもしれない。俺も同じだ、と劉備は思った。祖父を失って二十数年、身を切るような孤独から、皇帝も、誰も、救ってはくれなかった。沈黙のなか声をあげたのは、室の奥に座っていた、青い役人服を着た田豫だった。

「……皇帝が」

「ああ、死んだ」

「崩御、されたのですね?」

 田豫は云い直した。非難というほどでもないが、ひとを正すようなもの云いだった。劉備の内に、朝廷への冷えた想いがあることに気づいたからかもしれない。

 張飛が食事を運んでくる。官舎での食事は、三人で取ることが多かった。簡雍は城下に妻子と暮らしているし、関羽は役所に寄りつかない。烏丸の邑落や、まちの外れをうろついていた、という話を、田豫を通して、時たま耳にするくらいだ。

「で、飛」劉備は静かに匙をとりながら、口を開いた。「葬儀中の過ごし方や喪服については、分かってるな」

「え」

「『儀礼』は、読ませたはずだが」

「あ、書きとりは、やったよ」

「見せてみろ」

 席を立って、置いておいた書巻を差し出してくる。劉備はちらりと見て、

「間違いが多いな」とだけ云った。「今夜中に、朱墨を入れておく。見て書き直せ」

 張飛がうつむいて、あらわになった眉の傷をさする。先の敗け戦で負った傷だ。野蛮なことを嫌う役所の士大夫たちが見るといい顔をしないので、平時は頭巾で隠している。

 張飛には、士大夫を恐れるところがあった。役所の関係で使いに出しても、萎縮して、相手の邸にすら足を踏み入れられず帰ってくる、ということがよくあったのだ。それで泣いているのも見た。生れを気にしているのだろう。張飛の家は、琢県劉氏の旧荘園下にあった、農奴の一族だった。父は私兵をも担う軽俠者で、よく訳もなく殴られていたらしい。里の中でも虐められていて、それで偉い立場の人間に萎縮する癖ができたのだ。

 あの豊かだった祖父の荘園さえ復興できれば、誰も——お前にも、二度とそんな思いはさせない。劉備は粥をかき込むと立ち上がり、すれ違いざま、指輪を嵌めた方の手を張飛の頭にぽんと置いた。室の隣にある書斎に入ると、文机の横に新しい書巻が置かれている。見ると、先に行った賊徒鎮圧の功を認め、褒賞を下賜するとしたためられていた。烏丸の働きによるものだ。同盟はまだ続いていて、軍事において力を借りている。朝廷からの褒賞の半分を分け前とし、賊からの略奪を認める、という条件は、決して安くないが。対等な同盟相手として互いに信頼を築けるなら、悪い契約ではない。褒賞も、庶人の十倍近い県尉の禄と併せれば、半分烏丸に分けてしまっても、手下を養っていくには充分だろう。

 全てが、上手くいっていた。烏丸との信頼は充分にあり、この地には自らで得た地位も、地盤もある。

——何が、皇帝の崩御だ。

 劉備はそっと目を閉じた。これ以上、何かを変えさせはしない。己はこの地でやっと、失ったものを取り戻すのだ。



 やがて、先帝の死から、一月ほどが経った。新帝が即位し、併せて各地郡から、視察のための督郵とくゆう(監察官)が派遣されて来るらしい。

 劉備は皇帝の死に思うこともなければ、督郵の派遣に動じることもなかった。だが。督郵は、不可解な動きをみせた。何もしないのだ。視察という名目でこの地を訪れているくせ、宿から出ることも、使いを寄こしてくることもない。

——不気味だ。

 と、何日か経って、劉備は思った。手下の一部に宿を見張らせた。督郵は動かぬままだった。さらに二日が経ち、三日が経った。

 ふだん城下で遊び暮らしている簡雍が、神妙な面持ちで訪ねてきて、

「大丈夫か」と、心配そうに云った。

「何がだ」

「督郵の話だよ。どうも聞いたところによると、張商人の方の人間らしいぜ」

 劉備は、簡雍をはっと見た。張世平は、劉備の継ぐはずであった琢県劉氏の荘園を買いあげた、中山の大商人だった。初めは客分という約束で劉備を用心棒に迎えたが、次第に軽んじるようになり、揉め事も増えた。琢を離れたあの一件で手を切り、接触もなかった。

