第5章 1994年 〜 3(2)

 3(2)




「あの、もしかしたら、なんですけど……」

 目前の死を意識しているなら、たった一つだけ思い当たる場所がある。

 しかしこんな時間に向かうところじゃないし、きっと無駄足になってしまう ――そんな葛藤を抱きつつ、幸一は自信なさげに声にしたのだ。

 しかし稔は身を乗り出して、

「いいんだ、それはここから近いかい?」

「いえ、でも、本当に違うかも知れないから……」

 はっきり場所を告げようとしない幸一に、さらに迷いのない言葉を口にする。

「今からそこに行ってみよう! 幸一くん、悪いけど案内してもらえるかな? その、思い付いた場所とやらに、今から行ってもらえないか?」

 そうして順子を病室に残し、幸一と一緒にタクシーに乗り込む。

 車中でやっと行先を聞いて、稔はかなり驚いた顔を見せた。

 しかしすぐに真顔になって、静かではあるが、強みを含んだ感じで幸一へ告げる。

「とにかく行ってみよう。君がそう思うのには、それなりに理由があるんだろう? なら行ってみる価値はきっとある。わたしらの方には、何もないんだ。あの娘が行きたいと思う場所を……そんなことを、まるで知らないままだった、これまでずっと……」

 途切れた言葉のその先は、目的地に着いても語られることはなかった。

 それから重苦しい沈黙が続き、タクシーは一時間掛からずに目的地へ到着する。

 そこは、微かに漏れ届く光はあれど、目が慣れぬ二人にとっては真っ暗と思える暗がりだ。大人でも恐怖を意識するこの場所に、十四歳の少女が足を踏み入れるのか? さらにこの先には、灯から離れれば漆黒の闇が待ち受けている。

「君はここに……直美がいると、思うんだよね?」

 稔の言葉には、問い詰める響きなど一切なかった。純粋に、反芻しているという感じだが、幸一はそうだ……とも言い返せない。直美から一度だけ、以前聞いたことがあったのだ。もし、この病気が治ったら、真っ先にしてみたいことがあるんだと……、

「わたし一度、高尾山に登ってみたいんだ。こんなのが望みだなんて、普通の人が聞いたら、絶対に笑うよね?」

 そう言って、直美は明るい笑顔を見せていた。その時彼女が、どうしてそんなことを言い出したのかはわからない。なぜ高尾山に登りたいのか? 幸一はそれさえ聞いていなかった。けれど一般的には普通のこと、ハイキングなどというありふれたことでも、きっと彼女には切なる願いとなり得るのだろう。

 だからと言って、本当にこんなところにいるのだろうか? 深夜と呼ぶには早過ぎる、しかし宵の口はとうに過ぎ去った頃、とにかく二人は高尾山清滝駅前に立っていた。

 そこは高尾山口からほど近い、エコーリフトとケーブルカー乗場となっている駅だ。しかし当然、こんな時間には動いているはずもなく、だから幸一は無言のまま、駅方面ではない右方向へ歩き始めた。そして稔も、やはり何も言わずにその後ろを付いていく。

 高尾山山頂へは、いくつものハイキングコースが整備されていた。

 それでもこの暗がりの中、駅より先にある尾根を進む険しい道や、川沿いを行くコースを選ぶとは思えない。下調べなどしていないだろうから、直美が選ぶ道は一号路くらいしかないはずだ。薬王院に続く参道であり、そこだけが広場からも薄ぼんやりと見渡せる。

 しかし月明かりが届かない中、なんとか見通せる路面だけが頼りなのだ。

 ――やっぱり、違ったか! 

 一号路を十分ほど登ったところで、幸一はそんな思いに立ち止まる。こんなにキツイ急坂を彼女が登るはずがない。だから続いて、「やっぱり引き返しましょう」と声にしようと振り返る。もしもここじゃなければ、後は警察に任せることになっていた。

 だからここで時間を無駄にするより、もっと他を探すべきだ……と、強く思って、彼が稔へ伝えようとした時だった。

「……」 

 微かに、何かを感じたのだ。風の音なのか、はたまた霊的な何かであるか……?

 とにかく何か聞こえた気がして、幸一はそのまま神経を耳元に集中させた。ところがなんにも聞こえない。彼は稔に向かって「聞こえないか」とジェスチャーをするが、稔は首を傾げるだけなのだ。

 勘違いか……。そしてそう思った途端だった。そんな思念を打ち消すように、それは再び聞こえ届いた。今度こそ、勘違いなどでは絶対ない。

 ――どこだ! どこだ! どこだ!

 次の瞬間、幸一は張り裂けんばかりの大声を上げた。

「直美! どこだ! どこにいる!?」

 けれど声は反響ないまま、漆黒の彼方へ消え去ってしまう。

 ――どこだ! もう一回、もう一回言ってくれ!

 そう心だけで叫びながら、息を止めたまましゃがみ込んだ。

 すると前方の暗闇の中、薄っすらと白っぽいものが浮かんで見えた。

 ――直美?

 そんな思念に応えるように、

「こう……ちゃん」

 それは単なる吐息のようで、それでもしっかり彼の名前を呼んでいた。

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