百合、はじめませんか。
木風麦
〈東雲浅灯〉
ショアア、と水がいくつもの穴から噴き出す音が聞こえてくる。
なぜかうっすら中が透けて見えるし、ガラスが曇っていなかったら丸見えだ。そんなところにわたしも入るのか。
わたし――
別段そういった趣味があるわけじゃない。利用するのは初めてだ。
わたしはただのしがないOLであり、本来はこのホテルに縁もゆかりもないような干物のような女だ。けれど実際こうして部屋に足を踏み入れているのだから人生って本当になにがあるかわからない。
きょろっと辺りを見回す。
中は意外と「そういう部屋」っぽくはない。男性が装着するゴムや有料のおもちゃの広告があり、部屋が薄暗いことを除けば至って普通のホテルだ。
「おまたせ」
とシャワーを浴びていた人物が湯気と共に現れるなり、ベッドにわたしを押し倒した。
縮れた髪から雫が垂れてベッドに染みをつくる。
突然の出来事にわたしは目を見開くばかりだ。いや、どこかでそうなってもおかしくないという予感はあった。しかし実際に起きると、予感も予測もなんと役に立たないことか。心の準備も冷静さも、数分前という過去においてきてしまった。
そんなわたしの様子を見て、元友人――
明るい茶髪のはずなのに、照明の影に入る部分だからだろうか、ひどく仄暗い色に見える。
「まさか再会できるなんて……うれしいな。やっぱり初恋の人と会うと緊張するね」
彼女は言葉とは裏腹に、慣れた手つきでわたしの頬を手の甲で撫で、頬を上気させながらじわりじわりと顔と顔との距離を詰めてくる。
――なぜ、わたしが彼女に襲われる状況になったのか。
ことはほんの三十分前。
わたしは仕事終わりの飲み会に参加していた帰りだった。飲み会の会場は仕事場から離れた店で、最寄りの駅からも遠のいていた。だがなんという偶然か、その会場というのは母校である高校のすぐ近くの店で、懐かしい思いに背を押されたわたしはいつもとは違う帰路――高校生のときに使用していた道で帰ることにした。
その道の途中で、今わたしを押し倒している女――
「アサヒちゃんだよね」
彼女はぱっと表情を輝かせながら寄ってきた。小動物を彷彿とさせる彼女の雰囲気は高校のときと変わらない。だから余計に、わたしは彼女が怖かった。
「変わってないね、アサヒちゃん。かっこいいまんまだもん」
と照れながら上目遣いに見上げてくる甘い視線。これも高校のときと変わっていない。
「久しぶり……」語尾が震えた。
言いたいこと、というよりは言わなければならないことがわたしにはある。けれど今さらそれを口にするのはやはり
すると令華はなにかを察したのか、両手を合わせてにこりと笑んだ。
「ね、わたし行きたいところあるんだ。そこでならゆっくり話せると思うし……いっしょに行かない?」
そう言われてのこのこついていった結果が現在につながっている。間抜け、阿呆と言われてもなにも言い返すことができない。
それに、入り口に立ったときからどういう場所かはわかっていた。令華は「そのつもり」でわたしを導いた。わたしも「そのつもり」で扉をくぐって令華についていったはずだった。
――だけど。
「……めん、令華。ごめん。やっぱり駄目」
今にもくっつきそうな唇に手のひらを押し当てて顔を逸らす。やわらかくほんのり温度を持った唇が生々しい。自分のものと比べて潤いをもったそれは、他人のものなんだと思い知らされる。
「やっぱり私に対する罪滅ぼしのつもりだったんだ?」
はあ、と令華は深いため息をつきながら上体を起こした。
わたしは無言でうなずき、令華に手を引かれながら起き上がる。
「バカ。私が言えたことじゃないけど、もっと自分を大事にしなよ」
ぽん、と頭に手が添えられる。柔らかい、女の子の手。
「わたしは、令華を傷つけたから。わたしも傷つかなきゃって思ったの」
彼女は高校時代、わたしの友人だった。といっても、いつも一緒にいた四人グループのうちのひとりであって、わたしたち二人だけが特別仲が良かったわけじゃない。けれどそう思っていたのはわたしだけだったようで――……。
卒業式を控えた二月下旬、駅にまっすぐ伸びる歩道を二人で歩いていたときだった。
「アサヒちゃん、私アサヒちゃんのこと好きなの」
突然立ち止まった彼女は、唐突にそのように告白をした。最初、友人同士の「好き」なのだと思った。しかしその思いは一瞬で掻き消えた。目の前にいたのは友人ではなく、目に炎を灯した、頬を染めて震える手を握りしめた、ひとりの恋する乙女だった。
友人として、彼女の想いは応援したい。だけど、―—……。
だけどひどく戸惑った。
「だからグループの子に相談をもちかけてしまった。それが、今でも後悔してる」
わたしが泣いてはいけないのに、アルコールのせいで涙腺が緩くなっているのか、視界が滲む。
仲の良かったグループだった。関係は良好で、わたしはその子たちといると楽しかった。
だけどたとえ友人でも、相談に向き不向きというのはある。そのときのわたしはそのことに気づかず、なんの疑問も持たず、いつものグループの子二人に打ち明けてしまった。
「え、なにそれ。引くんですけど」
「うちも無理だわぁ。え、百合ってこと?男いるのに?意味がわかんない」
と二人は心底いやそうに顔をしかめたり嘲笑したりを繰り返した。そこから仲が良かったはずの友人への悪口大会が始まった。
「まあアサヒかっこいいけどさあ、さすがに引くよね?」
