第7話 イズミと母
如月イズミ、これは本来の戸籍上の名前とは異なる
今は配信の時以外に外出する事なんかないから、自分の苗字が何だろうがどうでもいい
母もそんな生き方を肯定してくれているのだから
暗い部屋の隅で小さくなり、毎日自分の罪を悔い続けるだけの人生から救ってくれた、兄さんと同じ名前で生きたいと思った。
出来る事なら
──これから先の人生もこの名前で
「おはよーございまーす!」
今日も一日朝の配信から始まる。元気よく声を発する如月大我の隣で手を振るイズミ、いつもの光景で目を覚ます視聴者たちのコメントで配信は賑わっていた。しかし今日は夕方からの配信が無い事を視聴者に告げられた。
38度の熱を出しても六時間配信するようなこのチャンネルで配信休みの日というのは珍しく、一体何事なのかと視聴者はざわつく
どうやら今日はイズミの母が誕生日で、一人で過ごすのは寂しいから二人に祝って欲しいと連絡が来たそうな。
イズミの父、遺伝子上では大我の父でもある旦那が亡くなってからは、女手一つでイズミをここまで育てた人なのだから、大我が血の繋がっていない義理の母すらも大切にするのは当然の事とも言えた。
それに対してイズミは別に祝う必要なんかない。放っておけばいいとまで言っている
家族仲が悪い訳ではないが、イズミの母を見ればその理由は分からないでもないが…
「大我ちゃ~ん! イズミぃ~! うわぁーーーん;; ありがとぉぉぉぉ;;」
家の玄関を開けると酒臭い身体を投げ出しながら大我の胸に飛び込んでくる女性、これがイズミの母である。それを引き剝がそうと髪を掴み引っ張っているのがまさか実の娘とは誰も思わないだろう
娘のイズミは170㎝を超える長身に映える黒く長い髪、キリリと鋭い鋭利な目つきが美しい。
そんな娘とは対照的に、150㎝ほどしかない身長にセミロングくらいの茶髪、目は常に垂れ下がって柔和な表情が見て取れる。しかも成人した子供が要るとはとても思えないほど若々しく可愛らしい容姿をしている。イズミとは正反対だ
…ただし胸の大きさだけは遺伝だと一目でわかる
「ごめんねぇ…あの人が死んじゃってから一人がなんだか寂しくて…うぅ…」
そうは言っても去年までイズミと一緒に住んでいただろうに…まぁそれまで二十年間暮らしていた娘がいなくなれば、一人ぼっちの部屋が寂しく感じるのも仕方は無いか
などと考える大我とは違い、顔にまで手をかけてようやっと母を引き剥がす事に成功したイズミの眉間には皴が深く刻まれている。イズミの力にあそこまで耐えられる母親も大したものだと大我は感心した。
今日はせっかく配信まで休んだのだからどこか外食でも…とならないのは大我の料理を作る腕が下手な飲食店よりも優秀だからだろう。こういう時に高いお金を払って雰囲気を味わうのも悪くはないが、イズミの母もすっかりデキあがってしまっている様なので、他所様に迷惑を掛ける事無くゆっくりと自宅で過ごすのが吉だろう。
一人で住むにはだだっ広く、およそ掃除なんか行き届いていない部屋の中では空いた酒瓶や缶が無造作に転がっている。それを片付けながら大我は母に、近頃変わりはないかと尋ねる
年齢的に仕方のない事ではあるが、あんなにもスレンダーだった体に少しずつお肉がついてきたのだと嘆く母に、いつもイズミがやっているトレーニングを一緒にやってはどうか?と提案する。すると家族仲良く首を大きく横に振った。動かずして痩せたい母と、やる気もない母を動かす努力はしたくないという娘の間で意見は一致したようだ。
「どうせ既に酒を飲んでいるんだろう」と言ってケーキだとか特別なものを買ってこなかったイズミの判断は正解だったようだ。これだけ飲んでいては潰れて動けなくなるのも時間の問題だろう
明日の二日酔いは確実だろうから、予めしじみの味噌汁を作り置きしておく。
肝心の料理なのだが、皿の中に緑の色が見えると苦い顔をする母の為に、家からイズミ用の献立でつまみを見繕い持ってきた。イズミの野菜嫌いは母譲りなのだろうと容易に想像できる
ラインナップは豚の角煮に唐揚げ、牛タンや鶏皮、軟骨などの焼くだけ揚げるだけ簡単な食材も多く持ってきた。今日はイズミの母の家で出張居酒屋大我の開店だ──
食事用の小さなテーブルに隣同士で座る二人を眺め、血が繋がっているにも関わらず見た目は本当に似ていないものだと大我は思う。
自分とイズミが似ている事も考えると、やはり亡き父の遺伝子が色濃いのだろう。
二十一歳というイズミの年齢を鑑みるに、齢四十を超えているはずの母はよくもまぁ毎日こんなに酒を飲み、肉ばかりを食べて体を壊さないものだと感心する。
そんな母も久しぶりに会った娘の事が愛おしいのか、イズミの口元に料理を持っていっては頭をはたかれ拒まれている。本来の家族とはこういうものなのかと心が温まる思いだ。すると邪険にされた母は料理中のこちらを見て一緒にお酒を飲もうと誘ってくる
「大我ちゃ~ん! イズミが構ってくれなぁ~いぃ…こっち来てお酒一緒に飲もぉ…」
隣に座っているイズミから人殺しの様な眼光で睨まれた大我は、わざと台所から離れられないように揚げ物を始めた。本当に仲が悪い訳ではないのだが、イズミは大我の事になると目の色が変わる。
