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第7話 テストへの応援コメント
この小説に書かれているのはなんでもない日常の一幕のように映るかもしれない。私も最初読んだ時はそうとしか思えなかった(無論のちに己の浅はかさに気がつくのだが)。私がその直観──この小説はあくまで日常系に見せかけているだけなのだという直観を得たのは、とある一文を読んだ時であった。
「発音のいいイエスが飛ぶ(※1)」
無論、このイエスとはJesus Christ、即ちイエスキリストのことである。
そう考えてみれば、それまでの意味不明な文章にも合点がいく。
まず繰り広げられているのはまるで内容のない雑談……のように見える。しかし、これらは全て例の一文(※1)の真の意味に気づかせるための伏線であるのだ。
1:「パイセンパイセン」に対する「天神天神みたいに」というツッコミ。
2:「何点」と「難点」(それと「満点」もであろうか)を用いた一種の言葉遊び。
3:「何問」と「難問」を用いた以下同文。
これら、ただの雑談のような文章から筆者が我々に伝えたいであろうこと、それは一つ。そう、これらは「私はこのような言葉遊び、同音異義語、或いはダブルミーニングを好みます」と読者に示しているのである。
そして、ついに地の文において彼は姿を現す。
「発音のいいイエスが飛ぶ」
馬鹿馬鹿しい、そんなわけがないだろうと思うかもしれない。
しかし、これらを意図しないのであれば、果たしてわざわざ「Yes」と「イエス」という二通りの書き方をするであろうか? これはおそらく、否、間違いなく筆者から我々への慈悲である。
おそらく初め、筆者はどちらもYesと英語で書いていたはずだ。この「たんぺーん」というシリーズの第一話の最後の文。そこにおいて、ナマステがデーヴァナーガリー文字を用いて「नमस्ते」と表記されている。このことから、筆者が言語に敬意を払おうとしている姿勢を読み取ることができる。これを鑑みると、筆者にとってYesはYesでなければならないのだ。イエスとYesとは全くの別物である。その中から……JesusではなくYesの中から、キリストにたどり着くことができるような感性が読者には求められていたはずなのだ。
そのため、このカタカナ表記はある意味では読者への完全な侮辱行為である。
「所詮ただの娯楽としてしか小説を読んでいないお前らには私の意図など理解できないだろう? だからヒントぐらいやろうじゃないか」と筆者は言っているのだ。
──舐められている。完全に舐めてかかられている。
だが、所詮私は舐められて然るべき存在なのだ。イエスがJesusである、そのことを読み取ることができたにも関わらず、この話を完全には理解できていないのだから。
「パイセンパイセンパイセーン!」
女子2人+αに占領された教室のドアが勢いよく開いた。閉めた。そして少しだけ、開く。
→まず最初の二文を考えるにあたって間違いなく重要と言えるのは次の台詞、「なんだ天神天神天神みたいに」である。
この「天神」が父なる神を表すのは明白であると。そのため、この二文の何かに父なる神を示唆するような、或いは風刺するようなものが隠れているはずなのだ。
そもそも、前述の通りこの教室(或いはこれも何かの隠喩であろうか)にはJesusがいるはずだ。そして描写によると教室を占領しているのは女子2人+α。そう、あろうことか、語り手はJesusほどの人物を+αとして、特筆するに値しない人物として語っているのである。或いはその態度を「まるで天神のように傲慢である」と非難しているのだろうか? また、「天神天神天神」と三回「天神」という言葉を繰り返させていることにも作為を感じる。これは多神教の暗喩とも取れるのではないか? だがここで多神教を揶揄することに何の意味が生まれるのか? この作品は神についての問答を暗喩しているのか?
