フルール・アロガン
白瀬直
第1話
◆
コライユは、その日まではまだ両親の声を覚えていた。愛されていなかったわけではないと思う。だが、コライユの両親にとっては、娘に注ぐ愛より抱えた借金の方がはるかに大きかった。
どれだけの金額になったのか、借金の全てに値したのかなど、何一つ説明はされなかった。コライユに解ったのは、自分がこれからどこか見も知らない他人のところへ売られていくということと、ここから先どうあっても親元には帰れないだろうことだけ。
奴隷商の男がもらした「まぁ、悪いことにはならんだろうよ」という言葉の意味が全く理解できなかった。今の立場より悪いことがどこにあるというんだろう。
これから身に降りかかる様々を考えないようにしながら「買い手」の男たちの前を歩く。銀の髪も、青い目も珍しくはない。そういった「普通」が、明るいところにいる間は嫌いだったが、こういう人たちに選ばれないのならそれも悪くはなかった。
そしてその日、コライユに声が掛かった。
「あなた、名前は?」
不安が占めていた心にすんなりと浸透してくる。静かで、それでいて強い力を備えた声。
何か行動を起こす前に、反射的に体の奥が熱を持った。薄暗い感情の中にあって、聞いただけで熱くなるような声。心温まるなどという生易しいものではない。燃え上がり燻るような感覚は、ほんの少しの不快すら纏っていた。
顔を上げる。
見上げた先に飛び込んできたのは金色の髪。窓から差し込む僅かな光を浴びて輝いているそれは、小さな頃に見た絵本の中の存在と瓜二つだった。
(女の子……)
コライユと、そう歳の変わらない少女だ。背丈も、着飾った服から伸びるすらりとした手足も、膨らみかけている胸も。どこを見ても、奴隷商に居るのが似つかわしくない、ただの少女だった。
ただ一つ、違うところがあるとするなら――
その金髪の下から覗く赤い瞳。
それがこちらを眺めていることに気付いたとき、コライユの視線は絡めとられていた。
魔性。
そんな言葉が頭の中に浮かぶ。コライユを見定めるような視線。もう、目を離すことが出来なかった。
「コライユと、いいます」
震える口から音がこぼれる。もはやそれに自分の意志は無かった。自分の口から自分の名が出てくるのも久しぶりで、音量の調節すらも上手くいっていなかった。そんな、届いたかどうか判らないくらい小さな声を聞いて、彼女ははっきりと頷いた。
「そう」
声には、笑みが付いてきた。新しいおもちゃを見つけたような、屈託の無い、年相応の少女らしい笑顔。無邪気という形容は、その場に最もそぐわない言葉だった。
「この娘にしましょう」
その声は柔らかく響き、コライユの頭を塗り替えていく。
体の奥から熱が生まれ、そのたびに、背筋が震えた。
目の前の少女の立ち振る舞いの一つ一つが、コライユに脳裏に刻まれていく。それと同時に今まであったものが少しずつ削がれていくような感覚を覚えた。そこに恐怖はない。今までの全てが塗りつぶされていることすら、快感だった。
息が荒くなった。吐くたびに視界に白いもやがかかる。筋肉が弛緩し、膝が笑う。倒れそうになったコライユを少女は両手で支えた。
「あら、大丈夫?」
至近で眺めたその顔に、体の熱が強くなる。
目線が合う。閉じられなくなった口は、不自然な笑みの形になり、声と音の判別がつかない何かを発する。そんなコライユの態度を見てもなお、少女は変わらぬ笑みを浮かべたまま、
「私は、フルール。フルール・アロガン」
そう、名乗った。
その名前を聞いたとき、コライユには、天啓めいた確信が生まれていた。
(私は、この方に出会うために――)
「よろしくね。コライユ」
コライユは今でも、その時の熱を覚えている。
◆
「ごきげんよう」
