文字を吸い込み、時間を味わう
心にも呼吸がある。
ユウコは、布団で丸くなる客人の黒猫、雨さんの丸く愛らしい背中を指先でなでながら、満足げなため息をついた。
本の世界から浮上するとき、いつもダイバーの気分を想像する。
肌が馴染む海の中は暖かくて心地よく、浮き上がるのは少し息苦しい行為だが、自分の生きられる場所はそこだからと、一心不乱に目指す心地。
携帯がきらりと光った。何かの通知。急かすような瞬きに、あえて目をつむる。
SNSは好きだ。気が合う人々との語らいは、長い時間を共に過ごす仕事仲間とは違う安らぎを与えてくれる。
しかし、彼らの言葉が少しだけ早い、と感じることが多くなった。
きらきらと瞬く呟き、描かれるさまざまな小説やエッセイは見ていて飽きることがないが、テンポが少しだけ早い。
まるで、人々が行きかう街を早歩きしているように。
自分がその速度を維持できているときは問題ないのだけれど、それに息切れしてしまうときもある。
そういう時は、紙の本を開いて、気持ちゆっくり、ページをめくる。
呼吸は大切で、浅い息では気持ちは浮足立ち、集中は途切れがちになる。
ユウコは太極拳を習い始めて、「呼吸法」の大切さに驚いた。
気をためるためには呼吸をゆっくりと吸い込み、吐き出すことでゆらりと少しずつ吐き出していく。
その時、床のはじっこに積もる埃のように、知らないうちに体に溜まった疲労や悪いものを、一緒に身体から出す。
体がスッキリしたように感じるのなら、それが自分にとっての正解だ。
本もきっと、それと同じ。
日常はいそがしく、こちらの体の都合なんて、考えてはくれない無情さがある。
しかし、私たちもただ受動するだけではいけない。
波に乗るのではなく、一度波に逆らってでも立ち止まる。目を閉じ、呼吸を整え、自分自身を取り戻さなければ。
「心の呼吸を大切に、っと」
ムニャ、と雨さんが寝ぼけ声で返事をしてくれる。
時計を見れば、もう朝の9時を過ぎている。
独り身の休日とはいえ、少し布団にこもりすぎだ。いけない、いけない。
立ち上がるのと同時にコンポの電源を入れれば、ゆるやかに流れ始める、バッハの無伴奏チェロ組曲。
休みの日のスイッチとして、朝一で流すことにしている。
穏やかに流れだすチェロの低く優しい音に意識を向けながら、「朝の一杯」のために台所に立つ。
普段は必ず紅茶を入れるのだが、ふとコーヒー豆にも目をやった。
――どっちがいいだろう。
あごに手を当てて悩んでいると、黒いしっぽがふわりとユウコの足に巻き付いた。
見下ろせば、空に浮かぶ満月に似た金色の瞳が二つ、「ご飯をくれる時間です」と、大きく見開かれ、きらきら輝いている。
――これは紅茶かな。
満月の瞳を見た途端、鼻の奥で広がり、体中に染み入ってくるような茶葉の優しい香りを思い出してしまった。
それが、コーヒーの鮮烈な香りの誘惑を少しだけ上回る。
「ちょっと待っててね、雨さん」
ユウコの密やかなこだわりは、お湯を鉄瓶で沸かすこと。
亡くなった祖父が持っていた、くたびれ気味の鉄瓶だが、まだしっかり現役だ。
本当に小さく、煙というには弱々しい湯気を出したタイミングで火からおろし、素早く葉を投入済みのティーポットへ。
蒸している間に、「ウニャァ」と、催促が激しくなってきた雨さんの朝食を用意。
丁度カリカリに雨さんが飛びついたのと同時、ちょうど砂時計の砂が落ちた。
お気に入りのマグカップは、もちろん温めてある。
あまり自覚しているつもりはないが、自分はどうやら青が好きらしい。
集めているマグカップは、すべて宵闇や深海を思わせる深い蒼で、見るたびに安心する優しい色だ。
紅茶の色を楽しめないのだけが難点で、保温性が抜群なので、自分用としては最高。
ふわふわと湯気だつカップ片手に、一人がけのソファ(海外ドラマを見て憧れて買ったもの)に腰かける。
最近、今更ながら村上春樹の本を読んでいるので、今からはその続き。
本の題名は。
【夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです】
夢見る心地でページを開き、ユウコは再び、現実と夢の狭間へと飛び込んでいく。
チェロの音色と紅茶の香りを、お供に連れて。
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