 ところが一月ほど前、城下にある劉備の邸を突如張世平からの使者が訪れ、関係を築き直そうと持ちかけたのだ。使者は表面ばかりの慇懃な態度で、友好の証として烏丸の馬を十頭欲しい、とも云った。劉備は断った。烏丸が有する質の高い馬を無償で差し出せなど、こちらを対等と見なしていれば出てくるはずのない要求だ。

『無償は、さすがに、冗談が過ぎたか』

 夏の匂いのこもる堂の内に、使者の乾いた笑いが反響していた。

『金の問題じゃない』劉備は冷たく云い放った。正しく云えば、烏丸抜きにこんな話をすること自体が、信条に反している。烏丸の馬は烏丸のものであり、劉備の支配下にはないからだ。『たとえ何億積まれようと、てめえらの傘下に戻る気はない』

 男ははっとしたように顔色を変えた。劉備の言葉に驚いたようにも、怒りでさっと白くなったようにも見えた。

『いずれ、痛い目を見るぞ。この中山は張商人の膝下だ。商人に逆らって、無事でいられるとは思うなよ』

『それはこの私を県尉に定めた、陛下に逆らうということで?』

 劉備は慇懃に笑って云った。男はぐぬぬと唇を噛んだ。劉備は席を立つと、こうべをゆるりともたげて男を見下ろし、唇の端をめくりあげて嘲笑した。

『早く消えろ——不道(賄賂)の罪で、俺に今すぐ捕らえられたくなけりゃな』

 食い扶持のため、商人の用心棒になど甘んじねばならなかったかつてとは違う。今の自分には力がある、と思った。正しき行いのための後ろ盾がある、と思っていた。

 だがその後ろ盾も、皇帝の代替わり後ではどれほど働くのか定かではない。そうした時勢を狙って、張世平がこちらに圧力をかけてきたとしても不思議ではなかった。

「助かるにはさ」簡雍が再び云った。劉備はまた簡雍の顔を見た。「また、張商人の下につくしかねえんじゃねえかな」

——そんな顔をするな。

 劉備は、目の前の義兄にそっと念じた。そんな顔をするな。俺たちはもう放浪者ではない。帰る場所があるのだ。自らの功で得た、この安喜が。

「俺はやらん」

「玄徳……」

「俺は朝廷からの勅任官だぞ。せいぜい中山の地主だの、郡のいち監察に過ぎん督郵なんぞに、どうしてへつらう必要がある。俸禄だって倍も違うんだ」

 地方の小役人に過ぎぬ督郵如きに進退を左右されるほど、弱い立場ではない。関羽と出会うまで中山で腐っていた、あのうだつの上がらない日々とは違う。

 それに、と、一呼吸置いて、劉備は付け足した。

「中山のことなら、伯珪はくけい兄貴からの助力も見込めるかもしれん。北のえらい将軍で、俺と張商人の仲立ちをやってた、十五年来の付き合いの義兄だ」

「その、おめェのもう一人の兄貴とやらもさ。先の戦で烏丸を追って、今や軍ごと行方知れずって話じゃねえか」

「そうだとしてもだ」劉備は再び強い語気で云った。「俺の仕事ぶりは、お前も知っての通りだろう。罷免にする理由もないのにそうはできない」

 簡雍は何か云い返そうとしたが、劉備の顔色を見るとはっと黙り、怯えたように目をそらした。劉備はちょっと気まずくなって、しばらく、考えてから、

「わぁったよ、探りを入れておく」

 と云った。他の人間になら押し通せる己の意固地も、簡雍を前にすると、不思議と勢いが削がれてしまうようなところがある。だからこそ、自分は特別何かに秀でたわけでもないこの男を、自身の義兄に戴いたのかもしれない。