その声はとても涼やかだ。
アロガン家の一人娘であるフルールは、コライユの目から見ても欠点のない令嬢であった。
十年前のあの日、暗がりの中で見た魔性の美しさは二十の齢になってより魅力的になった。少女のあどけなさがまだ残る服の下、ふくよかに存在を示す胸のふくらみもあって、男であれば誰もが想像する美しい肢体。実物は妄想の二十倍は美しいと専属のメイドであるコライユは知っている。
貴族のアロガン家において、一人娘であるフルールに公務は無い。替わりに周辺の邸宅への挨拶周りなどが主な仕事になるのだが、それはそれでなかなかの重労働だ。馬車に揺られ、歩き、挨拶周りが終わればまた歩き、馬車で屋敷戻ったら着替えてまた別の邸宅へ。今日も既に10件近い邸宅を周っているが、その疲労を微塵も感じさせない立ち居振る舞いは、コライユが見て来た貴族たちの中でも群を抜いていた。
挨拶周りの道中、邸宅に住まう他の貴族たちは勿論、馬車で移動している間も多くの人々に広く声を掛けられる。公園での散歩にもなると、行く先々で人垣ができる。老若男女、さまざまな人が声を掛けてくるので、その対応をしているだけでもかなりの時間を食う。
それでも、フルールはそういう、貴族でない人たちとの触れ合いをこそ大事にしていた。
今日も、公園の草原で就学前の子供たちに囲まれていた。
「フルール様、あの、これ」
一人の少女が、花の輪を掲げる。シロツメクサの花輪。
「あら。可愛らしいですね」
「今日いらっしゃるってお母様に聞いたから、急いで作ったの」
「まぁ、頂けるの? ありがとう」
フルールに付き従って少なからずの貴族たちを見て来たコライユも、頭を下げて、平民の少女に花の輪を載せてもらっている貴族など見たことがない。
フルールには天与の力がある。彼女は人の上に立つべくして生まれてきた存在だ。
それはアロガンという家の力ではない。子供から老人まで、貴族から平民まで、誰に対しても礼を失しないフルールの振る舞い。その美貌と併せて、全ての人間を等しく魅了する「人たらし」の才能が、フルールには備わっていた。
気付けば、子供たちからのプレゼント会が始まっていた。四葉のクローバーを探してきた子がいて、川で見つけた綺麗な石を鞄から取り出す子がいて、とっておきの木の実を取ってくる子がいてと、ありとあらゆる自然のプレゼントをフルールは屈託の無い笑顔で受け取っていた。
美貌も、振る舞いも、フルールが完璧であればあるほど、それに使える私もまた完璧でなくてはならない。
そんなことを考えながら、コライユは自分の体内時計を傾き始めた日に照らし合わせ、フルールに声を掛ける。
「お嬢様、そろそろ」
子供たちから惜しむ声が上がるが、この後16時からも社交の予定だ。
「あっ、ちょっと待って」
一際幼い男の子が、手に何かを持って駆け寄ってきた。
薄青い目のその子が草に躓き体勢が崩れたと気づいたときに、手に持っていた黒い物体が泥ダンゴであったことが解った。
綺麗な球形。きらりと光るくらいに綺麗に磨かれていて、しっかり手間をかけて作ったのであろうそれはフルールの腰元に当たると同時、砕けて中の泥をぶちまけた。
思わずコライユが駆け寄ったときには、ドレスに茶色の模様が広がっているところだった。
「お嬢様」
ただの泥だが、ドレスの色が良くなかった。白を基調にしたドレスにこの茶色は目立ちすぎる。
「すぐに、お召し替えを……」
「お待ちなさい!」
鋭い声が飛んだ。
その声量に間近で聞いたコライユの背筋が震えたが、フルールはコライユに向けて発したのでは無さそうだった。
フルールの視線の先を追うと、男の子に手を上げる父親らしき大人がいた。事態を見て駆け寄って来たのであろう彼に、フルールは厳しい目を向けている。
