女神様のロンド

テッチー

第1話 紡ぎの三姉妹

 一六時を過ぎたとはいえ、夏の日差しは暑かった。

陽咲ひさきー、これから学食行くつもりなんだけど、いっしょにどうよ?」

 本日最後の講義を受けたあと、講義室を出たところでそんな声をかけられる。自分を呼び止めたのは、同じ一般科目を受講していた友人――芝平太だった。

「悪いな、今日はやめとくよ。バイトあるし」

 そう答えると、芝は肩をすくめた。

「またか~、勤労も程々にしとけよなあ。いつになったらお前をあちこち連れ回せるんだか」

「苦学生なんだ。知ってるだろ」

 王戸学院大学。この入明日いりあす町にキャンパスを構える私立の大学だ。

 大学三回生の七月。あと数日で夏期の長期休校が始まるのだが、メモ帳のカレンダーはすでにバイトのスケジュールで埋まっている。

 気晴らしにどこかへ遊びに行きたい気持ちは確かにある。しかし学費を自分で工面している上に、私立大学――さらに少々珍しい学部を専攻しているともなれば、それなりの収入が必要になってくるのは如何ともしがたい現実だった。

「ところでさ」

「ん?」

「あの子、陽咲の知り合い?」

 芝が目線で示した先、少し離れた柱の陰。そこから半分だけ顔をのぞかせる女子学生が、じっとこちらを見つめている。

「……すげぇ凝視されてんじゃん。お前なんかやったの?」

「見覚えはないし、身に覚えもないが……」

「ま、自分から女の子にちょっかいかけるタイプでもないもんな。だったらいいや、そんじゃ俺行くから」

「ああ。また」

 芝がその場を離れて早数分。その女子の視線は、いまだ自分から外れない。

 どうにも動きづらい。本当に俺が何かしたのだろうか。顔半分だけだが、やはり見覚えはない。

 と、女子が動いた。こちらが一人になるのを待っていたのか、急に柱から出てきて、つかつかと歩み寄ってくる。

 彼女は俺の前で立ち止まると、顔を見て――いや、見ているのは頭上。なぜか何もない空間に焦点を定めて、訝しげに小首を傾げている。しばし考え込んだあと、

「あなた、何者ですか?」

「俺も同じことを聞いていいか?」



《――★★女神様のロンド 紡ぎの三姉妹★★――》



「私は貰井もらい紡綺つむぎと申します。社会学部心理学科、三回生。次はあなたです、どうぞ」

 一方的に自己紹介を突きつけてきた女子学生は、こちらにも名乗るよう強いてきた。

「……陽咲ひさき矢雲やくも。獣医学部獣医学科、三回生だ」

 紡綺に倣ってそう告げると、彼女は意外そうな顔をした。

「同じ回生でしたか。しかも獣医学科とは珍しいですね」

「まあ、そうだよな」

 獣医学部を有する大学は、日本で二十もない。国家資格を取るまでに六年かかるし、その分学費も高くなる。矢雲がバイト漬けになる理由がこれだった。

「それで、俺がどうかしたのか?」

「んー」

 質問など耳に入っていない様子で、紡綺は矢雲を注意深く観察している。

 いったい何なんだ、この女は。突然現れて、まるで不審物でも扱うように。もはや俺にとってもこいつは不審物でしかない。

 細面の端正な顔立ちに、腰まで届くストレートの黒髪。膝下までのプリーツスカートと清楚なブラウス。お嬢様然とした出で立ちだ。

 いや、そういえばさっき自分に近寄ってきた時の歩き姿は、姿勢一つを取っただけでも品の良さを感じた。

 もしかして本当にお嬢様なのか。だとしたらお嬢様ってのは、こんなに無遠慮に人のことをジロジロ見るものなのか。

「なんですか、人をジロジロ見るのは失礼ですよ。あなたの品性を疑います」

「お前みたいなお嬢様がいてたまるか……」

「なんのお話でしょうか」

「今日は厄日って話だ」

「それは不憫な」

 紡綺は一歩離れて、矢雲の頭上を見やる。相変わらず何もない空間だ。首をひねったまま、小さな嘆息を一つ吐き出した。

「やっぱり視えない。本当に出ていないのかしら?」

「なんの話なんだよ」

「あなたが理解しがたい人だという話です」

「初対面なのに気が合うな。俺も同じ意見だ」

 初対面。そう口にした瞬間、こめかみに鋭い痛みが走った。

 強い目まいが視界を歪ませる。激しく揺れる脳裏に、何かの映像が叩きつけられるようにフラッシュバックした。

 黒い空から降り注ぐ大粒の雨。鼓膜に響く車の音。ここは道路か。歩道橋が見えた。その歩道橋の上から誰かが俺を眺めている。三人だ。顔は見えない。灰色のノイズがかかって、その人影がかき消されて――