今回は鶏皮も焼きではなく揚げていく。片栗粉をまぶして揚げるだけでかなり美味しくなり、焼く時に面倒な何度も油を取り除く作業も省ける為、酒飲みは覚えておくといいだろう。
時間のかかる唐揚げの前にさっと揚げた鶏皮をテーブルまで運ぶと、母は酒を飲むペースが更に上がっているように見えた。それどころか家に到着した時よりも意識がしっかりしている様にも見える
「美味しいわぁ~、もう母さん大我ちゃんと再婚しちゃおうかしらぁ~♡」
未亡人ジョークだと分かってはいるのだが隣のイズミの顔を見ると、とても冗談とは思えず背中に冷や汗をかく…地獄の悪鬼にも劣らぬ表情の阿修羅と化したイズミに怯む事が無いのはさすが母親と言ったところか。それとも満更嘘でもなく再婚の事を考えているのだろうかと思うと大我は二重の意味でゾッとした…地獄の板挟みだ
姿勢よく座っているイズミに対してだらんと猫背で気だるげにしている母を見ると、まるでイズミの方が年長者にさえ見える。しかしサクサクと小気味よく口に鶏皮を運ぶ様はしっかりと親子のそれだった。こういう時こそ喧嘩しそうなものだが、イズミも食べ物よりは母の方が好きな様だ
唐揚げが出来上がった後に軟骨を揚げ始める。皮から肉、そして軟骨という順番で揚げているのは食材から油が出やすい順にしている。皮を揚げ始めた段階の油の量と見比べてみると今はその時よりも増えているのがよくわかる
こうする事で鶏から出た油で、高級な油を使う事なく本格的な唐揚げを楽しむ事が出来るのでお得だ。ただ肉から出た動物性の油という性質上、日を跨いでの使いまわしが出来ないので、その日の揚げ物の量と要相談だ
と言っても、こんな鶏のフルコースを食べる機会なんて鶏一羽を捌いた時くらいだろうから頭の片隅に留めておく程度で良いだろう。
こってりとした揚げ物を終えここからは焼き料理に入っていく。まずは熱々の揚げ物で酒を進ませ、レモンでさっぱりと食べられる牛タンでお腹もいっぱいにさせた所で、味が濃く腹に溜まり辛いもつ煮で酒を進ませ酔い潰す算段だ。これが如月大我流、酔い潰しの陣なり。
「大我ちゃ~ん、おつまみなくなっちゃったぁ~!」
イズミの存在を失念していた。せっかくのツマミ満漢全席だが、イズミも食べるならとても量は足りなかった。晩御飯も食べてきたのになんであんなに食べれるんだ…それとどれだけ飲むんだ母親は。まぁそれに関しては自分も人の事は言えないけれど
渋々コンビニに出来合いのつまみを買いに行く大我の背中に手を振る母は、ふとイズミの方に向き直るとニコニコと笑みを浮かべ頭を撫でた
「それにしても久しぶりにイズミが楽しそうな所が見れて良かったわぁ~、前に言ってた生放送っていうのも見てみたんだけど…ムス~っとした顔で座ってる所しか見れなかったんだもの~…」
「私はいいのよ、別にあれで。兄さんがやりたい事なんだから」
「本当に好きねぇ大我ちゃんの事、ちょっとお母さん嫉妬しちゃう~…」
それだけ言うとパタリと顔を伏せむにゃむにゃと寝息を立て始めた。
意識していないだけでやはり大我という存在が緊張感を保たせていたんだろう、慣れ親しんだイズミと二人きりになった瞬間、緊張の糸が解けアルコールによる睡魔に抗う事が出来なくなったんだろう
やれやれという様子で母を抱え、去年まで自分も寝ていた寝室まで運ぶと懐かしい匂いと景色に少し目眩がした。何も変わっていない部屋、変わった自分。
あの頃から変わらない母。いや、変わったのだろうか?
…変わったのだろう。昔は私を抱きかかえていた母を、今娘の私が抱えているのだから。
鍵の開く音がして、コンビニの袋のガサガサという音と共に大我が帰ってきた。そこに居たはずの二人が居ないのを見るに母は酔いつぶれてしまったのだろうと容易に想像がついた。
自分の買ってきたつまみの量を見て、買い置きとしても少し多かったかと苦笑する。
食器を片付け洗い物を済ませると、そういえば潰れた母を運んだイズミが居ない事に気が付いた。もしやと思い寝室の戸を開けると、そこには母の隣で横になりスースーと寝息を立てるイズミの姿があった。珍しい事もある物だと大我は苦笑すると二人に布団を掛け、ぐるりと部屋を見回す。
自分も見覚えのあるこの部屋は、イズミと初めて会ったあの時から変わっていない。
これはまだまだ起きる様子が無いなと思い、大我はリビングから酒と自分の買ってきたつまみを携え、当時イズミが座っていた部屋の隅の位置に向かう。
そこから見える景色はとても狭く、リビングから漏れる光がやけに鬱陶しく感じた。
イズミにはこの世界が、全てだったんだ
つまみの袋を雑に開け、足元に広げると音の鳴らないようにビールの蓋を開けいつもよりも控えめにクビリと飲む
海外から帰ってきた昨年の三月。まだ寒さの残る頃に思いを馳せ、いつもは隣にいる筈のイズミの頭を撫でると、久しぶりに一人きりの酒盛りを始めるのだった
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