第2章 埋れていた記憶 〜 4
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「会社、休むの? 」
「場合によってはね……でも一応、午後からは出るって言ってあるんだけど」
――明後日ならば、家にわたし一人ですから……。
「もし、何も覚えていなければ、あっという間に終わっちゃうしね」
――だから、いついらして頂いても、わたしの方は構いませんよ。
「でもまあ、よくすんなり受け入れてくれたよな。たったあれだけの説明でさ……」
――二十五年前に入院していた女の子のことで、お話をお伺いしたいのですが……。
「きっとこういう電話、初めてじゃないんじゃないかな? だって、わたしが話したらすぐだったもの。いいですよって、あの人、なんの疑いもない感じで……」
――わたしでお役に立てるかどうかは、わかりませんけど……。
そう言って返す村上久子に、すぐにでも会って欲しいと美津子は頼み込んだのだ。
病院から帰宅してすぐに、手に入れた番号へ電話を入れた。するとすぐに本人が出て、あっという間に話はまとまる。
村上久子七十五歳。国立病院の婦長、総婦長を長年に亘って勤め上げ、2002年に小児医療専門となるのを期に引退。ちょうど同じ頃、やはり医者であった夫を亡くし、現在は長男夫婦と同居している。家は小田急線沿線の高級住宅地にあり、明治時代から住んでいるというから、きっと由緒ただしき家柄だろう。そんな印象を感じさせる佇まいが、今、美津子の目の前にも広がっていた。
「それではお言葉に甘えて、月曜日の十時頃、そちらにお邪魔させていただきます」
そんな言葉通りに、美津子は十時ぴったりに村上邸を訪ねた。
門を抜け、コンクリートでできた緩やかなスロープを下っていくと、様々な植物に囲まれた大きな屋敷が現れる。美津子が玄関扉に近付くと、どこかにセンサーでも設置されているのか、いきなり扉が開かれ、笑顔の久子が顔を見せた。
「時間、ぴったりね」
「向井美津子と申します。この度は本当に……」
恐縮する美津子に向かって、終始笑顔の村上久子は「いいのいいの」と手を振った。そしてあまりに広い玄関の中へ、やはり手を振りながら美津子のことを招き入れる。
「孫は勤めと学校ですし、嫁も去年から働き始めて、家には私しかいませんのよ」
そう言って久子はソファに座り、美津子へいれたての紅茶を勧めてくれる。
「二十五年前のことだって、一昨日おっしゃっていたわよね……確か……」
ひと口紅茶をすすると、待ち構えていたように久子がそう聞いてくる。それから美津子は一語一句考えながら、できるだけ分かってもらえるように話していった。
「……というわけで、どんな些細なことでもいいんです。彼女が今、どこにいるかがどうしても知りたくて、何か、ご存知のことがあれば、ぜひお教えください」
大凡を話し終えた美津子の前で、久子は考え込むような素振りを見せた。そうしてなぜか大きな溜め息を吐きながら、まるで独り言のようにポツリと呟く。
「そう、入院するって、誰も知らないままだったの……」
美津子はその時、直美との間にあったことには一切触れていなかった。だから当然、美津子だけが知らされた入院については、誰も知らなかったということになる……。
「でも、どうして誰にも言わなかったのかしら……? 」
そう言ったきり、久子はしばらく押し黙ってしまうのだ。それまで彼女は、美津子の話に一切リアクションを見せていない。矢野直美を覚えているのか? そんな疑問へのヒントさえ見せず、ただただ美津子の話に相槌を打ち、時折独り言のような呟きを発する。
矢野直美は、誰にも告げることなく入院していた。そんなことだけが久子はいやに気になるようで、そしてとにかくこの沈黙は、きっと何か意味がある。
――この人は、彼女を知っている。
そんな確信が芽生え始めた時だった。急に久子が立ち上がり、
「ちょっとお待ちいただける? 少しだけ、お待たせしちゃうかも知れないけど」
申し訳なさそうにそう告げて、リビングから一人出ていってしまった。そうして十分ほど経った頃、彼女は何かを抱えて戻ってくる。
「これはね、わたしが小児病棟にいた頃の、アルバムなのよ」
その一冊を大事そうにテーブルに置いて、見やすいよう向きを美津子の方へ向けてくれた。そうして彼女は反対側から覗き込んで、
「確か……あったと思うわ」
一頁一頁、何かを探してめくっていく。そしてそんな動作が一分くらい続いた頃だ。
――矢野さん!
思わずその姿が目に飛び込んだ。昨晩、何度も目にした彼女と変わらずに、しっかり笑顔で写っている。そしてその次の瞬間、美津子はその写真に微かな違和感を覚えるのだ。ところがそんな理由を知る前に、予想もしていなかった衝撃が一気に押し寄せる。
直美の姿を見つけた時、久子の視線はまだ別の写真に向いていた。やがて美津子の吐息の異変に気が付き、ようやく同じ写真に目を向ける。
「懐かしいわ……直美ちゃん、そう、矢野、直美ちゃんだわ」
そんな言葉は、美津子の揺れる瞳を見つめてのものだ。写真の中で直美は笑い、かわいらしいパジャマのまま、足を投げ出しベッドにチョコンと腰掛けていた。
「直美ちゃんに初めて会ったのはね、確か彼女が、小学校の三年生の頃だと思うわ……」
開業医の紹介状を手にした両親に連れられ、彼女は当時の国立病院へやって来た。
心臓に、先天性の異常をいくつも抱え、放っておけば十年と生きられない。両親はさんざん悩み抜いた挙句、一番厳しい状態にある箇所への手術を決心する。それは直美が四年生になった頃で、十二時間に亘る大手術は無事成功。そして彼女の入院中に、両親は病院の近所へ引っ越したのだ。それから三ヶ月にも及ぶ入院とリハビリを経て、直美はやっと砧中央小学校へ転入する。
「それからもね、運動は絶対に禁止。本人も理解していたはずだけど、やっぱり、あの年頃では辛いわよね」
――心臓が、悪かったなんて……。
「でもね、最初は順調だったのよ……それからの、二年とちょっとの間はね」
――あなたはわたしたちに何一つ、伝えてくれていなかった……。
「それがね、ある日救急車で担ぎこまれたの。学校でもね、ずっと辛いのを我慢していたらしいわ。家に帰ってしばらくして、お母さんが部屋の様子を見てみたら、その時には、もう意識がなかったって……」
――学校で我慢してた? それっていったい、いつのことなの?
そんな疑問を思うとともに、身体がフワフワ浮き上がった。さらに久子の声もさっきより、いくぶん遠くから聞こえるようで……。
「だからね、普通に生活できたのは、たった二年だけなのよ。五月に手術して、翌々年の五月末には、まだ別の場所が悪化しちゃてね、辛い思いしてせっかく手術したのに、結局元の状態に戻っちゃったわ……」
二年後の五月末……それって、六年生の時のこと……!? そう思った瞬間だった。不思議なほど唐突に、脳裏にしっかり過去の記憶が浮かび上がった。
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