「うっ!?」

「ど、どうしたんです?」

 頭蓋の内側から圧迫されるような鈍痛に、たまらずたたらを踏む。

 今の光景は幻視なのか。過去とも未来とも判然としない、覚えのない記憶。

「大丈夫ですか? 顔色が優れませんね。冷や汗もかいているようですが……」

「……いや、大丈夫。軽くふらついただけだ。日差しが強かったからかな」

「では涼しい場所に移動しましょう。あなたにはまだ聞きたいことがあります」

「マジか――ん?」

 矢雲の目が留まった先に、一匹の犬がいた。不安そうに首をめぐらせながら、所在なさげにうろついている。

「子犬みたいですね。リードはつけていないようですが。どこかからキャンパス内に迷い込んだのでしょうか」

「保護する。悪いが話はまた今度にしてくれ」

 迷わず告げる。紡綺は戸惑っていた。

「は、はあ? そんなことは学生自治会にでも任せておけばいいではないですか。なぜあなたが、というか私は話がしたいと言っているでしょう!?」

「あの子犬、後ろ足の動かし方が変だ。ケガをしてるのかもしれない。下手に走らせると余計悪化させてしまう」

「だから学生自治会に報告をと言っているのです」

「俺は獣医志望だぞ。放っとけるか!」

「この強情者!」

「薄情者よりマシだ!」

「もぉ~!」

 紡綺は頭をかかえる。何かを悩んでいるようだが、構ってもいられない。優先順位は子犬だ。

 踵を返して子犬のところに向かおうとした時、

「仕方ありません。私も協力します。不本意ながら!」

「いいのか?」

「だから不本意ながらです。手早く済ませて、私のための時間を作りなさい」

 作りなさいと来たものだが、人手があった方が助かるのは確かだった。

「わかったよ、約束する。ひとまず刺激しないように距離を詰めていくか」

「しばしお待ちを。先に連絡するところがありますので」

「え、このタイミングで?」

「穏便に子犬を保護したいのでしょう?」

 あっさり言うと、紡綺はスマホを取り出した。


 ★

 

 紡綺の電話を終え、さっそく行動を開始する。

 王戸学院大学の敷地はとにかく広い。高校の運動場ほどはあろう中央広場を囲うようにして、様々な研究棟や実習棟が建ち並ぶという設備配置である。

 現在、矢雲たちと子犬がいるのが、その中央広場だった。

「それで、二人で子犬に回り込むのでしたか?」

「そのつもりだったんだが」

 子犬との距離は一〇メートルぐらいだが、周囲に遮蔽物がない。悟られずに接近することができないのだ。しかも子犬は見知らぬ場所で、かなり周囲を警戒している。

「あれじゃ、うかつには近づけないな」

「ですが、あまり策を練っている時間もなさそうですよ」

 他の学科の講義も終わったのだろう。各実習棟から学生たちが出て来て、広場に集まり始めた。

「まずい。あれだけの人間がざわついていたら、子犬に刺激を与えてしまうな。こうなったら一か八かで行ってみるしか……」

「十中八九逃げるでしょう。壁際とか捕まえやすい場所まで誘導した方が確実では?」

「それができれば苦労しないだろ。犬なんてこっちの思い通りには動いてくれん」

「犬はまあ、そうでしょうね」

 まばらに歩く学生たちに視線を転じながら、紡綺は素っ気なく言う。群衆を見据えた彼女の瞳が、すっと細まった。

「陽咲さん。あの人を見て下さい」

 紡綺が指を向けた先に、学食から出てきたばかりの男子学生がいた。

「あの人? ああ、芝じゃないか」

「さっきあなたと一緒にいたご友人でしたか。多分、今からあの人のところへ犬が走ります」

「何を言って――」

 紡綺に聞き返す前に、子犬は動いていた。全力疾走で芝へと向かい、その足元を潜り抜ける。

 芝は素っ頓狂な悲鳴を上げて、どすんと尻もちをついた。さらに持っていた飲み物を頭からかぶるというおまけ付きだ。

「な……?」

「次は彼の近くにいるポニーテールの女子。その次は社学棟前のハーフパンツの男子。その順番で行くはずなので、見失わないように追いかけますよ」

 ドリンクまみれで慟哭する芝を置き去りに、子犬はさらに走る。ポニーテールの女子を驚かし、ハーフパンツの男子のハーフパンツを噛んでずり落として。

 その後も紡綺は、この雑多な人の集まりの中で、誰のところに犬が走っていくかを全て的中させた。皆が皆、突然の襲撃に慌てふためいている。バランスを崩してこけた者もいた。