 簡雍と話した次の日。劉備は忙しい時間を縫って、督郵の泊まっているらしい宿まで出向いた。県尉がわざわざ目下の督郵を訪ねるなど、平時ではありえない事態だ。しかし。

「督郵どのは誰にも会わんよ」

 宿の門前に立っていた門番が、気だるげに云った。役人服を着ていない——私兵だ。宿ひとつを丸ごと、督郵の一行が貸しきっているらしい。

「県尉が直接、宿まで出向いたんだぞ?」

 劉備は苛立ち、印綬いんじゅを門番へ示して見せた。印綬はただの事務用具ではない。中央の権威に裏打ちされた、正当な権力の象徴なのだ。ところが門番は気にもとめず、

「ここがいったい、誰の領分だと思ってる」

 と、ほくそ笑んで告げるばかりだった。

「俺の任地だ」

「違うな」門番は笑って「張商人の土地くにだよ」と云った。それからそこで初めて劉備の印綬をちらり見ると、小馬鹿にしたように鼻を鳴らした。劉備はかっときて門番の胸ぐらを掴んだ。

「やれよ、県尉の位を手放せるならな」

 胸ぐらを掴まれたままの門番が、にやにやと黄色い歯を見せた。

「督郵ごときが、俺の首をとばせると思うのか?」

「督郵じゃない、朝廷さ」門番はまた笑った。「中央の方で、宦官皇帝に汚された人事を一新するそうでな。おまえら先帝の勅任官は一掃されることになってる——それこそ、張商人のような、大地主の口添えがなけりゃな」

「——詭弁を」

「詭弁かどうかは、後で分かる」

 実のところ劉備にも、門番の言葉が詭弁だとは思えなかった。近ごろ中央では皇帝の代替わりを機に、党人たちが激しい宦官排斥を始めたと聞く。先帝の在位中に県尉の地位を得た自分も、党人たちにしてみれば、宦官の力に支えられた先帝政権の一派であるに違いない。また、そうした士大夫の都合に詳しくなければ筋の通らぬ話を、見るからに教養のないこの門番が出まかせで口にできるとは思えなかった。

 劉備は門番を睨みつけていたが、舌打ちするとばっとその胸から手を放し、宿を後にした。柵に繋いだ馬の綱を解いていると、どこからともなく、女の話し声が聞こえてきた。

「見たかい、今の」

「大丈夫かねえ、県尉さまは」

 宿の中庭にいる働きだった。劉備は門の外から女たちを睨んだ。女たちは劉備の姿が近くあることに気づくと、そそくさと屋内へ戻って行った。茜色に染まった細いあぜ道に侘しいひぐらしの声がこだましていた。

 一刻ほどして役所に戻ると、ふだん城下にいる手下たちが、役所へ詰めかけてきていた。

「どうした」

 と下馬した劉備へ向けて、

「頭」先頭に立った手下の一人が云った。「大丈夫なんですか、督郵の件」

 皆うろたえ、動揺している。いつも聡明な田豫でさえ、蒼白な顔で隅の方に控えていた。

——これが、張世平の目的か。

 劉備はこっそりと歯噛みした。噂が広まるのが早すぎる。誰かが故意に広めたのだ。中央の人事再編に時期を合わせ、進退ならぬ状況へ自身を追い込む。それを里じゅうの人間と手下に見せつけ、二度と逆らえぬと味わわせる——己に造反された張世平一派の、意趣返しとしか思えなかった。

「頭」

「頭」

 口々に、手下が呼ぶ。

「大丈夫だ」劉備は鷹揚と両手を広げ、笑みを浮かべた。「何も、心配するな」

 笑えるはずなどなかったが、笑わなければならなかった。いま動揺を明るみに出せば、これまで手下を繋ぎ止めてきたものを自分は失う。信仰を失うのだ。

「そうですよね。頭がいる限り、もう、あんな目に遭うことはありませんよね」

 手下の一人が云った。彼が口にしたあんな目というのは、恐らく、あの絶望に満ちた、屈辱的な初陣の夜のことであるに違いなかった。

「そうさ」

 劉備の乾いた、不自然にあたたかな低い声が、夕暮れの役所前にこだました。

「お前たちは、俺の背中だけ見ていればいい」

 


 夜。劉備が書斎にこもっていると、どたどたと隣の部屋から騒ぎが聞こえた。

「入るな、勝手に! 入るなって!」

 張飛が怒鳴っている。真っ暗な室の戸がすぱんと開かれ、柔らかな光が射し込んできた。思惑に耽りたかったので、人払いをして灯を消していたのだ。室の入り口に立っているのは、関羽だった。張飛が後ろから服を引っ張って、書斎に踏み込ませないようにしている。