「その手を、降ろしていただけますか」
「し、しかし、お嬢様のドレスを……」
このドレス一着の値段で、この村の人間が何年生きて行けるのか。そのくらいの価値判断は彼らにもある。それを損ねてしまったという怖れがほとんど反射的な暴力に訴えさせたのだろう。
男の子の目には涙が浮かんでいる。息をのむ音が連続して響いていて、もうすぐにでも声を上げて泣き出しそうだ。
「構いません」
フルールは、務めて平静な声で、
「これしきの化粧で、このフルール・アロガンは損なわれません」
そう宣言した。
すっと男の子に歩み寄ってひざを折る。
「あの、ごめんなさいね。あなたの宝物、壊してしまいました」
そういって男の子を見つめるフルールは笑顔を浮かべていた。ほんの少し、目が潤んでいるようにも見える。何を言われているのか判らないのか、男の子は泣きじゃくり続けた。
「うーん、どうしましょう」
しばらく悩む用に目を瞑った後、
「よし」
そう言って立ち上がると、フルールは声を張った。
「どなたか、上手く作る方法を知っている方はいらっしゃいますか?」
「……お嬢様?」
「泥団子です。ここにいる皆さまたちも、この村の子供でしたでしょう? なら、この子よりもっと上手く作れる方もいるんじゃありません? この子に、もう一度、宝物を作ってあげてくださいな」
そういうフルールの声を聞いて、何を言っているのか理解した者からざわざわと声が上がった。
「俺が一番うまく作れるぞ!」
「いや、俺だ!」
「私だって!」
我先にと男の子の手を取る者や砂場に走り始める者たちが現れて、一段と騒がしくなった。
しばらくしたら、綺麗に磨かれた泥団子が、屋敷に献上品として送られてくるかもしれない。旦那様達は困惑するだろうな。
コライユがそんなことを考えながら騒ぎから離れて馬車に向かう途中、フルールに小さく声を掛けられた。
「コライユ。今晩……いいかしら?」
「……はい」
その言葉には、涼やかさの中に熱が隠れていた。
◆
夜。薄明りが照らす寝室に音が響く。
「ふふっ……さぁコライユ……今日も貴方を愛させて……」
悦に入ったフルールの声。シーツの上を這う、わずかな絹ずれの音。そして、
鞭が力強く肉を打つ、鈍い音。
「あッ……!」
乗馬用の鞭は先端が固く、力強く振り回せば人の肌に容易に赤い痣を残す。初めこそ裂けない程度の加減ではあるが、それも夜が長く続けばその限りではない。
「っ……、っ!」
短く息を吐きながら、フルールのふるう鞭に力が入る。
コライユは下着を一枚穿いただけの姿で、両手を上に縛られ、膝を床についた状態で無防備に背中を晒している。すでに何度も打たれた白い肌には痣と蚯蚓腫れが何本も走っていた。
何度も、何度も。赤い線を塗り重ねるように、白い箇所を塗りつぶすように。鞭をしならせ、傷を描いていく。
「どうかしら、どうかし、らっ!」
「あッ、、」
一際強く振りぬかれた鞭が当たった場所が強く熱を持つ。恐らく、皮膚が裂けてしまったことをコライユも感覚的に捉えた。もう、何度となく経験している痛み。暖かい液体が背中を滴るのを感じる。一筋流れた血が腰まで降り、下着をジワリと染めていく。
フルールは長い息を吐き、それに次第に悦が混じる。笑い声に近い吐息を刻んだ後、鞭を持たない方の手でコライユの背を撫でた。
慈しむような柔らかい愛撫。しかし、破れた皮膚の下を直接撫でられるたびに強い痛みが走る。
コライユの口から、声にならない息が漏れる。
「貴方も大概歪んでるわよね……本性を知っても……私のことを愛するなんて」
本性、とフルールは言う。あどけなさが残る顔が浮かべる笑みは恍惚からくるものだ。
コライユがアロガン家に仕えるようになってから十年。フルールの専属メイドだった人物は何人もいた。