 不幸に見舞われた哀れな学生たちを横目に、矢雲と紡綺は子犬の後を追う。

「まさか未来がわかるのか?」

 そうとしか思えず、そうとしか聞けなかった。

「いえ、わかりませんよ。まだ」

 とだけ答える紡綺の視線は、逃げる子犬ではなく周りの学生たちに向けられている。 

 あちこちを走り回った結果、ようやく子犬が止まったのは史学部の研究棟の裏手だった。

「はあっ、はあっ……苦し……」

「だ、大丈夫か?」

「死ぬかとっ、思ってます!」

「現在進行形なのか」

 紡綺はぜえぜえと肩で息をしている。見た目通りというべきか、あまり体を動かすタイプではないらしい。

「はあぁ~、もう絶対、一生分は走りました。この先の人生で私が走ることは二度とないでしょう」

「そんな人生が許されるやつがいてたまるか……」

 子犬は足を止めているものの、さりとて袋小路というわけではない。建物の隙間を縫うようにして細い小道がいくつかあって、それらはさっきの広場に繋がっている。

 要するに、そこに逃げ込まれると振り出しに戻ってしまうのだ。

 子犬の足も心配だ。仮に野良犬だったとして、障害を持ったままだと飼い主の引き取り手が極端に見つからなくなる。その先は言わずもがなだ。一刻も早く落ち着かせて、怪我の有無を診なければ。

