小学生だった私に教えてあげたい「社会学」って? ――「なぜ」をごまかさない、「なぜ」から逃げない


 なぜ、私が「小学校で『社会学』を必修科目化すればいいんじゃない?!」などと提案しているのか。


 それはほかでもない私自身が、社会学的なものの見方、発想、そして考え方を小学生の頃の自分に教えてあげたかったからなのです。はい、超個人的な理由です。


 じゃあ、どうしてそんなに教えてあげたいと思うのか。その点について、今からちょっと私の過去にお付き合いいただけると嬉しいです。…あ、どこの馬の骨とも分からん奴の過去なんてご興味ないと思うんですが、ここはぐっと堪えてもう少しお付き合いください。薄い座布団ですがよろしければどうぞどうぞ。長くなるので、ぜひ楽な姿勢で。


※戦争の話が出てきます。かなり残酷な内容にも触れるので、苦手な方はどうかご無理なさらないでください。


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▪️ある日突然教室内に示された「死」


 子どもに対して「自分の頭で考えてみようね」「自分でこたえをみつけましょう」という姿勢を教えるべく、小学校で調べ学習などが実施されていると思います。

 私が小学生だった時は、広島への修学旅行が「調べ学習」の集大成として用意されていました。いわゆる「平和教育」の一環として、日本が経験した戦争、原爆について知りましょうってやつです。私の小学校は6年生で広島に行くことになっていたのですが、修学旅行前に「事前学習」があったんですね。



 ある秋の日。昼休みが終わり、午後一番の授業開始を迎えた私たちはとりあえず着席しているものの、お互い身を乗り出して好き好きに賑わっていました。先生が来るギリギリまで騒ぐ。なんだったら来てからもさらに盛り上がる。目に見えない空気なんて読みません俺たちがルールだ。あ、その頃はKYを想起させる意味での「空気を読む」なんて言い方はされていませんでした。


 開始時間より少し遅れて入ってきた担任の先生(以下、「先生」)は、いつもなら竹中直人ばりの怒ってるのか笑ってるのか判断しづらい面持ちで賑わう生徒を一喝するのですが、その日は私たちに一瞥もくれず無言のままつかつかと突き進み、とうとう一言も発さないまま教壇に立ってじっと私たちを見据えました。これにはさすがの小学生も普段と相当異なる先生の様子に注目せざるを得ません。いちばん騒いでいた男子のグループですら黙って座り直し、教壇に向き合いました。


 その様子に満足したらしい先生が、神妙な面持ちで一枚の大きなパネル写真をこちらに向けると、すぐさま「うわっ」「ひっ」という声が上がりました。


 パネル写真には、大写しの惨たらしく傷ついた赤黒い背中。頭部もかすかに写っているのですが、髪がわずかに残されるのみで性別ははっきりわかりません。写真のその人は、まだ生きているようでした。


 先生はやはり無言で2枚目のパネル写真を出します。こんどは白黒の、殺風景な広場と思しき場所にうつ伏せになった人、人だったであろう身体、そして、黒いなにか。うつ伏せになった人は、たぶん死んでいる。もうどうしようもなく「死」に満ちた白黒でした。


 先生は2枚の写真を出したあと、「さぁ今から怖い話をしますよ」と言いださんばかりの厳かな口調で、戦争、原爆、その恐ろしさについて約30分ほど話し、私たちに感想文の提出を求め、教室を後にしました。先生が教室を出るまでの間、“ねぇ、「算数」の時間じゃなかったっけ?”なんて誰も言い出さなかったのは、それこそ皆、場の「空気」を読んでのことでしょう。



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▪️おじいちゃんとわたしと戦争と死


 突然ですが、私は、痛みを想起させる「血」がとても苦手です。「死」も、もちろん「戦争」の話も。ですが、祖父が戦争を経験していたので、私は小学6年生に進級する前から既に、いわゆる「戦争体験」を祖父から聞いたことがあったのです。それらは、少なくとも当時の私が読んでいた戦争関連の書籍ではなかなか知ることのできないような内容だったと記憶しています。