明らかに同意を求めた問いの仕方だった。
「いや、引いてはないよ。驚いただけ」
率直な物言いをすると、二人は顔を見合わせて「さすがアサヒだわ」やら「お心が広い!」と笑われた。なにが面白かったのかは今でも理解できない。
終結したのはいつだったか忘れてしまったが、その日を境に令華を明らかに避け始めたのは今でも覚えている。グループは三人になり、いつしか令華の存在は二人の中で、「懐かしいクラスメイト」という括りになっていた。その二人とは今も付き合いが続いているから不思議だ。
相談しておいてこんなことを言うのもおかしな話だが、何か言葉がほしかったわけではなかった。もしかすると、吐き出して、心の整理をさせてほしかっただけなのかもしれない。それだったら家のぬいぐるみにでも話しかければよかったのだ。
でもわたしは、人に、友人に話すことで、楽しかった時間を自分の手で終わらせてしまった。どれほど怖い思いを抱えながら告白してくれたかわからない友人を深く傷つけてしまった。それがずっと、大人になった今もずっと残っていて、忘れた日はない。
「まあ、裏切られたって思ったのはたしかだよ。好きだから余計苦しかったってのもある。だけど……アサヒちゃん顔に出すぎ。ずっとつらそうな顔して私のことみてたじゃん?それがなんていうか……私のこと気にかけてくれてるんだーって、じつは悪い気してなかったんだよね」
にまにま笑う彼女と目が合う。その目を見ると「愛しい」と言われているようで落ち着かない。もちろん自意識過剰なのだろうけど。
ふい、と首を逸らすわたしの肩に、シャンプーの香る小さな頭が乗せられた。嗅ぎなれないふんわり甘い香りが鼻腔をくすぐる。
「ね、私まだ告白の返事もらってないんだけど」
いつも陽気な彼女の声は、いつかと同じく震えていた。
「聞かせてほしい。駄目なら駄目って言って。……言ってくれないと、ずっと好きって気持ちが消えないもん」
袖をつままれ、「おねがい」と小さな声でせがまれる。バスローブから覗く豊満な胸が視界に入り、同性だというのになぜか気まずい思いが湧いてきて目を逸らす。
「―—同性を好きって、どうやったらわかるの?」
独り言のような呟きをすると、片方の肩にあった重みが消えた。衣擦れする音がしたものの、令華が口を開く気配はない。
彼女を見ることができず、うつむいたままわたしは続けた。
「わたし、恋愛の好きがわからないの。こんなこと告白してくれた相手に言うことじゃないんだろうけど……わたし、好意を向けられることが気持ち悪いの。好きって言われたら、そういう態度をされたら、気持ち悪いなって……思っちゃうの」
息を呑む気配があった。袖をつかむ指に力が込められるのを感じ、慌てて「でもね」と語を繫ぐ。
「レイからの告白は……同性だからかな。少なくとも不快感っていうか、そういう気持ちがなくって」
つまり、と言葉を切って、息を短く吸う。ああ、レイもこんな気持ちだったんだろうか。
心臓が耳のすぐ近くで音を立てていると錯覚するほど脈がびりびり震えるている。早口に一息に言葉にしてしまいたいのに、単語が喉に引っかかっては声にならずに消えていく。
「……自分でも自分のこと、わかんないの」
しんと静まった部屋で、ベッドの軋む音がやけに大きく響いた。
「じゃあ、もしかしたら私にもチャンスあるってこと?」
おそるおそる隣を見る。
まだ私が青春時代と呼ばれるときを謳歌していた頃、彼女はいつも希望に満ちた目でわたしのすぐ
なんでそんな目をできるの。わたしは目の前にいる彼女に、自分勝手なことを言っているというのに。
またも下を向いて拳をつくる。長い髪がカーテンとなり、令華との壁になる。
「わかってる?わたし今かなり酷いこと言ってるよ。よくわかんないから、七年越しの告白をさらに延長させて、期待をさせておいて、結局振るかもしれないんだよ?」
「そんなことわかってるよぅ。恋愛対象じゃないかもしれないってことでしょ?でもアサヒちゃんのことだから、きっと真剣に考えてくれるもの。それで出た結論が失恋だったらもちろん悲しいけど、でも『悩んでくれてありがとう』って思えるよ、たぶん。……でも前向きに検討してね?」
令華はわたしの髪を耳にかけながらはにかんだ。
この言葉はすべて虚勢かもしれない。けれどわたしの意志を尊重する選択をしてくれた。
この子を悲しませる選択はしたくない。
けれど「わたしも好きだよ」と友人以上の気持ちで言える日がくる想像もできない。それでも――……。
「ひとまずアドレス教えて?まずはそっから始めよ」
とさっそく令華は機器を取り出す。呆けていたが、はっと我に返る。何事もなかったかのように振舞いながら彼女に
「ゆっくり考えてよ。でも、まあ」
呟いた彼女は画面に視線を落としたわたしの後頭部に手を回すと、額に唇を押し当てた。
前髪越しに唇の感触が伝わり、数十分前、それが手に触れたことを思い出して赤くなる。
そんなわたしの様子を満足気に見上げた令華は、
「ときどきは友人じゃしないようなこともするから、適度に緊張してね」と器用に片目をつむって見せた。
もしかしたら咲くかもしれない気持ちをふと腹の底に感じ、わたしは耳が熱くなるのを感じながら「覚悟しとく」と消えそうな声で応じた。
百合、はじめませんか。 木風麦 @kikaze_mugi
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