◇9-4:見通しゼロ
とぷんと落ちてくる水滴が吸い込まれていく音とともにさわさわと水面が揺れる。
もう耳を澄ませる必要はなかった。
水辺にいるせいで気温が一段低い。ローブの中に両足を折り入れ、膝を抱えて暖をとる。それでも体の熱が徐々に引いていく感覚に、より一層身を縮こませる。
「行く先々で問題を起こせるなんて、これも一種の才能だな」
霧で見えないのをいいことに、唇をムッと突き出して不満を露わにする。
こういう時でもいつもと変わらずに厭味ったらしい態度を崩さないことには賞賛してしまう。
「それは褒めてくれているの?」
「嬉しいか?」
セシルの体に寄り添うようにして横並びに座っているリディアには、セシルの表情が見えない。けれど、見ることはできずとも容易に想像することができる。ニヒルな笑みを浮かべているであろうセシルに悔しさが込み上げ、両腕で抱えた膝におでこを擦り付けて呻きをもらした。
体を密着させることでしか相手の居場所がわからないこの状況になってしまった原因はリディアのせいではないはずだ。
そもそもは近くを回りたいと言い出したことが原因だと言われてしまえばそれまでなのだが、あくまでも人助けをしようとした結果であった。
◇◇◇
数刻前、リディアはセシルとフレッドとともに水音のする方向へと歩いていた。
深い霧の中をゆっくりと進んで、立ち止まっては息を潜めて耳を澄ませる。
それを三回ほど繰り返した頃だっただろうか。徐々に大きくなる水音にセシルとフレッドも気づき始めていた。
「確実に近くなっているけれど、なんだか……下の方? から聞こえない?」
「確かに……下から聞こえます」
しゃがみ込んで耳を地面へと傾けて多くの音を取り込むリディアに、フレッドも瞼を閉じて確認をしてから静かに頷く。
「もしかしたらこの先は斜面で下っていくのかもしれないな。これ以上は危ないから明日にしよう」
「そうね。ここまで付き合ってくれてありがとう」
「塗料多めに印を付けておきます」
セシルの判断に各々頷く。
少しだけと言いながらも大分時間をかけてしまった。拠点で待っているウォルトとリオも心配しているに違いない。
きびきびと動いて自身の後方にあった木の幹に塗料を塗り始めたフレッドを、腰を落とした姿勢のまま眺める。
(私には体力も足りてないわ……)
クロズリー領の特色上、万が一危機が迫った場合のために剣術や護身術を習っていたこともあり、同年代の貴族令嬢の中では体力がある方だと自負していたけれど、祈祷師としては求められる基準以下だと思い知った。
今でさえ一度休めてしまった足がもう立ち上がりたくないと訴えているのに、明日警備塔に戻るまで歩き続けていられるだろうか。
いや、歩き切らなければいけない。
もう歩けないと泣き言を言う自分が許せないし、セシルは必ず小馬鹿にしてくるだろう。負けるものかと気を奮い立たせる。
そうして立ち上がろうと両ひざに手をかけた時だった。
「不味いな。足場がない」
斜め後ろから聞こえた、少し焦ったような声に驚いて上半身ごと捻って後ろを向く。
その勢いで両ひざにかけていた両手を地面へとついた。土の中に混じった小石が掌に食い込む。
けれど、痛みよりも目の前の緊迫した事態に慌てて地面を蹴っていた。
「セシル!!」
霧で姿が霞んではいたが、しゃがんでいるリディアからはセシルの片足が宙を彷徨いバランスを崩していることがはっきり見えたのだ。
助けなければという一心で低姿勢のまま駆けてセシルの足へとしがみ付く。
それがいけなかったのだ。
「なにしてッ――!!」
リディアからの突然の体当たりに、セシルの軸足が耐えきれなかった。
浮遊感が二人を襲う。
空気を切り裂く風が全身を叩く。
視界は真っ白だ。
このまま死ぬかもしれない。
死の恐怖に直面したリディアには、セシルの足に必死にしがみ付いて悲鳴を上げることしかできなかった。
◇◇◇
「ぅ、ん……」
手足が冷たい。
布団を手繰り寄せようとして、今いる場所がベッドの中ではないことに気づく。
「起きたか」
その声音で先ほどまでの記憶が一気に蘇る。
足を踏み外したセシルを助けようとして、それで、結局二人ともども落ちてしまったのだ。
「セシル無事!? 怪我、してない?」