そしてその誰もが、原因不明の失踪を遂げている。
それは、エスカレートの結果ではない。フルールは、壊すまでやめられないのだ。
フルールには、好きなものを歪んだ形で愛し続ける性癖があった。気に入ったものであれば側に置き、そしてそれが壊れていく様を見るのが、フルールにとっての愛の形なのだ。自分専属のメイドであれば、打ち、刻み、殴り、そうして壊さずにはいられない。
この衝動をフルールの両親は勿論知っている。治められるものではないと判ってからは、専属のメイドに充てられる人間は皆奴隷として売られている人間たちだった。
コライユが「夜伽」に加わり始めたのはつい最近だ。薄々と気づいていたそれを実際に目の当たりにし、自身で受けた時にコライユが感じたのは恐怖ではなかった。
身を捩る。固定された両腕がぎちりと音を立てた。
「私は、全てあなた様のものです……好きなだけ、傷つけてください」
コライユの声を聞いて、薄闇の中で赤い瞳が快楽に歪む。口元からわずかに覗いた舌が動き、背を流れる血を拭い取った。押し付けるような動きで傷をなぞり、新しい痛みを生み出す。
痛みよりも強い熱。身体の中が燃え上がるように熱い。昔、暗がりの中で初めて会った時に得た感覚、それが強くなって押し寄せた。腰が反射的に跳ねる。纏った下着に、血ではない液体が染みていく。下着から溢れたそれは太腿を伝い、絨毯を湿らせていく。
確信だった。コライユは、フルールのこの衝動を知ってから、そしてその身で受けてから、初めて会った時に感じたものより強い愛を、フルールに向けていた。
そして、それを自覚してからは、もう疼きは止まらなかった。
「あら。濡らしてるの?」
フルールは笑みを強くする。鼻から抜ける息が荒くなり、夜伽がまだ続くことを知らせる。鞭の先に張り付いていた皮膚を指で弾き、握り直す。上半身をねじるようにして構えてから、スッと息を吐いて呟き、
「構わないわ。存分に――」
振り下ろした。
「愛しなさい」
月明かりが届かぬよう閉め切られた部屋の中に、肉を打つ音が響いた。
◆
「縁談、ですか」
「ええ」
ある日の昼下がり、ドレスを着替えている最中にふとフルールが告げた単語に、コライユは内心で激しく動揺した。
ガウンペチコートを持ったまま、フルールの声はいたって平坦であった。貴族の娘ともあれば縁談を持つのは当たり前の話、二十という年齢は寧ろ遅い方ですらある。
「アヴァール家の次男。顔はまぁ、まだ会ったことは無いんだけれど、そこそこの美男子だって話。あと、悪い人ではないっていう当たり障りのない話だけは聞いているわ」
「受けられるのですか」
コライユは、ピンを握ったまま反射的に尋ねていた。こちらを見ないまま、それだけで焦りを見抜いたフルールが、呆れるように息を吐く。
「私だって貴族の娘ですもの。生まれたからには、家のために嫁ぎもするわ。家柄も、この上ない相手だしね」
何でもないように語るフルールに対して、コライユの中に黒い感情がふつふつと浮かんでくる。
嫌だ。嫌だ。嫌だ。
同じ言葉がぐるぐると頭の中を巡る。それでも、ペチコートの紐を結ぶ手元は器用に動いた。
「どう、なさるのですか」
広く、どうとでも捉えられるような問いだった。同じ質問を繰り返したのではない。夜伽の話だ。フルールの行為はアロガン家の中だからこそ行えているようなものだ。表立って話せるようなことではないし、ましてや嫁いだ先でなど行えるはずもない。そこまで話を進めた上での縁談、という可能性があるとも思えなかった。
10年前からずっと、この関係が終わることなど考えもしなかった。当たり前ではありえない関係性を結んでいたと思っていたのに、そんな「当たり前」な理由で終わりになるようなことが有るだろうか。