 「戦争体験」を話すときの祖父の語り口は、「事前学習」として戦争や原爆を語った先生のような厳かなものではなく、孫の私に語りかけるいつもの穏やかさがありました。けれども、口調の穏やかさとは裏腹に、祖父が話す「兵士としての日々」は、とにかく圧倒的な「死」を思わせました。


 訓練を共にし隣で寝ていた仲間が翌日の戦闘で爆死する。それも自分のほぼ真横で。命からがら一日を終え、明日につなげるべく必死に生きようとしても、追い込まれて自殺してしまう同期。夜、すすり泣く声のあふれる部屋で身体を休められるはずもなく。「ギリギリ」「限界」という言葉のなんと生温く白々しいことか。祖父が体験した「死」に向き合わざるを得ない日々に対し、相槌すらロクに打てず、私はただじーっと祖父の眼を見続けることでちゃんと聴いていますよとアピールするのが精一杯でした。


 祖父は「すべて」を語ってはいなかったと思います。語れなかった、語りたくなかった、ことばにする術がない、思い出せない、思い出したくない、たぶん、どれもが当て嵌まるでしょう。


 どうして祖父が私に自身の体験を話してくれたのかはわかりません。でも、ほんとうに血をみるのも、思わせるものも苦手で、死に対する恐怖がおそらく人よりかなり強い私であるにもかかわらず、祖父の話を聴けて良かったと思っていましたし、今でもそう思っています。もう私がどんなにがんばっても想像できないような壮絶な体験をおじいちゃんがしていたこと。その体験の背景に何があったのかを知りたくて、当時の私は戦争に関連する本を読み漁りました。


 そして、気がつけば私は、「第3次世界大戦が明日起こったらどうしよう」と本気で心配しているような子どもになっていました。けっこう長い期間心配していたんですマジで。「ねぇ、明日大丈夫だよね?」と尋ねてくる小学生が何を心配しているって、「世界大戦の勃発」。今にして思えば我ながら相当珍妙です(笑)


 一方で、当時「死」に対し敏感だった私は、人が亡くなっても「死」を剥き出しに報道しない、たとえば事故やテロ、どこかの国で内戦があったとして、そこで亡くなられた方々のご遺体を写したりすることは絶対ない日本の「価値観」「倫理観」に安心もしていたのです。亡くなった方との対面がゆるされるのは、身内の方々と、ごく親しい人たちだけ・・・・それが亡くなった方への敬意であり、尊厳を守ること・・・・それが「あたりまえ」なのだから。


――――――

▪️「事前学習後」の教室での葛藤


 感想文を課せられた私は、先生から予告なしに提示された2枚のパネル写真の衝撃についてしばし考えていました。そりゃあもっとも苦手とする対象――惨たらしい惨状をはっきりと直視したので衝撃を受けて当然といえば当然なんですが、パネル写真を見る前から自分で戦争関連の本を読んでいたので、少なくとも類似した写真は目にしていたのです。つまり、”初めて見た・知った“わけではなかった。にもかかわらず、教室で突然提示された「ケロイド」「ご遺体」のパネル写真に強い違和感を覚えたのです。


 ――あれ?学校で亡くなった方をこんなに堂々と直視することを求められるの?


 日頃、残酷な映像や死から遠ざけているのに?なんかこないだ生徒から没収してましたよね。あれ、戦争をテーマにした漫画じゃなかったでしたっけ?


 学校が用意した「平和教育」のためならオッケーってこと?



 もちろん、戦争が、原爆がもたらした恐ろしさの象徴としてそれら2枚のパネル写真があり、「知るべき」「知らなきゃいけない」ものとして提示されたことは理解できました。むしろ、あれこれ口で説明されるよりも確かにインパクトはあった。苦手だろうが何だろうが見なきゃいけない。だってそれは「平和教育」だから。たいせつなことだから。「事前学習」の必要性もそれなりにわかる。


 でも、事前学習って、平和学習って、日頃遠ざけているはずの「死」を見せて、怖い話をするかのように戦争を原爆を語って聞かせることなの?普段声高に叫んでる倫理観は?人の尊厳は?などの疑問が次々と湧いてきました。