「……張飛、退がれ」

 劉備は座したまま云った。張飛はちょっと心配げな顔をしたあと、壁の燭台に火を灯して、大人しく戸を閉め去っていった。

「しばらくぶりだな」劉備は二人きりになった書斎の内で、ゆったりと関羽を見あげて云った。「烏丸方の報告にも来なかった」

 ひと結いにした髪と狼の入れ墨。蒼い胡服を身につけ、役所内であるにも関わらず、身の丈以上の斬馬刀を携えている。いつもの出で立ちには変わりなかったが、その姿はすでに少年と青年の境にあった。上背ももう、ほとんど劉備と変わりないのだ。

「田には託けた」

 関羽はいつものぼぅっとした口調で云った。

「直接お前が来るべきだった」

「忙しかった」彼はまた茫洋と云った。「馬戦を覚えるので」

「県尉史いし(県尉属官)の位を何だと思ってるんだ、てめえは」

 劉備は額のしわを揉んだ。県尉は役所に曹(部署)をもち、己の属官を定めることができるから、劉備は田豫と関羽をそう定めた。何のことはない、軍団で字が読めるのが、その二人だけだったのである。

「これは読み終わった。次のを寄こせ」

 関羽は唐突に云って、劉備の前の文机に、一巻きの書を乱雑に放った。劉備の与えた左伝(史書)だ。道徳を押しつけようとしたわけではない。生きていくために、社会の仕組みを知っておけ、と云うと、意外なほど素直に受けとっていた。

「棚にある、自分で持ってけ」劉備は半ば八つ当たりで云った。「てめえの小間使いになった覚えはねえよ」

 関羽がじっと、こちらを見る。まるで本物の狼のような、灰がかった鳶色の瞳に、己の心中を見透かされたような気持ちになって、劉備はぐっと奥歯を噛んだ。関羽の一挙手一投足にはやはり人を威圧するような、超常的なところがあって、それを“外”の生き物である烏丸兵たちとともに、役所の士大夫に嫌われていた。関羽を属官に置いた劉備の手前、役人たちが不満を表に出すことはほとんどないが。

「何を、迷ってる」

 関羽が静かに、口を開いた。

「……あ?」

「今、あんたの手を煩わしてる督郵ってやつを、どうしてすぐぶちのめさない」

 里の噂は関羽の耳にも入っていたらしい。

「……そんなことをすりゃ、俺たちは罪人として追われる身になる。それはできない」

「なぜできない」

「ここを、放り出すわけにはいかないからだ」劉備は云った。「戦にまで出て、やっとの思いで掴んだ帰る場所だ。そいつを、自分から捨てることはできない」

「解らんな」関羽は云った。

「解らんだろうよ」劉備は逃げるように、関羽のまっすぐな眼から目をそらした。「社会ってものから解き放たれた、お前たちのような生き物にはな」

——それが、人間の本能なのだ。

 先に見た手下たちの不安げな様子も、劉備には少し解る気がした。昨日通った集落が次の日にはもう消えている。そういう世界だ。ゆえにこそ、人は不変の幸を求めて集い、その中心に恒久の存在である神を置く。奪われるばかりの世の中で、報われることを願い続ける。だが。まだ報われぬ自分たちを置き去って、世界は廻り、変わろうとしている。

 そんなことは、許すわけにはいかない。劉備は薄闇のなかに顔をもたげた。さっきまでそこにいた関羽の姿は、音もなく書斎から消えていた。



 明くる日、劉備は役所を出ると、剣も持たず督郵の宿へ向かった。門番はやはり劉備を屋内に通さなかった。劉備は待ち続けた。督郵と直接話をつけねば、何も始まらないのだ。

 辺りには私兵の姿が見えず、警備は手薄だった。こちらの立場の弱さを分かった上で、強い手段にでられぬと侮っているのだ。庭を掃き清めている下働きの子どもや女が、独り門前に立たされた劉備をじろりと睨め去っていった。そこには単なる好奇だけでない、ふだん自らの上に立つ県尉が、外部の人間である督郵に抑圧され、苦渋を強いられていることに対する蔑みと愉悦のようなものも透け見えて、劉備はぐっと拳を握った。日は高く昇り、汗が額から顎までを伝った。放し飼いにされている鶏が地面の砂利をコツコツと突いて歩きながら足元を通り過ぎていった。

