第5話 これよりの生き様
「先程も申したとおり、この身―――駿河小島藩元年寄本役柳原敬忠は仮初の存在のようだ。私の本来の魂はこれより三〇〇年も先の令和の世、保坂恭子なる女性の記憶によって確かである」
朗々とした敬忠の言葉。重三郎に少しでも違和感を感じさせぬように努めて言葉を選ぶ。
「この時代には、人は生きて何年かな?」
唐突に敬忠は重三郎に問いかける。
「私はもう還暦に手を届かんとしておりますが―――このくらいまで生きれば、まあ幸せなことでありますな」
うん、と敬忠はうなずく。
「蔦屋殿ほど長生きできればよろしいが、なかなかそうもいくまい。私自身は―――そうだな、齢は五〇、もしくは四〇に届かぬ程度で死ぬかもしれん」
じっと押し黙る重三郎。この時代ちょっとした病であっという間に身罷るのはごくごく当然のことである。
「その前に一つやっておきたいことがある」
先程の帳面、”ノート”を目の前に開く敬忠。そこにはこの時代とは違う書式で細かい文字が沢山記されていた。
「あまり、ぱっとはしていない令和の身であった―――たった一つのことをのぞいては。それはこの”ラーメン”に関する情熱だ。この食べ物に人生をかけていた気がする。毎日のように食し、それを記録するその単純な繰り返しが、仕事で忙しい日々の唯一の楽しみであったような」
「そうでございますな。好きな食べ物に人生を委ねる。それもまた粋なことでございましょう」
「しかし―――しかしな―――この時代には―――」
言葉をためながら敬忠は震える。
「ないんだよ!その”ラーメン”が!この世界には!」
いままでの静けさを破るような敬忠の一声。重三郎は姿勢を崩さないが驚きは隠せない。今までの敬忠の口調と明らかに違うものを感じたからだ。
少しの沈黙。敬忠は立ち上がり障子の外を見やりながらつぶやく。
「最近の私の作品―――戯作についてどう思われますか?」
話を変える敬忠。重三郎は即座に答える。
「売れ行きもさることながら、内容もそれに比する以上に面白い、というか」
少し言葉を止める重三郎。
「恐ろしい感じを受けておりました。今まで全く見たことのないような―――話といいますか。しかし今日、お話を伺って腑に落ちました。柳橋様がそのような未来の記憶をお持ちであればそのような書作も可能ということが」
戯作者「笈川月町」の最近の作品の傾向。それはなんとも不可思議なものであった。江戸で働く凡庸な大工が馬にひかれて目が覚めると―――平安時代の平安京。そこで江戸の大工技術で栄達を恣にする―――そのような作品が多く見られるようになった。不思議な話ではあるが、なにか痛快な読後感がある。特に平凡に生きている町人にとって、時代を超えたロマンあふれる出世物語は何よりも読んでいて楽しい。文体もなるべく読みやすく工夫がなされていた。なにより昨今うるさい幕政批判も存在しない。まれに転生した時代の上様の批判あるが、それもまた風刺の効いた良いスパイスとなっていた。
「それなりの版が売れれば、それなりの売上があるであろう。いままではそれを受け取っていたが、今日この日よりそれは蔦屋殿にお預けしたい」
不思議そうな顔をする蔦屋。
「後、五年―――五年お仕えすればある程度の目処も立つ。そのときには誰はばかることなく隠居して私はこの江戸に住むことにする。この食材豊かな江戸の町に。そして残りの人生をかけて”ラーメン”を完成させる。くだらないことかもしれんが―――これが私の最後の”らいふわーく”だ」
聞いたことのない不可思議な言葉。”らいふわーく”とは。仏教語のなにかであろうか、もしくは中国の古典からの引用か。
「そのためには少なくない、金が必要だ―――蔦屋殿、お願いする。私の本が売れた利益を投資にまわしてほしい。投資先はここに書いてある。私がすると色々差し支えがあるのでな......またそれに余る分は蔦屋殿の判断で投資いただいても構わない。そう、まだ目が出ぬ戯作者などに投資いただいても構わない。それはおまかせする。いかがであろうか」
手渡された書状には事細かに投資先や金額が列挙されていた。
五年後の野望。そのまとまった財産を元にこの世にはない”ラーメン”を作るという―――
五年後の今、それが現実のものになろうとしていた―――
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