第6章   高尾山 〜 1  8月24日(3)

 1  8月24日(3)




「まったく、喜んでた俺が浅はかだったよ。頼むからさ、後ろであんまり動かないでくれよ! ストンて落としちゃったら、直美のお母さんに大目玉食らっちゃうよ!」

 もちろん本当は怒っちゃいない。さりとて悲しんでいるわけでもまったくなかった。そんなことを言いながらも終始笑顔だったし、そして心密かに、胸の膨らみを背中でしっかり意識していた。

 ケーブルカーから降りて二十分もした頃だ。直美がポツリと呟いたのだ。

「こうちゃんゴメン……わたし、想像以上に体力なかった……」

 その時から、幸一は直美を背負って一号路を歩き続ける。直美の顔からは血の気が引いて、疲労している様子がはっきりわかった。それでも彼女は笑顔を崩さず、声を掛けてくるハイカーたちと楽しそうに話すのだ。

「お嬢ちゃん、楽チンでいいねえ」

 最初、いきなりそう言ってきたのは、七十歳は優に越えていそうな老人だ。

「足でも、挫いたのかい?」

 それでも登っているのかと、きっと聞きたかったに違いない。

「いえ、違うんです……」

 そう答えていっとき、直美もその続きに多少のためらいがあったようだ。ところがすぐに笑顔を見せて、明るい声を返すのだった。

「わたし、昔っから心臓が弱くて……」

 それは驚くくらいに正直で、あまりにあからさまな返事だった。

心臓に疾患が見つかってから、これまでどんな生活を送ってきたか、そして幸一と知り合えて、やっと念願であった高尾山に今いるんだと、彼女は原稿を読むように、すらすらと話し聞かせていったのだ。

「でも、結局ぜんぜん歩けなくて、とうとうこんなことになっちゃってるんです。だからわたしの彼氏は、いつもこんな目に遭ってばかり……」だけど、これがわたしの夢だったから――と、彼女はそこだけ、まるで独り言のようにポツリと言った。そしてそんな話の続きによって、なぜ高尾山なのかも知ることができた。

 彼女が小学校三年生の時、高尾山への遠足があった。そこで初めて、直美は発作を起こしていたのだ。幸いすぐに治まったが、もちろん頂上へ向かうことを許されない。

 自分一人だけ――当然担任が付き添ってはいたが――下山するという悲しみを、ずっと心に刻み込んでいたのだろう。さらにそれからは、きっと似たようなことばかりが続いていたはずなのだ。そんな直美の話に、老人はただただ静かに聞き入っていた。たった数分間の話だが、その間幸一の歩みに合わせて歩き、ずっと直美の声に集中している。

 そうして大方、こうしている理由を話し終わると、老人は大きく息を吐き、さも感慨深げに言ってくる。

「そうかい、それは大変だったね。でも、良かったねえ、こんなにいい男で、優しい彼氏に巡り合うことができて……」

 そんな声は直美ではなく、幸一を見つめながらのものだった。そして突然、老人の妻であろう婦人までが彼に声を掛けてくる。

「彼氏さん、わたしにね、あなたのリュックを持たせてもらえるかしら?」

 小走りで幸一の前に立ちふさがって、満面の笑みを見せるのだ。

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