 数刻もそうしていたであろうか。不意に、

「ぶざまだなぁ、玄徳ぅ」

 覚えのある声が聞こえて、劉備は、はっと頭上を仰ぎ見た。宿の廊にある欄干から、男が、こちらを見下ろしている。小太りの、中年の男だ。身だしなみはだらしなく、脂ぎった頰に下卑た笑いを浮かべている——忘れるはずもない。

「——頭目ッ!!」

 傍目も忘れて、劉備は叫んだ。

「てめえ、何しにきた! 張世平の指図で、また俺を貶めにきたのか!!」

 云うや、頭にがんっと衝撃が奔った。背後から殴られたのだ。両腕を捻りあげられ振り向くと、先まで微動だにしなかったはずの門番二人だった。劉備はもがいたが地に押さえつけられた。まるでこちらが罪人のような格好だった。そんな様子を見て、ゆっくりと門前に降りてきた督郵が、耳ざわりな笑い声をあげた。

「おぅおぅ。督郵さまの御前だぞ。神妙にしろよ、玄徳ぅ」

 間違いない、中山の里にいた、あの頭目だ。その頭目が視察官だったのだ——。劉備は射殺さんばかりの眼で頭目を睨めあげた。

「てめぇがここまで来たってことは、とうとう許しを乞う気になったか? なんせお前の行く末なんてのは、こっちの差配でどうとでもなるんだからなぁ」

「……俺が、しに来たのは、あくまで話だ」

 劉備は怒りを堪え、静かに云った。

「話?」頭目はちらりと辺りを見回してから、「まともな話ができると思ってるのか? この状況で?」と、芝居がかったしぐさで嘲り笑った。背後にいる門番の方からも、人を小馬鹿にしたような、くぐもった笑いが聞こえてくる。

「しなけりゃならん。そのために来た」

「なぜそこまでやる」頭目は鼻面にしわを寄せまた笑った。「赤の他人だろう。てめぇにそそのかされて付いてきた、ただの手下だ」

「そいつが侠の、役目だからだ」

 劉備は、上げていた面を、さらにぐっと力強くもたげた。

「強き者は、強き者としての器を以って、必ず弱者に施さねばならない。それが、人の上に立つということだ」

 頭目が何か気圧されたように、ぐっと呻いて、一歩退く。それから劉備を上から殴った。衝撃でがくりとこうべが落ちる。切れた唇から、打たれた鼻から、ぼたぼたと赤黒い塊が地に落ちていった。

——血が。

 と、劉備は思った。

——俺の血、赤龍の血。爺さんの血。

 手を伸ばそうとしたが、拘束されていたため、動かなかった。頭目の草鞋わらじが血痕を踏む。踏みにじられた血は土にしみて、ただのみすぼらしい黒い汚れとしか見えなくなった。頭目は再び何度も劉備を殴った。殴りながら喚いた。

「ずいぶんご高説垂れるじゃねえか、え!?」

 頭目はさらにまくし立てた。

「俺ァ前からてめえが嫌いだった! 田舎豪族ふぜいが、威張りやがって。何が赤龍の末裔だ。何が鬼神だ! てめえがそうだってんなら、今すぐ自分を救ってみせろよ、え? できやしねえだろう! 結局のところえらぶったって、おめえはちっぽけな野良犬でしかねえのさ! 俺が張商人に口利きしてやらなけりゃあ、てめえの立場すら守れねえ侠客ふぜいが!」

 それから頭目は、ちょっと落ち着いたように、

「あのときと同じさ」肩で息をしながら小さく笑った。「てめえがままごとのようなお国ごっこを楽しもうが、現実の前にすべては儚く散るってやつだ。思い出したか? 鎖の味を。自分の飼われるべき主人の名を——張商人にこうべを垂れろ、そして許しを乞うんだよ。貢物と印綬を差し出して、すべてあなたの思うようにいたしますとな」