「やっぱり二手に分かれて、両側から捕まえよう。その方がまだ可能性がある」

「私が動物にさわれると思っているのですか?」

「じゃあなんで協力するって言ったんだよ!」

「大きい声を出さないで下さい。子犬が逃げたらあなたのせいですよ?」

「ぬぐっ……!」

 もういい。付き合ってられるか。この女に頼るくらいなら、俺一人で捕まえる。

「だあああ! やっと見つけたよ、姉さん!」

 馴染みのない声が割って入ってきたのは、犬の死角側に移動しようと足を踏み出しかけた時だった。

 振り返ると、女子高生が一人、こちらに駆け寄ってくる。

「遅かったじゃない、芽守めもり

「いやいや、姉さんがちゃんと場所を伝えてくれないからでしょーが。大学のキャンパスって半端なく広いんだし」

 芽守と呼ばれた女子高生がぷんぷんと怒る。

 金髪のショートカットで膝上スカート丈の、活発な印象を受ける少女だ。

羽三美はさみは?」

「ん」

 芽守の後方からもう一人、小柄な少女が走ってきた。走るといっても、一般人の歩くよりやや早い程度のペースでしかなかったが。

 中学の制服にミディアムボブの髪形。先の芽守と反対で、大人しげな印象の少女だ。

「はあ、はあ、つむぎ姉様……。急な呼び出しは今に始まったことじゃありませんけど、ちょっとは距離を考えて下さらないと困ります。羽三美はこんなに走れません……」

「あらあら、もっと体力をつけないといけないわね。普段から運動しないとダメよ」

 数分前に“生涯走らない宣言”をした女が何か言っている。

 芽守。羽三美。

 さっき電話をかけていたのは彼女らの招集のためか。会話から察するに紡綺の妹たちのようだが、だとしてなぜここに呼んだのか。

「で、姉さん。どういう緊急事態?」

「あとで話すわ。力を使う」

「あたしと羽三美が呼ばれたってことはそうなんだろうけど。でも……いいの?」

 芽守が矢雲をちらりと見る。

「少々訳ありなのよ。どのみち、私たちが何をやっているかはわからないでしょ」

「そりゃあね。だったら範囲はどうする?」

「大学の敷地全て」

「うぇえ、広いんですけど……」

 矢雲を置いて話が進む。質問を挟む余地もなく、ただ成り行きを見ているしかなかった。

「じゃあ……やるよ!」

 芽守が右手を地面に押し当てる。

 地についた手のひらから、不可視の力場が展開された。放出された得体の知れないエネルギーは建物や人を透過しながら、湖面に広がる波紋のように範囲を拡大させていく。

 まもなくその力場は大学全域を覆い尽くした。

「完了したよ、姉さん」

「ご苦労様。次は私の番ね」

 芽守からの合図を受けて、紡綺はしなやかに腕を振った。その動作に呼応するように風が逆巻く。

 何かが起きようとしている。

 辺りを見渡した矢雲の視界に、何人かの学生が映り込んだ。興味本位で子犬を追って来たのだろうか、この史学科棟の裏手に姿を見せた複数人。

 その全員の頭から、光る糸のようなものが直上に伸びていた。それらの糸は、手繰り寄せられるようにして紡綺の元へと向かう。

 いや、彼らだけではない。他にも無数の――おそらくは大学にいる多数の人間から生まれているであろう糸が、彼女へ集約されているようだった。

「な、なんなんだ、これは……」

 直感する。これは人に許された力の範疇を遥かに超えるものだ。常軌を逸した光景に、我知らず肌が粟立つ。

「姉様、姉様?」

 羽三美が紡綺の袖をくいくいと引っ張った。

「今は話しかけないで。集中しているの。後にしてちょうだい」

「いえ、ですけど……多分あの人、視えてますよ。因果の糸が」

「え? は? え!?」

 紡綺が表情を強張らせて、矢雲を凝視する。

「う、うそ? あなた、何か視えてたりする?」

「えっと、その光る糸みたいなやつのことか?」

「色はどう?」

「黄色とか青色とか」

「……信じられない。本当に視えてるのね。……いえ、とにかく今は全部後回しよ。先にこれを済ませないと」

 紡綺の腕の中で輝く糸たちは、解かれ、結ばれ、束ねられ、そして再び紡がれていく。

「これでいいわ。羽三美、お願い」

「はい、姉様」

 羽三美は制服のポケットからハサミを取り出した。キラキラのデコレーションが施された糸切りばさみだ。

 その刃先を寄り集められた糸の結合点に当てると、

「ちょっきんっ」

 と可愛らしい仕草で切断する。

 同時に大学を覆っていたフィールドが、割れた風船のように弾け散った。糸の束も放射状に霧散し、現実の視界の中に溶け消えていく。

「今のは……?」

「そこから動かないで下さい。犬があなたに走ってきますから」

 紡綺がそう告げた途端、子犬が駆け出した。

 しかし矢雲には向かって来ない。例の中央広場に繋がる細道に入ろうとし――

「頭からビショビショだぜ。あの犬っころめ~」

 その細道から、ぼやく芝が現れた。いきなり人間に出くわした子犬は驚いて、別の小道に逃げ込もうとする。するとそこからも別の学生が歩いてきた。

 子犬が向かおうとする先に、まるで先回りして行く道を塞ぐがごとく、次々に学生がやってくる。

 しかも全員が偶然といった様子で、犬を捕まえる協力をしに来たわけではないようだった。

 おかしい。こんな建物の裏側の空き地に、同じタイミングで人が集まるなんて、まずあり得ない。

 四方八方の逃げ場を失った子犬が、最後に進路を定めたのは矢雲のいる場所だった。

「来ますよ。逃さないで下さい!」

「あ、ああ!」

 腰をかがめて、子犬の突進に備える。

 が、接触直前で子犬は方向転換し、紡綺へと飛びかかった。興奮して牙をむいている。

「やっ、きゃああ!?」

「ぐっ!」

 無理やりに態勢を変えて、矢雲は紡綺の前に飛び出した。

 間一髪で間に合う。腹に直撃する子犬タックル。勢いそのままに背中から倒れてしまったが、子犬は抱え込んだまま離さなかった。紡綺は驚いているが怪我はなさそうだ。

 青天になった視界いっぱいに空が映った。三人の姉妹が矢雲をのぞき込む。

「おお~、姉さん守ってくれたんだ。ありがとね」

「大丈夫です? ワンちゃんが手を噛みまくってますけど」

「………」

 無言の紡綺はじっと見つめてくる。

 ずきりと矢雲の頭に痛みが走った。またいつかの光景が脳裏をよぎる。

 子犬を追って、誰かに出会って――そうだ、前にも。前にも同じことが……。

 激しい雨の日に沈んだ記憶。歩道橋の上から自分を見下ろす三人の少女の影が薄れ、眼前の三人の姿と重なって映る。

「あなたに聞きたいことが増えました。さあ、カフェにでも行きましょうか」

 遠い過去から届くような声で、紡綺はそう言った。



 ――つづく――

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