◇7-2:闇に沈む
「上から来ます!!」
リオの声に弾かれるように上を向く。見上げた空は視界を曇らす霧と、木々の葉がザワザワと音を立てて揺れているだけだ。
(どこ……?)
自分ではない何かの力が頭に加わる。
セシルがリディアのローブのフードを引っ張って頭を覆ったのだ。
フードを被せる勢いとともに柔らかく、けれども有無を言わせない強さで頭を押さえられて、視界が空から足元へと変わっていく。
一瞬、下を向く勢いで浮き上がった横髪を何かが掠めた。
頭上からはセシルの流暢な詠唱が絶え間なく聞こえる。
重力に沿って流れ落ちてきた髪が肌に張り付く。
触れた頬がひたりと冷たい湿り気を帯びた。
(なに、雨?)
違う、雨なわけがない。
恐る恐る頬に広がる何かに触れ、指先を顔の前に広げる。
赤黒くてどろりとした粘液に飛び出しそうになる悲鳴を必死で嚙み殺す。今叫んでしまうとセシルが発動させようとしている魔術の詠唱を中断させてしまう。
音を立てずに深呼吸を繰り返す。
気を強く持てと自分自身に言い聞かせる。
「リオ、行けるか」
「はい!」
リディアの頭上で紡がれていた詠唱が終わると、空中に氷の足場が次々と現れ始めた。助走をつけて走り出したリオが現れる氷の足場を踏み台にして駆け上がり、ものの数秒で霧に紛れて姿が見えなる。
抑えられていた手が頭から離れたため、ついリオの姿を目で追ってしまう。霧の中、ローブの裾に入った模様が飛び回る蝶のように翻り、リオが魔獣と戦っていることがわかった。
(すごいわ……)
巡回のない日に訓練している姿は目にしていたが、実践では動きが格段に跳ね上がっている。
リオが消えた先を呆然と見ていると、次に聞こえたのはフレッドの張り上げた声だった。
「南の方角から六体、……七体きます!」
グルル……と濁った唸りが大きくなるにつれて霧の奥から姿がゆらゆらと現れる。
鮮血のように真っ赤な目と、全身を覆っているどす黒い毛並み。加えて、足元から水が沸騰するように泡立ち上がるドロドロとした淀み。
魔獣を目にして感じたのは恐怖とは違った――
◆◆◆
頭を殴られたと錯覚するほど、強烈に脳がぐらぐら揺れる。
足が地に着く感覚が薄れ自分が立てているのかもわからず、無意識にセシルの腕にしがみついた。
視界が暗い。けれど、魔獣の赤い目だけは鮮明だ。
セシルが指示を出している声がすぐ近くで聞こえているはずなのに、遥か遠くから、それも途切れ途切れしか耳に入らない。
(いま宵の森にいる、のよね。でも、ここは……)
フレッドが振りかざす灼熱の剣先が、ウォルトが打ち出す魔術の風刃が、セシルが生み出す氷の防御壁が、リディアの闇を鮮やかに彩る。
悲鳴が聞こえる。
誰かが泣き叫んでいる。
助けてくれとこちらを見ている。
高熱で焼けて、切り刻まれて、氷漬けにされて、こちらを射抜く鋭い赤眼が減っていく。
体中から汗が噴き出した。
立っていられなくて、セシルの腕を掴んだままずるずると膝を地につけた。
頭が割れそうだ。
なにかがリディアの中で叫んでいる。
「……なきゃ。わ、たし……行かなきゃ」
思考なんてどこかへ消えた、衝動的なものだった。
突然地を蹴って最前線へと走り出したリディアにセシルの制止は間に合わなかった。
横から飛び込んできたリディアに驚き、フレッドとウォルトの動きが鈍る。
何が起きているのか、どうしてこんな事態になっているのか瞬時に判断でいる者は一人もいない。
魔獣が牙を剥き出しにして咆哮をあげながら飛び掛かる。
フレッドの剣もウォルトの魔術も、リディアの動きが予測できないため魔獣だけを狙うことが困難で。寸でのところでセシルが発動した魔術が魔獣の牙と手足を氷漬けにした。
飛びかかる魔獣になす術なく押し倒されて、リディアは背中から地面を滑った。
ズササッと派手な音と共に土埃が舞う。
唸ることのできない氷漬けにされた口に力を入れながら、真っ赤な瞳がリディアを威嚇する。こうして近くで見ると、血の赤というよりは燃え上がるルビーの煌めきだ。
魔獣を抱きしめていた両手を宥めるように上下にさする。体中に広がる痛みに耐えながらもリディアは精一杯ほほ笑んだ。
「助けに、きたんだよ……」
その言葉が引き金となって聖石が光を放つ。
強烈な閃光が辺り一帯を埋め尽くし、目が眩む光が収まった時には魔獣の姿はどこにもなかった――
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