「以前言ったかもしれないけれど、」
両手を広げて、ガウンを羽織る。スタマッカーにピンで止めていくコライユに、フルールは訥々と投げかけていく。
「あなたが私を愛するのは構わない。けど、私があなたに抱いているのは、ペットやおもちゃに抱くような感情なのよ」
スカート部分のリボンを結び終え、デイキャップを手に振り返ったコライユにフルールはまっすぐと向き合う。
「それは今も、そしてこれからも、変わらない」
努めて平静に発した言葉。関係性を結んでいるからこそ嘘偽りなく伝える絶望。一方的で、与えることしかできない愛情の形。
「私は、そういう人間なの」
コライユは、正面から視線を受け止める。フルールの赤い瞳は何の感情も映していなかった。
瞳孔に反射したコライユの瞳だけが、人間らしい感情を湛えていた。
それでも、心の中に熱くなるものを感じるコライユはふい、と目をそらし、
「たとえそうだとしても……そんな貴女を、私は愛おしいと思ってしまいます……」
呟いた。
それは、コライユがフルールに向けてきた感情の中で最も強いものだった。何が有っても、そばに居たい。どんなことが有っても、隣にいるのは自分以外の誰かであって欲しくない。
「そう……」
その言葉を受けてフルールの瞳に光が戻る。続く言葉は、いつものフルール・アロガンのそれ。
「じゃあ、あなたにも一緒に来てもらおうと思うのだけれど、構わないわよね?」
笑みには力があった。魔性を宿した赤い瞳は、肯定の返事以外を求めていなかった。
背中の傷が熱を持つ。フルールの所有物であるというその証が、感情とは関係なくコライユの口を突き動かした。
「わかりました。それと、」
「?」
笑顔を浮かべた。精一杯のその表情だったが、それが偽りであることをコライユ自身強く感じていた。
内心で渦巻いていたのは、強い嫌悪。自分以外の誰かが、ましてや男が、フルールに触れるということが我慢ならなかった。
かつて、フルールの本性を知らされた直後、自分以外のメイドがその寵愛を受けていたと知った時に感じた強い嫉妬を思い出す。
今でこそ、つけられた数多の傷が「フルールの所有物である」という証明だった。いつか壊されると解っていても、フルールの唯一であることがコライユにとっての幸福だった。
これから先、フルールから傷を受けたとして、それで壊されたとしても、”フルールが”誰かのものになってしまっている。
嫌だ。嫌だ。嫌だ。
そんな感情を、潰して、潰して、潰して、
「おめでとうございます」
絞り出した、祝いの言葉だった。
「ありがとう」
無邪気に聞こえるフルールの返事が、内心を知らずのものだったのか、見抜いていて敢えてのものだったのか、コライユには判らなかった。
◆
火が灯っている。
光源としてだけではなく、熱としても役割を持ったそれに、銀色に輝く刃物が照らされる。
ベッドが軋み、吐息が漏れた。
今日は手足の拘束が無い。普段フルールが使っているベッドに下着だけの姿で仰向けに横たわっているコライユの側で、フルールがゆっくりと短刀を振るう。
炙られた刃先が肌に触れ、長く細い一筋を作る。線に沿って、プツ、プツと丸い血の雫が生まれた。
痛みは薄く、長く広がる。
背中の傷とは違う、自らの視界に入る傷。
「ッ、」
自然と腹筋に力が入る。
「ひとまず、ね」
フルールも、今日はいつも以上に高ぶっている。刃物を持ち出しての夜伽は、コライユにとっては初めてだった。今まで与えられていた鈍い痛みとはまた別の種類。一つ間違えれば、というのが目に見えているだけあって感情の高まりは今までの比ではなかった。
一筋だった線が二筋に増え、直行し、皮膚を捲る。少しずつ深くなっていき、肉を刻み始めた頃には滴った血でフルールの手首まで濡れていた。
