第3章 矢野直美 〜 2(2)

 2(2)

 


 始まりは、まさに昨夜のことだった。

 月曜日に休んだ分を取り返そうと、稔は四時間もの残業をこなし帰途に就いた。ちょうどドアに鍵を差し込んだ途端、家の中から電話の着信音が聞こえてくる。慌てて家に駆け上がった彼は、それから二十分も経たないうちに車を群馬に走らせていた。

「直美の検査結果を、先生が電話してくれてな……」

 急いだ方がいいだろうと、担当医がその夜何度も電話してくれたのだ。

「このままでは死んでしまう。それなら、少しでも可能性がある限り、賭けてみた方がいいと思うんだ」

そんな父親の声を、直美はまさに部屋の隣で聞いていた。

そこは一階にある大広間で、直美はすぐに両親の声に気が付いた。声のする部屋の襖に耳を当てる。耳を澄ませ聞いていると、いきなり稔が言い出したのだ。

 ――このままでは死んでしまう……  

 そんな父の声に、直美は部屋に入れなくなった。

 ――わたしは……このままでは死んでしまうの? 

 きっと一生治らない。そんな可能性についてはこれまでだって考えた。

 それでもまさか、死んでしまうなんてこと、心の片隅にさえなかったことだ。

「もし失敗したら、そこで終わっちゃうのよ! 直美と……二度と逢えなくなっちゃうんだから、そんなことできるわけないじゃない! お父さんもお母さんもなんとか言ってよ! 黙ってないで……お願いだから……」

 そんな順子の声にも、祖父母は一切口を挟もうとはしなかった。

 二人は目に涙を溜めまま、娘の訴えにも口を真一文字に結んだままだ。

「それじゃあ、このまま何もしなければいいのか? そんなことしたら、直美はいずれどうなるか、ちゃんと考えた上で言ってるのか? どうなんだ? ちゃんと考えたのか?」

 やめて! ――心で叫んだつもりだった。

「やめて……」同時にそんな母の言葉も、父に向けての声となる。しかし実際、母順子の悶えのような声を消し去り、直美の叫びが辺り一面響き渡った。

「おまえ……ここで何してるんだ?」

 目の前が一気に明るくなって、開かれた襖の間から稔が慌てて顔を出した。

 ――このままなら死んじゃうって……それって、どのくらい? 

 ――それは、はっきりと先生も言わなかった。 

 ――一年? それとも、十年くらい? 

 ――一年は、きっと大丈夫だろう……しかし、このまま何もしなければ……、 

 ――このまま……何も……? 

 ――そうだ、手術をしなければ、十年は難しいかも、知れない……。 

 ――その手術を受ければ、本当に治るの? ちゃんと治る可能性って、どのくらい? 

 その辺のことは、稔だってとうに聞いているはずなのだ。なのにしばらく沈黙し、

 ――明日の朝、ちゃんと先生に聞いておくから……、 

 だから今夜はもう眠りなさいと、蒼ざめている直美を寝室へと誘った。

 それから直美は一睡もせずに、天井を見つめながら考えた。あまりに少ない情報だったが、今後の行方を必死になって想像する。もしかしたら、手術で死んでしまうこともあるのだろう。母順子の苦しみの声は、まさにそう言って拒絶の意思を告げていた。

 そして次の日、直美は車椅子に座ったまま、両親、祖父母に導き出した答えを伝えるのだ。すでに涙目になっている両親に向け、何もしないままでの数年より、手術を受けて長生きがしたいと声にする。

「大人になって、いろんなことをしてみたい。だからお母さん、わたし病気が治ったら、中学校からやり直したいの。それで、できれば大学に行って、小学校の先生に、なりたいなって、思ってる。だからお父さん、これまでいっぱい、お金使わせちゃったけど……これからも、きっと……使わせちゃうことになると、思うけど……」

 そこで直美は、思わず声を詰まらせた。

 最初から、涙ぐんではいたのだった。

 それでもなんとか、微かな笑みを湛えていたのに、

「わたし……がんばるから……」

 そんな振り絞る声の後、彼女の我慢は限界を超えた。

 直美の顔はクシャクシャに崩れ、震える唇からくぐもった嗚咽が伝わり響いた。

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