「——ままごとだと」劉備は、唸るように、ほとんど息だけで云った。「俺の聖域くにが。この覚悟が」

「ままごとだろうよ」頭目が嗤う。「何の為にも、得にもならねえ。時代遅れの、おままごとだ」

——嗚呼。

 深く息を吸う。刹那——ふだん抑えつけ、眠らせていた火のような熱さが、自らの耳元で低い咆哮をあげるのを劉備は聞いた。それはかつて烏丸に弓を射たあのときや、故郷を出たときに耳にしたものと同じような声だった。ならばその神託に逆らう選択は、劉備にはなかった。水が上から下に落ちるのと同じように。潮が満ち引きを繰り返すように。

「そうかよ」

 劉備は、ゆらりと顔をもたげた。

「よく分かったぜ」

「分かったか、なら——」

「てめえの頭が、どれほど空っぽでぼんくらかってことがな」

「——なんっ」

 なんだ、と頭目が云い終えるより先、劉備は手首を返すとすばやく抜手し、己を抑えつけていた門番の片方に思いきり肘鉄を叩きこんだ。拘束が緩んでいたのだ。門番が苦悶し身体を折る。右半身に自由が戻る——と同時に地面を蹴って、劉備はすばやく転がった。残るもう一人の腕も剥がれる。勢いのままくるりと立つ。転回に巻き込まれた男の腕は地面の上であらぬ方向に曲がっている。残った腕も踏み潰し、肘鉄を喰らわせた方の男の顔に、振り向きざま、掌底を叩きこんで昏倒させる。

 一瞬の、鮮やかな立ち回りだった。

「ひっ」

 短い悲鳴をあげて、頭目が、後ずさる。劉備はゆるりと振り向いて、

「なぁ頭目。俺はな、この世の命は、必ず二通りに別たれると思ってる。強い者と弱い者だ。腕っ節じゃねえ、魂の強ささ」

と憂いているのか、笑っているのか、定かでない希薄な表情を面に張りつけて、幽鬼のようにふらりと頭目の方へ踏み出していった。

「だっ、誰か——誰か!!」

 頭目の声を聞きつけて、わぁっと護衛が奥から出てくる。動きが洗練されていない、戦も知らぬごろつき上がりだろう——。劉備は進んだ。護衛のひとりが、手にもったじょうを振り下ろしてくる。片手で受け止めた。男の顔色がはっと変わる。若い男だ。空いた手で腹を殴る。男の身体が折れる。足蹴にし、杖を奪った。進む。迎えうってくる護衛たちを、劉備は次々と叩き伏せ、進んでいった。五、六人ほど叩きのめすと、もう、誰も邪魔せず、見ているだけになった。

「俺ァ今しがた云ったよな。弱きに施すのが侠の役目だと。そいつが強者のやるべきことだと」

 云いながら劉備が歩むたび、頭目は退いた。劉備はまた歩んだ。頭目が退いた。彼は禿げた額を冷や汗でびっしょり濡らし、劉備の面を凝視したまま、一歩一歩としか動けない壊れた絡繰のように後ずさっていた。

「弱い者にも、やるべきことがあってな。そいつは強いものの邪魔をしねえことだ。強者が弱者を従える代わり養ってやるのと同じように、弱者は強者に養って貰う代わり、己の身の程をわきまえんといけねえ」

 だが、もう、頭目のぶざまな様子を嘲りたい気持ちは劉備にはないのだ。ただ除かねばならぬものがあり、己がいた。自分の意志などずっと彼方のほうに消えてしまって、頭の内には耳鳴りのように掠れざらついた何ものかの声が反響している。殴られ地に垂れた己の血痕——絶対的な神秘をふくんでいたはずの鮮やかな血も、無粋な人間に踏みにじられただの汚れと成り果ててしまった。それは何も今日のことだけではない。族父に、母に、張世平に——これまでの人生でごまんと受けてきた、耐えがたい仕打ちだ。

 ならばこの男の血も、同じようにしてやらねばならぬと思った。血で受けた恥辱は、血で濯ぐほかすべはないのだ。

 退がり続けた頭目が、庭の木の根に足を引っかけて、尻もちをつく。劉備はそのそばにしゃがみ込むと、顎から滴る自らの血もままに、まばゆい木漏れ日を浴びほほ笑んだ。

「——てめえは、その聖域を汚したな。代償は、命で払え」

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