第三十九話 厄災の娘(4)
「シハルも気づかないようなあんな結界を張れる人間が簡単に殺されるわけないよね」
子供がまたシハルの袖を引っ張っている。無視しているのかシハルは山を見たまま目を離さない。
「待ってよ。ばあちゃんは殺されてないって。朝見たら冷たくなってたの。歳だったし。仕方ないんじゃないの?」
いつになく真剣な目で山を見ていたシハルがふっと振り返る。
「悔しいですが、レイヒさんの家にありますね。おそらく……心臓が」
袖に子供をくっつけたままシハルが歩き出す。
「え? 心臓? そんなもんないよ。何いってんの。きもち悪ッ」
あわててレイヒもシハルを追った。自宅に臓物なんかあってたまるか。
家は妙に静かだった。そういえばハルミが鬼の形相で家に戻っていって、その後どうなったんだろう。ヴァルダは無事だろうか。
戸を開くといきなりそのハルミが寝そべっていた。いや、倒れているのか。
「うわー。ねぇ、どうしたの? ハルミ?」
レイヒはおそるおそる近づいて板の間に投げ出されている腕をつついた。
シハルと子供は当たり前のように家にあがってくる。
「そういえばあの犬は何?」
子供が不愉快そうに取り付いたままのシハルの袖を引っ張っている。
「わからないんですか? 私も最近よくわからないんです。神様ならわかると思うんですけど」
子供は無表情で黙り込む。何かを考えているように見える。
子供が黙ったタイミングで、シハルは膝をついてハルミの脈を確認した。
「蹴られて転んだだけじゃないでしょうか。生きてますけど、頭を打っているかもしれません」
見るとハルミの頬にはくっきりと犬の肉球の跡が赤く残されていた。
「ちょっと、何それ。なんで犬に蹴られてるの」
レイヒは思わずきゃははと笑い声をあげた。それからふと黙る。
「あれ? ヴァルダは籠に入れておいたんだけど?」
ハルミがわざわざ籠から出して反撃を受けるというようなヘマをするとは考えられない。何しろばあちゃんの秘蔵っ子だ。いまだレイヒは信じていないが、ヴァルダが悪霊だというのならその扱いも十分に心得ていたはず。
「籠はあまり意味がないかもしれません」
シハルはハルミの腕をとって腹の上に組み合わせる。さらにその指で印を結ばせて、懐から出した札を胸の上にのせた。
「ちょ……それ死体にやるやつじゃん。死んでないんでしょ。冗談キツ」
レイヒはキツめの冗談だと思って笑おうとしたが、シハルはいたって真面目な顔をしている。あの金色の香を使ってから何となく近寄りがたい。
「どこかに隠れているのかもしれません」
「ヴァルダを入れたのはただの籠じゃないよ。ばあちゃんが贄を閉じこめておくために作った、なんかよくわかんない特別な籠なんだから。出られるわけないよ」
はっとシハルがレイヒを見る。
「その籠、見せてください。結界の手筋がわかるかもしれません」
言いながら勝手に奥の間に進んでゆく。見せてほしいと許可を取ろうとした意味はなんなのか。
「山の結界ではわからないの?」
子供はいちいちシハルを煽ってまわっているし、ハルミは死体みたいになってるし。戸口に取り残されて、レイヒは少し不安になる。一応、ハルミの腕に触れてみた。温かい。さらに首に触れるとちきんと脈が感じられる。よかった。間違いなく生きている。
「私を餌に使うつもりですよ。アレは死体を食いますからね」
「うわっ。ハルミ起きてたの?」
「今、起きたんです」
渋い顔をしているが、札も印もそのままに寝そべっている。
「ね、ね、ちょっと。ほっぺたに肉球がついてるよ。鏡持ってくるから見てみて。くっきりついてるから。くっきり」
レイヒは自室に鏡をとりに行こうと立ちあがった。
「レイヒ様!」
「ひゃっ」
ハルミが突然大声をあげるので変な声が出でしまった。
「ふざけている場合ではありません。こうなったら誰よりも先にカムリヒ様の遺したものを探し出します」
レイヒはぽかんと口を開けた。
「ばあちゃんが遺したもの? それ何の話?」