身を起こしてセシルを探す。怪我の有無を確認しなければならない。
そう思っても、視界が真っ白で何も見えない。
起きたばかりで目が霞んでいるのだろうか。
「……君はこんな時まで人の心配か」
セシルの手がリディアの肩を優しく掴む。すぐ傍にセシルがいたことに安心してほっと胸を撫で下ろした。
「怪我はないから心配するな。君も体に痛いところはないか」
「私も平気よ。それよりも、私達足を踏み外して落ちたのよね? 怪我が一つもないなんて……」
状況からするに今回も気を失ってしまったのだが、落ちている瞬間はとても長く感じた。無傷でいられるような高さではなかったはずだ。
「地面に叩きつけらる前に、風の魔術で勢いを緩めたんだ」
「凄い、そんなこともできるのね」
「ああ。だから助けようとしなくていい。魔導騎士は祈祷師に守られなくても自力で乗り切れるように鍛えているからな」
セシルの言うとおりだった。
魔導騎士の実力が他の者達と比べものにならないことをリディアは幼い頃からずっとその目で見てきた。その実力に見合う程の鍛錬を日々繰り返していることも。
(これじゃあ技量を疑われてると思われてもしょうがないわ)
魔導騎士を助けようだなんて、なんておこがましい。
リディアは自分の思い違いに肩を落とした。
「ごめんなさい……」
そんなリディアを許すというように肩を優しく叩かれると、今度は身を寄せるように言われる。何も見えないこの霧の中で離れていては、お互いの位置すらわからなくなってしまうからだ。
ドギマギしながらも少しずつお尻の位置をずらしていくと僅かに腕が触れ合って、互いのローブが擦れあう。
このくらいで、と動きを止めるが、セシルにはまだ足りなかったらしい。腰を引かれて引き寄せられる。
トクン、トクンと規則正しい心音が聴こえる。
(落ち着いて、落ち着くのよ……)
急き立つ心臓をおさめようと何度も唱える。
いつの間にかセシルの胸に体を預けるようにしなだれかかる態勢になってしまった。
これは祈祷師と魔導騎士としてこの場を乗り切るために必要な手段であって、胸をときめかせる場面ではない。
状況に合った真面目な話をするべきだ。
「フレッドはどうしてるかしら」
霧で見えないと分かっていても、見上げてしまう。
一人取り残されたフレッドの無事を願う。自分が助けようとする必要はないと分かっていても、心配するくらいは許されるだろう。
「明日の朝、霧が収まったらウォルトらと再度来るように命じている。大声を出せば辛うじて届くから問題ない」
連絡を取り合える距離だったことに安堵して、ようやくリディアの口角が上を向く。
「ねえ、以前氷の足場をつくってリオが昇ってたじゃない。今回もそれで上まで戻れないの?」
「明日そうするつもりだが、今は駄目だ。霧が深すぎる。君、踏み外さない自信ある?」
「ないわ」
断言できる。今度はリディアが足を踏み外す番になることは想像に難くない。
「今日はもう寝ろ。することがない」
反対にセシルは一睡もしないのだろう。
交互にと言いたいところだが、リディアだけが起きていてもセシルを守れないし、セシルだってリディアに任せて寝るとも思えない。
大人しくローブを抱き寄せて目を閉じる。
少し前には眠気に抗えず微睡んでいたのだから、今だって目を閉じれば簡単に眠れるはずだ。
心地の良い鼓動と木々のさえずり、水のせせらぎ。
自然と一体化するように身を委ねて、意識をその先へ、もっと深くまで沈めていく。
もっと深く、ふかふかの雲に身を埋めるように――
結論から言うと、リディアは眠ることができなかった。
(寝れるわけ、ないじゃない!!)
寝るための努力はしたのだ。
途中からは、もしかしたらこのまま眠れるかもしれないと本気で思ったのだ。
けれど、心地良く音を響かせる拍動は、リディアのものじゃない。それに気づかされるたびに意識が現実へと引き戻されて、リディアの心拍を加速させた。
そうして、眠れないからなにか話をしないかと持ちかけたリディアに対して返ってきた言葉が、あの嫌味ったらしい一言なのだった。
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