 とりあえず、修学旅行に行った後も、これらの疑問が解消されなかったときは、何かしらのかたちで先生に訊いてみようかと、思ったのです。


――――――


▪️「疑問」に感じてはいけない対象


 無事に修学旅行を終えた私たちは、ふたたび感想文の提出を求められました。

 旅行後の私の疑問は、解消されるどころかますます深まる始末。感想文を書こうにも、なんともいえない釈然とした感じが残ります。せっかくの平和祈念資料館見学や語り部さんの戦争体験に対しても、水路づけられたなにかを感じずにはいられませんでした。それは、資料館や語り部さんが悪い!というのではなく、「戦争」についての理解を深め「平和」を考えるというよりは、ただただ「恐怖」を感じてこい!という先生方の意図を強く感じてしまったのです(ごめん、先生)。


 そして、今にして思うと私もやめておけばよかったんですが、感想文の最後に釈然としない点(なぜ「死」をみせることが「平和教育」に求められているのか、など)を書き、先生の添削をまちました。感想文はだいたい3日くらいで誤字脱字等の修正のため、いったん生徒のもとに返されます。先生はなんと答えてくれるんだろうか、私のこのもやもやは晴れるのだろうか。期待が膨らみました。


 感想文を提出した翌日の昼休み、私は職員室に呼び出されました。

 呼び出されることをした覚えはないものの、あるとしたら「あの」感想文しかない。そうか、先生は早速質問に応えようとわざわざ呼び出してくれたんだな、と幸せな勘違いをして職員室に行ったアホな私。はやる気持ちとともに職員室の扉を開け、小走りで先生のもとに駆け寄ったのも束の間、いつも以上に低い…怒気すら含んだような声で、先生は私に問うてきました。


「紫月、要するにお前は戦争に賛成ってことなのか?」


 んん?なんてなんて???それは、あまりに予想外の問いかけでした。

 私、「戦争に賛成」って書いてましたっけ?いやいやおかしいおかしい。

むしろ反対も反対ですって!なんなら事前学習に入る前から戦争関連について個人的に調べていて、その恐ろしさに震え上がったくらいなのに。なにを根拠に目の前の人は私が「戦争に賛成」だと思ったのだ?!私の頭の中は混乱していました。


 「そりゃあな、見たくなかったかもしれないが、避けて通れない大切な問題だってことくらいわかるだろう」

 「…はぁ。まぁできれば見たくないですけど、見たくない、とも言ってませんし、むしろ自分からそういうのを調べていたくらいですから。それなりに関心を持ってます」

 「だったらなんでこんなおかしい疑問を書くんだ!!!」←憤怒


 このあとのやり取りは割愛しますが、とにかく会話がまったく噛み合わなかった。私なりに順を追って説明したつもりだったんですが、事前学習を含め修学旅行までの一連の流れに対し疑問を抱いた私は「あたりまえのこともわからん」奴で、「戦争の恐ろしさを理解しようとしない」問題児とみなされてしまったようでした。ひーん。


 政治的な話をしたいわけでもなかったのに(そもそもそんな発想なかった。そして今でも私は政治的なところを論じる気は一切ない)、一方向的に話を進められたことがとにかくもどかしかった。「自分の頭で考え、答えを見つけよう」はどこいった?与えられるものにイエスを返すことが優等生ですか?咀嚼するなってか。「あたりまえ」のことに問いをもつなってか。それならそうと最初に言ってよね!プンプン!!!


 ――すみません、ちょっと興奮して情緒が不安定になりました。


 結局、先生との押し問答は10分ともたず終了し、とりあえず「問題児」の烙印を押されることは避けたかった私は感想文から「疑問」の箇所をすべて削除し、無味無臭な作文用紙を提出したのでした。



――――――

▪️最強装備「社会学」はいかが?