息が荒い。コライユの下着はいつも以上にしとどに濡れていて、フルールの薄い寝間着もぴったりと肌に張り付いている。
フルール・アロガンとしての最後の夜。刃物を持ち出す提案をされたとき、コライユは「ついに」と想像を膨らませた。すぐに、先日の提案を思い出して息をついたが、それが安堵だったのか落胆だったのか今は考える余裕もない。
「もう、暑いわね」
フルールが短刀を脇に置き、両の腕を交差させて寝間着を脱ぐ。汗を吸い込んだ綿は湿った音を立てて床に投げ捨てられ、フルールの裸身が露になる。コライユたち使用人の身体より筋肉が少ないせいか、両腕はすらりといやに長く伸びて見える。露になった肩には玉の汗が浮いていて、そこから鎖骨のくぼみまで影が落ちているのが印象的だ。少し視線を落とした先にある双丘は大きくその柔らかさを主張するように弾んだ。コルセットで強制された美しい腰のライン。胸元からへそにかけては脂肪の付きも少なく、燭台に照らされてなお白く見える玉のような肌が広がっている。
コライユのものとは違う。その玉体に、傷など有ろうはずもない。
視界に入れただけで膝が笑い、腰が跳ねる。内腿を体液が伝い、目から涙があふれる。食いしばりすぎて、奥歯が割れる音が脳に響いた。
嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。
コライユは、その裸身を何度となく目にしてきた。
それでも、この身体が今日をもって失われるという事実は、コライユの理性を砕くのに十分な威力を持っていた。
コライユにも、フルールにも、声をあげる暇など無かった。
縁談の話を聞いてから、今日の夜伽の間まで、何度も頭をよぎった考えではある。
だが、コライユは短刀を拾い上げた記憶も、フルールの胸の中央に突き立てた記憶も無いまま、気付いたときには、血の海に座り込んでいた。
ベッドの上に押し倒す格好だ。馬乗りになったコライユの腕の下には、フルール・アロガンであったものが横たわっている。
記憶の最後から、どれだけの時間が経ったのか。胸部からの出血は既に止まっている。
血が一滴も付着していないフルールの顔が、安らかな表情をしているのはコライユにも不思議だったが、眺めていると胸の奥に仄かに熱を取り戻す気がした。
両手が短刀から離れる。ぬめり気を孕んだ血液がコライユの指先から腕までを覆っている。
ふと、思い出したかのようにフルールの首元に触れる。
フルールに感じていた熱は、もうどこにもなかった。
(あ、――)
その指先を引き金に「自らが失わせた」という事実を認識した瞬間、膨大な熱が体内に生まれた。
強烈な快楽とともに、声にならない叫びが体の中を駆け回る。
自分の意識とは別に口が開く。コライユは、何かを吐き出す前に咄嗟に口を覆った。飛び出してきたのは音の震えではなく、胃の内容物であった。
「――――、――」
嗚咽とともに吐き出しきるのに、数分。空になったえずきを上げること、さらに数分。ようやく上半身が意志通りに動き、吐しゃ物に塗れた床から顔を上げることが出来た。
「あ、あ、ぅあ」
言葉にならない音が口から洩れる。
床についた四肢が、熱に突き動かされる。着るものも着ないまま、窓をあけ放った。
(わた、私は――)
◆
「フルール様、湯あみの用意が出来てございます」
扉の開く音。
部屋に踏み込んだメイドが目にしたのは、開け放たれた窓と、ベッドを染めるおびただしい量の血。
吹きこんでくる明け方の涼やかな風に、狂気の熱は残っていなかった。
フルール・アロガン 白瀬直 @etna0624
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