第3章 矢野直美 〜 3 

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 1967年、世界で初めて心臓移植が行われてから、二十五年もの月日が経過していた。

 しかしこの頃の日本とは、臓器移植法が制定される五年も前。ドナーや費用の問題どころか、手術をどこの国で行うか、から考え始めなければならなかった。

そしてその次の大問題は、やはり費用のこととなる。

「残念ながら、〝ここ〟も金次第ということです。一刻を争うのであれば、支払う金額が多ければ多いほどいいんだそうで……」

 ここ――すなわちそれは、適合するドナーが充てがわれる順番のことだ。

 医師として、決して本意でないと言いながら、担当医はこれが現実だとも声にした。

 ただし借金してそれなりの費用を捻出したからといって、すぐに手術が受けられるという保証もない。さらに現地で待つか、それとも日本で待機しているかなど、決めなければならないことがまだまだたくさんあったのだ。ところがそんな状況を知らないまま、直美は直美で次第に迷いを感じ始める。

 再入院してちょうど十日目、直美が久子へポツリと言った。

「久子さんって婦長なんでしょ?」

「そうよ、どうして?」

「じゃあね、苦しまないで死ねる薬とか、きっと知ってるんだよね?」

「なに、馬鹿なこと言ってるの?」

 思わず声が大きくなった。

 ――その薬を、いったいどうしようって言うのよ!?  

 続いて浮かんだその台詞を、久子はなんとか声にしないで飲み込んだ。

「あなたまさか、誰かを殺したいって思ってるの? それだけはやめてよね! あなたが牢屋に入ったら、あんなに優しいご両親が悲しんじゃうわ! もちろん、わたしだって悲しんじゃうわよ! 」

 驚きを押し殺し、懸命に戯けた調子で返すのだ。

 ところがそんな戯けに乗ることもなく、直美はおんなじ口調で続けて言った。

「だって、お家を売っちゃうって言うんだよ。わたしのために、引っ越しまでして買ったのに、また売らなくちゃいけないなんて……手術したからって、助かるかもわからないのに……だから、そうする前に死んじゃえば、家を売る必要もなくなるし、それに……」

 それに……に続く言葉はなんだったのか? ずいぶん後から、久子はそんなことを思ったと思う。ただこの時は、「なに、馬鹿なことを言ってるの!」なんて感情が浮かび上がって、久子は頭でただただ必死に違う台詞を探していた。

 たった十数年しか生きていない少女が、己の死というものを意識している。そして彼女はたった今、さらにその死を引き寄せたいと口にした。

 ――あなたはこれまで、ずっと苦しんできたんだものね。

 そんな事実をイヤというほど感じながら、久子は黙って直美の身体を抱き締めたのだ。

 それから二ヶ月、いよいよ冬本番となり、街ゆく人はみな肩をいからせ寒そうだった。

 しかし病室にいて、そんな光景を目にすることはまずありえない。窓を開け、真冬の風を感じなければ、凍てつく空気さえ知らないままだ。

 直美も同様、季節をまるで意識せぬまま、ベッドから、病院の裏庭を眺める日々が続いていた。そうして一日が終わるのを待ち、またその翌日もおんなじ朝をただ迎える。

 そんなある日のことだった。いつもの景色の中に、直美は見慣れぬものを発見する。

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