 時は経ち、その後の私は大学で社会学を学ぶんですが、いわゆる社会学的なものの見方、発想、考え方はほんとうに面白く、目からウロコ…では足りないな、目から魚状態でした。


 社会学ではよく「あたりまえを疑う」という謳い文句がいわれています。社会学の骨子を端的に表現したよいことばだと思うんですが、もちろんのべつまくなし普段からずっと疑ってかかってたらもう本当に生きにくいだけなので(そして周囲からは高確率で「扱いづらい人」と陰で称号を付与されます)、そこを特別おすすめするわけじゃないんですが、物事を簡単に鵜呑みにしない――「あたりまえを疑う」ことに求められるスキルを社会学で得られます。


 それは、世の中で「常識」や「当たり前」とされ、普段はあまり注意を払われないような――けれども、大切なことが隠されている――事柄に目を向け、「なぜ」を問うところから始まります。


 もちろん、「あたりまえ」を疑ってるだけだと過去の私のように問題児扱いされかねない場面もあるでしょう。でも、ちゃんと正しく「疑う」方法は、「なぜ」のその先は、ありました。その方法論、考え方は「社会学」によって用意されていたのです。「あたりまえ」は思っているより脆く、都合のいい立て札だった。よかったね!12歳の私!


 もう相当長々と書いているので、以下はざっくりもざっくりなんですが、たとえばあの時の私が抱いた疑問に対して、社会学的に問うていく場合にいくつか例を挙げると



・「死」を遠ざける、という現象はそもそも本当にあるのか?(あったとしたら)それは具体的にいつからどういう形であらわれたのか?→こうしたことを調べるうちに、人びとが「死」に対してどういう意識を抱いているのかという側面にも触れられるかもしれません

・「死」が隠蔽されていない場合、どのようなケースが相当するのか(たとえば、東日本大震災の時、海外メディアでは多少の修正はあったものの、ご遺体などは報道されていた)。そしてそれはなぜ求められているのか。そのことによって新たにどのような現象が生じているのか。なにか新たな価値観が生まれているのか、いないのか。

・「平和教育」はそもそもいつ、どのような理由から始まったのか



 ちょっとキリがないんですが、上記に挙げたものをぱっと見た感じ、私のかつての「問い」に直接答えていないように思われるかもしれません。そうなんです。「あたりまえ」を問うていく場合、実際は、いろんな前提事項や価値観が複雑に絡まり合っていることもありますので、かなり細かく紐解いていく必要が往々にしてあります。で、もうみなさんお気付きのとおり、これ相当めんどくさいです(笑)


 でも、疑問に感じたこと、しかもその疑問を抱いた対象について多くの人が「あたりまえ」とか「ふつう」と受け入れているものであればあるほど、一発で解きほぐすのは困難です。丁寧に、対象を捉え、観察し、分析する。時には「答え」に辿り着くため「問い」をさらに深めていくことも必要になるかもしれません。それは「もやもや」に輪郭を与えていくようなめんどくさい作業ですが、まさしく「自分のあたまで考える」ことが要求され、最終的にたどり着く「答え」とはただしく「自分のことば」として説明できるものなのです。


 「あたりまえ」「ふつう」ということばに思考停止させないツール――社会学を、小学生だった私に教えてあげたい。受け身の姿勢ではなく、主体的に物事に向き合い、考え抜くトレーニング!


 対象を多面的に捉えようとするクセもつきますし、その結果、「みんなそう言っているから」という理由で振り回されづらくなるでしょう。「ねぇ、その『みんな』はだれ?ほんとうに『みんな』がそう言っているのかな?」


 じゃあ実際どんな考え方とか方法論があるの?ということについて、どうすれば(社会学を知らない方や、社会学にそもそも興味がないような方も含めた)皆さんによりよくお伝えできるかなと考えた時、「小説」なら、小説なら一人でも多くの方のもとに届けることができるのではないか、そう考えるに至り、現在の私は「社会学小説」の執筆に励んでいます。(完成品である『愛と秩序の四時間目 ―小学六年生への社会学講義―』はAmazonにて発売中です。カクヨムでは、『愛と秩序〜』のもとになった物語である『今日は何を注文しよう? ―社会学カフェへようこそ―』を連載中です)


 よろしければご一読いただけると幸いです。


 最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。

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