どちらにせよこの作品を批評するにあたって私はあまりにもキリスト教を含めた宗教学に関する知識が足りていない。ひとまずは聖書を読み直してから出直してこようと思う。
果たして、この作品の真意に気づける日は──自分以外でも、一人でも真意に気づく人間が現れる日は来るのだろうか? 是非とも、そのような展開を期待したい。
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第7話 テストへの応援コメント
私が思うにこれは、パリサイ派とイエスの弟子たちとの間の問答やイエスの復活を暗示している作品なのではないだろうか。
まず先輩と後輩が登場するが、2人はそれぞれパリサイ派ユダヤ教徒とイエスの弟子の1人を表していると思われる。パリサイ派の方がユダヤ教とキリスト教との間では「先輩」であることが何よりもの証拠だろう。後輩からの「何点だったと思うか」という質問に対して、「どこが難点だったのか」と質問で返している。この「難点」はユダヤ教徒の受けてきた神からの試練を表しており、ここから作者がパリサイ派を旧約聖書にある物事からしか思考できない教条主義者であると考えていることが読み取れる。また、「落語の商人の相槌のような声」という表現はパリサイ派の言動には中身がないということを表現したのだろう。
そんなパリサイ派(以下、先輩)の質問に対して答えようとする姿は、イエスの弟子(以下、後輩)が女性と考えられることもあり、まるでアレクサンドリアのカタリナを彷彿とさせる。しかし、舞台がイエスの生前であったことを考えると、後輩のモデルはマグダラのマリアの可能性の方が高い。もしかすると作者は2人の聖女を重ね合わせ、この作品に登場させたのかもしれない。
次に前述した後輩の回答とそれに対する先輩の反応を読んでみよう。後輩の「はい!難点は満点でした!100点です!」や「5問全て難問でした!」といった回答に対し、先輩は「わぁ元気」や「頭ないもんな」と反応している。この際後輩は正しいことしか言っていない。確かにすべて難点ならば難点は全ての問題中100%となるし、無論5問全てが難点である。これは至極当然のことであるはずなのだが、先輩はこの回答を否定的に捉えている。この描写は、パリサイ派が儀礼を重んじるばかりに真実が見えなくなっている状況を表しており、これもパリサイ派を儀礼主義者であると批判した描写である。
しかし、この場面で最も重要な点は、そのあとである。先輩が「頭ないもんな」と言ったことに対して後輩は「頭はあります!」と返答した。この「頭」とは恐らく頭脳のことではない。この「頭」は父なる神、転じて神の加護のことを指しており、このことからこの描写は、パリサイ派がイエスの弟子に対して「イエスの信者は神の加護がない」と言い、イエスの弟子はそれに対して「神の加護は私たちにもある」と言っていることがわかる。これはキリスト教の教えの一つである「神は異教徒も含めたすべての人間を愛している」という点を踏まえ、それを強調する狙いがあると考えるべきだろう。
最後にこの作品がキリスト教についてのものであると考えられる最大の理由を挙げる。それは「発音のいいイエスが飛ぶ」という一文である。わざわざ“Yes”を「イエス」と書き直したことはその仮定に対する最大の証明となるだろう。またこの「イエスが飛ぶ」とはキリストの復活とその後に天へと帰った場面を表しており、舞台となる時代がわかる部分となっている。
一方で最後に登場する「福島っ子」は誰なのか特定することができなかった。順当に考えると、先輩からの天誅を受けるという点で別の弟子に思える。しかし、この発言がキリスト教徒に対してではないものの可能性も拭えない。その場合はパリサイ派と対立した別のユダヤ宗派であるサドカイ派なのではないだろうか。また、先輩の同輩である「私」も謎の人物である。個人的にはイスカリオテのユダではないかと考えているが、これも憶測の域を出ない。しかし、どの説も「福島っ子」や「私」の登場があまりに唐突であったために、完全に納得いく形にはできていない。これらの点に関しては、「未来の敬虔な若者たちが解明することを期待する」として締めさせていただきたい。
第3話 パスタへの応援コメント
『パスタ』は、パスタやパリジャンなどの単語を一見無意味なように連続して記述しているが、これはおそらくオートマティスムによる自動筆記と考えられる。
文中では「パ」で始まる単語がほとんどを占めている。「パ」は破裂音であるが、これは筆者の内なる不満を爆発させたいという意志のあらわれだと予想した。
また、イギリス製の「パンジャンドラム」やパリ市民を意味する「パリジャン」、文末の「ドイツ」という単語はオートマティスム発祥のヨーロッパへの憧憬の結果なのではないだろうか。「シュルレアリスム宣言」を起草したアンドレ・ブルトンの故郷であるフランスに関連した「パリジャン」が最も多く書かれていることも私の説を補強する材料となるだろう。