「レイヒ様は何もご存じないと心得ていますが……」
ちゃんとわかってくれていたのか。レイヒは場違いにほっとした。
「我々が山の恵みを得て暮らしていけるのはすべてカムリヒ様のおかげだったんです」
「あ、はぁ」
それはまぁ、町の人たちもそんなことをよく言っている。大袈裟すぎる気もしたが、今さらハルミがまくしたてるほどの重大事実というわけでもないだろう。
ハルミが反応を待つようにレイヒをじっとみているので、レイヒは思わず「ん?」と首を傾げた。真剣な顔のハルミの頬に肉球がついているのが、今さらじわじわ来る。いや、今笑ったらダメだ。
「ぶふっ」
とうとう耐えられず吹き出してしまった。
「レイヒ様、もういいです」
ハルミは死体のふりをやめて立ち上がる。
「いや、ごめんて。一緒に探すから、ね?」
ドスッと、何か鋭い音がした。
先ほどまでハルミが死体のふりをしていた板の間に一尺はあろうかという枝が突き刺さっている。
「木の枝?」
小枝というには太い。こんなものが体に突き刺さったらただではすまないだろう。一体どこから飛んできたのか。レイヒは辺りを見渡した。
「危うく山の贄にされるところでした。あのシハルという呪術師、もう勘弁なりません」
結構長いこと自発的に死体のふりしてたじゃんと思ったが、また拗ねてしまっては困るので「よし、早いとこ探そう探そう」と、背中を押した。普段おとなしい人がキレると本当に面倒だなぁと、密かにため息をつく。しかしなぜ木の枝が?
「かかったか?」
突然、奥から駆けてきたのはヴァルダである。しゃべったのもヴァルダだろうか? 本当に悪霊だったのか。しかし犬がおしゃべりするなんて――本当にかわいい。
「ヴァルダ、どこにいたんですか! それは私がかけた罠ですよ」
すぐにシハルが奥から走り出でくる。
すっとハルミが背筋を伸ばした。嫌な予感がして、レイヒは後ろにさがる。
「あなた、人を餌にするとは何事ですか」
ハルミは手に木刀のようなものを構えた。あれはばあちゃんのだ。よくレイヒもあれでぶたれたものだった。
「いえ、簡単に餌になるような御方ではないとお見受けしましたので」
シハルは飄々と言いながら、危なげなくその一撃を避ける。相変わらず重そうな箱を背負ったままだが、おそろしいほど身軽だ。そしてハルミのことはすでに眼中にない。きらりと琥珀色の目が金色に光った。レイヒはぞっとしてしゃがみ込む。
「ヴァルダ!」
シハルが叫ぶと、ヴァルダの体がぐんと伸びあがった。
レイヒは思わず目を見張る。ヴァルダは巨大な狼になっていた。赤々と燃えるような毛並みはうつくしく、ため息が出るほどだ。そしてその巨体は力強く天井を突き破る。シハルはヴァルダの体を軽々と駆け上がっていった。まるで階段でものぼるかのような動きだ。どれだけ身軽なんだ。何か大きく鋭いものが屋根を引っかくような音がした。直後、鳥が羽ばたく音とともに屋根が崩れ落ちて来る。
「逃した!」
ヴァルダから飛び降りてきたシハルは、口惜しそうに巨大なヴァルダの体をぺしぺしと叩いている。
「なんだよ。俺が悪いのかよ。あれ、空飛んでったぞ」
壊れた屋根の上からヴァルダの声が降ってくる。
「飛ぶのは知ってました」
「先に言えよ。こっちはずっとここに閉じ込められてたんだからあれのことは知らねぇんだよ」
「本当に籠に閉じ込められていたんですか」
「まさか。ちょっと休憩してただけだ」
騒いでいるシハルとヴァルダをよそに、無言でハルミが木刀を振りかぶる。完全にキレた陰キャだ。
「待って、待って。ちょっと落ち着こう」
レイヒは仕方なく後ろからハルミを羽交い締めにする。普段はこういう役回りじゃないだけどな。
――とはいえ。
レイヒは辺りを見渡した。天井には穴があき、修繕には時間がかかりそうである。
ため息をついているレイヒの横で「あの犬なんなんだ」と子供が眉をひそめていた。
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