第8話 メロス、言い訳をする

 富田林メロスが眼を覚ますと、そこはどこまでも続く砂漠だった。地平線に果ては見えず、ただゆらゆらと蜃気楼が揺れている。灼熱の太陽がまともに、かっと照って来て、眩暈を感じ、これではならぬ、と気を取り直しては、よろよろ二、三歩あるいて、ついに、がくりと膝を折った。立ち上がる事が出来ぬのだ。天を仰いで、くやし泣きに泣き出した。


 ああ、あ、これは。濁流を泳ぎ切り、浮浪者から逃げ切ろうとした矢先。そうだ、あの時頭を強く打たれたのだ。おお、メロスよ。死んでしまうとは情無い。愛する友は、おまえを信じたばかりに、やがて借金を肩代わりせねばならぬ。おまえは、稀代の不信の人間、まさしく社長の思う壺だぞ、と自分を叱ってみるのだが、全身萎えて、もはや芋虫ほどにも前進かなわぬ。熱を持った砂丘にごろりと寝ころがった。


 身体疲労すれば、精神も共にやられる。もう、どうでもいいという、債務者らしいふてくされた根性が、心の隅に巣喰った。私は、これほど努力したのだ。約束を破る心は、みじんも無かった。神も照覧、私は精一ぱいに努めて来たのだ。動けなくなるまで走って来たのだ。私は不信の徒では無い。ああ、できる事なら私の胸を断ち割って、煌めく魂をお目に掛けたい。愛と真実だけでできた。この黄金の魂を見せてやりたい。けれども私は、この大事な時に、精も根も尽きたのだ。


 私は、よくよく不幸な男だ。ただ嘘を吐かずまっすぐに生きただけなのに、人には愚かと思われる。賢く立ち回ろうとするほど、多くを失っていく。私は、きっと笑われる。私の一家も笑われる。ゼウスよ。あなたもきっと笑っていたのだろう。ああ、よいとも。愚かな道化と笑うがいい。私は友を欺いた。中途で倒れるのは、はじめから何もしないのと同じ事だ。ああ、もう、どうでもいい。これが、私の運命なのかも知れない。セリヌンティウスよ、ゆるしてくれ。君は、いつでも私を信じた。私も君を、欺かなかった。私たちは佳い友だったのだ。一度だって、暗い疑惑の雲を、お互い胸に宿したことは無かった。君はよく「お前、マジふざけんなよ」とか「せめて事前に説明しろ」と言っていたが、それが冗談だったというのは私もよく理解している。でなければ、こうも幾度も助けてくれるものか。それを思えば、たまらない。友と友の間の信実は、この世で一ばん誇るべき宝なのだから。


 セリヌンティウス、私は走ったのだ。君を欺くつもりは、みじんも無かった。信じてくれ。私は急ぎに急いでここまで来たのだ。濁流を突破した。浮浪者に囲まれても平和的に話し合おうとしたのだ。彼らに殴られ、私は死んだが。どうか彼らを悪事を成した者たちを、恨まないでくれ。人は金を失うと心に煤がたまるのだ。気持が淀み、悪に取り憑かれ易くなる。まともな社会福祉すら受けられぬ彼らを誰が責められよう。なぜ彼らがあんなに怒っていたか、皆目見当もつかないが、おそらくは政府が悪いに違いない。


 社長は私に、ちょっとおくれて来い、と耳打ちした。おくれたら、身代わりに借金を負わせて、私を助けてくれると約束した。私は社長の卑劣を憎んだ。けれども、今になってみると、私は社長の言うままになっている。仮に蘇生して、命からがら、旭西金融の応接室に着いたとして間に合うとも思えない。社長はひとり合点して私を笑い、そうして私の借金をなかったことにするだろう。そうなったら、私は、死ぬよりつらい。私は永遠に裏切り者だ。地上で最も、不名誉の人種だ。


 セリヌンティウスよ、私は死ぬぞ。遺書も残してある。きっと甲斐甲斐しい両親が私の命に保険金をかけているはずだ。その受取人は君である。感極まって殴り書いた遺書にどれほど法的効力があるか、そもそも私に保険がかかっているかもわからないが、これが私にできる全てである。君だけは私を信じてくれるにちがい無い。いや、これも私の、ひとりよがりか?


 ――もし死ぬことができなかったら、どうなるだろう。人生というのはどんなに惨めでも、続いてしまうものだ。それをメロスは厭というほど知っていた。


 ああ、もういっそその時は、悪徳者として生き延びてやろうか。私には妹がいる。妹夫婦に泣きついて借金を肩代わりしてもらうというのはどうか。


 正義だの、信実だの、愛だの、考えてみれば、くだらない。何の悪事も働いていないのに、私は、こうして殴られ、倒れている。きっと金だって奪われているのだろう。人を殺して自分が生きる。それが人間世界の理ではないか。この前、自殺未遂をした芥川君が書いた小説も、そんな主張をしていた。人の道を踏み外すことを肯定するようなもの、書いてどうすると反駁したものだが、なるほど人が皆、そう強く在れるわけもなかった。彼の硝子細工のような繊細な精神に、救われた者もきっといるのだろう。私もその救いに抱かれ、己が弱さを認め、この悪性を肯定するべきなのだろうか。ああ、何もかもばかばかしい。私は、酷い裏切り者だ。どうとも、勝手にするがよい。やんぬる哉。――四肢を投げ出して、うとうと、まどろんでいく。


 ふと、頬に冷たいものが触れた。意識が回復し、視界が開けていく。壁面は青いビニールシート、頬に触れているのは缶チューハイで、当てているのは、小汚い老爺である。いつぞや、メロスが缶チューハイをおごり、その対価としてリボ払いの話をしてくれた老爺だ。メロスのことを心配してくれた、あの老爺であった。



「ようやくお目覚めになりましたな。」


 青いビニールシートで拵えた小屋の中、老爺はあの日と変わらぬ、穏やかな顔つきでそう言った。


 自身の懐を探ると、金はなくなっていた。妹の職場で無理を言って借りた100万もの大金を、たった数時間で失ったのだ。あの無数にいる浮浪者たちから金を取り立て、夕方までに戻る? 不可能だ。浮浪者たちがじっとしているわけもない。ああ、これでは、セリヌンティウスの元に走ったところで、約束を果たせない。こんな絶望があるか。


 どんなにメロスが正しく在ろうとしても、皆がそうとは限らない。好き勝手生き、時に暴力に訴える。そのくせ悪は裁かれない。メロスは自分だけが損をしているような気がした。


「さて、これからどうされますかな?」


 老爺が、そうひとりごちた。年のせいだろう。


 その身体は細い枯れ木のようで、力を込めて殴れば折れてしまいそうだ。



 失うものが無くなると、人は何でもできるようになる。


 社会的な信用も、守るべき秩序もなく、家族も友も不要として、ただ吹き荒れる嵐が如く振る舞えば、きっとメロスは無敵になれる。その煌めくの魂を引き換えに、絶望を糧に、彼は誰よりも、何よりも強くなれるだろう。


 老爺は重そうに腰を上げると、無防備な背を見せて、何かを探していた。


 それをメロスは、ただ見ている。


 正しさを貫くか、悪徳に落ちるか。それを決めるのはいつだってメロス自身である。




次回、「無敵の人」みんな、読んでくれよな!


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