天使の部屋
文戸玲
一通の封筒
市営住宅のその部屋は,お世辞にも綺麗とは言えず壁はところどころひび割れ、天井には薄く蜘蛛が巣を作っていた。
その部屋で電気も付けずに,一人の女性がボールペンを手に取り,熱心に手紙を書いていた。若草色のその便せんには体幹の弱い癖のある文字でびっしりと埋め尽くされていた。
ときおり天井を見上げて,何かを考えてはまたペンを走らせる。そうして一時間ほどたっただろうか。書き上がった便せんを同じ若草色の封筒に入れて,大事そうにカバンにしまった。そうして,暁前の暗い夜道へと消えていった。
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こっちにいいところがあるから,と言い出したのは達也だった。隠れるにはうってつけだ,と。
「何だよそれ。信用していいんだろうな」
正弥は,自分より少しだけ身長が高くて悪そうな顔をした兄の達也を見上げた。
「お前な,今までおれについてきて失敗したことがあったか?」
「失敗だらけだったよ。一番の失敗は兄弟に生まれたこと」
お前ぶっとばすぞ,と笑いながら言う達也は続けて,すまんなこんなことになっちまって,と肩を落としていった。
正弥はため息をついた。
「そんなこと言ったってしょうがないだろ。だから盗むなら新しい自転車を盗めって言ったんだ」
「いや,正弥はいつも考えが甘い。新しい自転車はなんやかんやに登録してあるから,すぐにばれるんだよ。それに自転車がパンクはするはブレーキもダメになるはだなんて誰が想像できるんだ。人生の先輩に文句を言うもんじゃないぞ」
「ずっと乗るんじゃないからいいんだよ。それに,何が先輩だ。おれより数秒先に腹から取り上げられただけだろ」
「うるせえ,黙ってついてこい」
何も言い返せない達也はいつの間にやら落としていた肩を自信満々に風を切るように左右に振って歩き出したので、正弥は後に続いた。背中に背負ったリュックの重みが肩を疲弊させる。
タクシーでも捕まえられたら楽だろうが,そんなことをするお金もないし,無いより顔を覚えられるわけにはいかない。どんな些細なことが足跡となるかは分からない。出来るだけその痕跡は残しておきたくなかった。
歩き続けて数十分,街灯もずいぶん減り,視界がずいぶん悪くなってきた。
「おい,いつまで歩くんだよ。この道で大丈夫なんだろうな?」
「大丈夫。終わり良ければ全て良しだ」
出鼻をくじかれたときに言うにはうってつけのセリフを達也が吐いた。あまりにも悪い視界と見えない目的地にいらだちを隠せないまま,深いため息をついて歩き続けた。
ずいぶん長い時間歩いた気がする。始めは不平を言いながら歩いていたが,人間は疲れると文句も出なくなるらしい。無言のまま歩いていると,月はちょうど頭の真上でこうこうと輝いてその存在を知らしめていた。実際に月は光っていないと学校で習ったけど,そんなことは到底信じられない。
どれほど歩いただろうか。達也の足が止まった。目の前には緩やかな下りの勾配が続いていた。その先には薄暗く扉のようなものが見える。ここか,と正弥は尋ねた。
「ここだ。何だか,秘密基地にはうってつけって感じだろ? 中も見たけど,結構きれいだし人は住んでいない」
正弥はリュックから懐中電灯を取り出し,辺りを照らした。勾配が続く道の横に宅配用の小さな箱と立て看板があったため照らしてみると,看板にうっすらと文字が浮かんでいるのが分かる。
「天使の・・・・・・部屋? で合ってるよな?」
「なんだよお前,中学出たくせに漢字も読めないのかよ」
達也の言葉を無視して辺りを伺う。どこから入るんだ,と問うと勾配を下り始めた。鍵もかかっていないのだろう。大丈夫なのか,と不安にもなったがついていくしかない。少し下ると,目の前にははっきりと木製の扉が現れた。
達也はその扉についていた取っ手を手に取り,扉を開けた。そこには確かに,綺麗に整えられた部屋があった。
埃のニオイはするが,息苦しいほどではない。キッチンが壁際に取り付けられたその部屋の隅には,かなり古そうな洗濯機と冷蔵庫が置いてあった。土を整地したようにしてできてある玄関で一応靴を脱ぎ,中へ上がりこんだ。
正弥はリュックを置いて,部屋の真ん中にあるテーブルに向かって歩き,そこにある椅子に腰かけた。
「腹減った~」
達也は緊張感の欠片もない間抜けな声を出すと,さっそく冷蔵庫のドアを開けて中を物色しだした。何もないじゃないか,と肩を落として言う達也に正弥は,あったら何か食うのかよ,と馬鹿にして言った。達也は何も言葉を返さない。どうやら本気で何かを食うつもりだったらしい。
疲れたなあ,と言って部屋を物色するのに飽きた達也はフローリングに寝そべった。埃だらけの床で寝るのは気分も良くないだろう。何か敷けるものでもないかと部屋の中を漁ろうとすると,あっ,と達也が呟いた。
「屋根,なんか空につながってねえか?」
そんなわけないだろうと思って天井を見上げると,そこにはぽっかりと井戸のような穴が開いているように見えた。星や月が見えるわけではないので直接空につながっているとは断定しがたいが,穴のように見えた。その先は丘の上になっているのだろうか。それとも丘の途中でふさがっているのだろうか。
もういい,考えるのはやめて明日に備えて寝よう。明日は朝早くにここを出て,人目のつかないうちに帰宅しなければならない。
これからのことに思案を巡らしていると,背後でかすかな物音がした。
ぎくりとして振り返った。何か白いものが視界に入った。目を凝らして見つめると,そこにあったのは一通の封筒だった。
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