一方で、パンの絵文字を使用する点は現代人的な表現であり、既存のシュルレアリスムとは一線を画す点も留意したい。
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第7話 テストへの応援コメント
本作は世の数多ある作品の一つとしておよそ埋もれていくのだろう。しかし、そこには他と一線を画すような、作者の作品に対する姿勢の変化と文学への挑戦が望めると私は考えている。
はじめに、作者のクラウドストーリー氏が「言語に敬意を払おうとしている姿勢」については、そうですか氏が応援コメントにおいて言及している通りである。第1話、第2話に続いて締めの挨拶を現地の文字を用いて表記する姿勢から、作者は言葉の意味を正確に読み取れるよう読者に配慮していることが窺える。
一方で、第5話の締めの言葉では、イタリア語の挨拶であるciaoをあえて「チャオ」と記している。ここには、挨拶とも話し相手の名前ともとれる曖昧さが落とされており、作者の言葉に対する姿勢の変化が読み取れるのだ。
姿勢の変化については違和感がない。第1話と第2話については、会話文のみを用いた物語が展開されており、情景描写を省いた質素かつ直接的な執筆方法が取られている。それから第3話に入ると、突如としてパスタやパリジャンといった明瞭な意味の言葉を用いて<頭に残るフレーズ>を開拓するようになる。欠番の第4話から飛んで第5話、第6話と再び会話文を重視した物語展開に落ち着くが、前述した「チャオ」や第6話における「可愛いをひらがなで書く私」によって、あえて<曖昧な表記にすること>への寛容を示唆している。その集大成が第7話であることは疑いようがない。
第7話とそれ以前の決定的な変化は「地の文の有無」である。会話文のみの物語展開から、簡易的な情景描写が随所でみられるようになった。これによって全体の文量が増加し、同話内で変化の要素を一挙に攫うことが可能になり、「パイセンパイセンパイセーン!」と口にした時の音感から「天神天神天神」という<頭に残るフレーズ>を引っ張り出したり、終盤で「Yes!」と「イエス」という同じ意味を持つ単語をあえて異なる表記で残し、曖昧さを醸し出したりしている。その「イエス」が表す意味が一つの論点となっており、そうですか氏とエンリケ後悔王子氏がそれぞれキリスト教的価値観に根差した考察をコメントしている。曖昧な表記である以上、何かしらの意図が落とされていると考えるのは当たり前である。
しかし、本当にこの「イエス」はイエスキリストを示しているのだろうか。示しているとして、クラウドストーリー氏は読者に何を伝えたかったのか。考察の余地があると考え、私も考えてみることにした。
はじめに「イエス」の意味だが、やはり肯定の意味を持つ「イエス(Yes!)」が妥当であろう。これは文脈から読み取ることができる。先輩もテストを受けたこと知っていた後輩に対し、先輩が福島っ子から聞いたのか問う。それについて、後輩が肯定したのである。発音のいいイエスとは、ネイティブさながらの発音が後輩の口から飛んできた、と読み取るのが至極当然であろう。
だからと言って、他の価値観を切り捨てることはできるだろうか。<曖昧な表記にすること>に対して寛容になったクラウドストーリー氏が、あえて「Yes!」と「イエス」を使い分けるだろうか。また、どうして先輩は「イエス」と聞いた途端に「天誅」という言葉を使って後輩と福島っ子を追い回したのか。
その鍵を握るのが「天神」である。天神とは、日本の皇室や古代の有力豪族の先祖とされる神々のことである。また、菅原道真を「天神様」として畏怖・祈願の対象とする神道の信仰をいうこともある。菅原道真といえば学問の神様であり、テスト結果が物語の中核を担う本作において、これほどマッチした存在は他にいない。いずれにせよ、日本における神、神々を表す言葉であることに間違いはない。
留意しなければいけないのは、神道は多神教だが、大日本帝国時に広く知られた「八紘一宇」は全世界を一つの家にする、つまり天皇を唯一神として信じることを他地域に強いた、ということである。
一方で、イエスとはイエス・キリストのことであり、世界的に信仰が深いキリスト教における唯一神である。また、日本が第二次世界大戦において対峙した勢力の多くがキリスト教を信仰する国家であった。
このことから、先輩がイエスと聞いた途端に「天誅」と言う言葉を使って後輩や福島っ子を追い回したのは、八紘一宇の名のもとに他宗教に天罰を下し、他地域を制圧しようとした大日本帝国を風刺したかったからではないかと考えられる。各国の挨拶を現地の言葉で表記したり、パンジャンドラムという軍事兵器を言葉遊びで使っていたりと、各所で教養の深さが窺える点もこの考察を後押ししている。
第7話以降も、クラウドストーリー氏の挑戦は続いている。第8話と第9話はそれまで1話構成であった物語から、2話構成の物語展開へと変化している。変化のうちに唯一無二の文学が築かれていくことに期待して、今回の考察を終えたい。