第2話
そのようにゆっくり、のんびり散策しながら道端の石仏に話しかけ、また小さな花々を見つけ、または古い寺の前では神妙な気持ちで手を合わせ、勇作の説明を一つ一つ聞きながらこの国の人々の心持ちがこの景色の中にあるのだとしみじみ感じながら見て歩いた。
その帰り道だった。
小さな水の湧き出る泉のような所に行った時の事だ。
その後ろが涯になっている岩の隙間から絶えず清水が流れ出ていて、その流れ落ちる所が小さな泉になっていてその小さな泉のその周りを人の手で石で囲いをしている所があった。
その周りは誰が敷いたのか白い小石と赤い小石だけを選んで拾って来て敷いた紅白の玉砂利の所は勿論の事、その周りもきれいに草が抜かれ手入れされて気持ちが良い場所だった。
こんな奥深い山道沿いの滅多に人の通らない小さな泉を守っている人がいるのだろう。
ヘンリと勇作は疲れて喉の乾いた時に見つけたこの水場に喜んで、流れ続けるその清水を手ですくって思いっきり飲んだ。
清水は冷たくて口に含むと今まで飲んだ事もない程の甘みを感じた。
ああ、旨い。だから“甘露の泉”というのか。勇作も嬉しそうに言った。
水場の辺りは特に大きな木の陰という訳でもないのにひんやり涼しく、そこを吹く風も心地よい。
二人がその近くに腰を降ろして涼んでいると、手拭いを深くかぶった腰の曲がった一人のお婆さんが来て泉の前に来ると、手を合わせて長い事拝んでいた。
二人は何故拝むのか不思議に思いながら少し離れた所でもあるし黙って見ていた。
お婆さんはそれが済むと、泉の周りの玉砂利の様子を見、その上の小さな枯葉や米粒程のゴミを一つ一つ丁寧に拾っては手に貯めて、離れた所に持って行き周りの草も一本一本抜いて回った。
あんなにきれいに手入れされているにも関わらず更に手入れをした後また、流れ出る清水に向かって手を合わせ、そして帰って行った。
ここの清水と泉をきれいに保ってくれているのはこのお婆さんなのだと二人はただ黙っていつまでもその後ろ姿を見ていた。
夕方寺に戻って、きちの出してくれた夕食の膳をすっかりきれいに平らげると、さすがに一日中歩いた疲れが出て来た。
勇作はこの山寺を真っすぐ下った所にある農家と宿屋を兼ねた家が知り合いだとかでヘンリを案内する間だけそこに寝泊まりしていた。
だが和尚やきちの計らいで昼食や時には夕食もヘンリと一緒にこの寺で馳走になって帰る事も多かった。
今日も夕食が済んで勇作が帰ろうとすると和尚が、
「今日はどのあたりを見て来なすったのか?」と聞いて来た。
和尚が話しかけるという事は明日は特別お参りや法要の無い日なのだろうと思われる。
翌日に予定があると食事を早く切り上げて何やかやと明日の準備をして早く寝につくのが常のようだった。
和尚に話しかけられると勇作は立ち上がりかけた腰をまた元に降ろして今日見て来た所を説明し始めた。ヘンリにも通訳し同意を得た。
ヘンリも、
「今日は清水の湧き出る泉で飲んだ水が美味しかった。」と言った。
「ああ、“甘露の泉”か。」と和尚が言う。
「あそこの周りはとてもきれいに手入れされていますネ。」
「一人のお婆さんが手入れしてくれているようです。とても感心です。」
勇作が言ってヘンリにも同意を求めた。
「そうじゃろ?誰が飲んでも甘いと言う。それで“甘露の泉”というようになったんじゃ。あそこを守っているのは占い婆々の信女じゃヨ。」と和尚が言った。
「あそこだけじゃない。この辺り一帯の石仏やら、人が腰掛けて一休みしたくなる所はどこも下草が刈られてきれいじゃろ?信女が毎日、ぐるりと見回って手入れをしてくれているんじゃ。」と和尚は言った。
「して、その方はどのような方なんですか?」と勇作が聞いた。
「占いのようなものをしているんじゃ。特別、看板を立てて商売はしておらんが。若い頃から人とは違う力を持っていると皆が言い出して、何か困った事があると信女の所に行くようになったんじゃ。この村の者だけじゃないぞ。近隣の村からも相談に来る者がおるそうじゃ。よく当たるんじゃろう。昔は沢の所に住んでおったんじゃ。だがな人より違う力があるとかえって不幸なもんじゃな。特別器量が悪いと言う訳でないのに、周りの者には恐れ多いというのか若い男共も近寄れなくていつの間にか嫁にも行かずにああして年をとってしまったんじゃヨ。」
和尚は遠くを思い出すようにしながら、
「うん、あれには確かに目力はある。あれの目力でじっと見つめられるとこっちの胸の内を見透かされるような気がする。心のうちに隠しておきたいようなものまで見られているのではないかという気がしたナ。」などとぶつぶつ独り言のように言ってから、
「まあ、だがあの者は決しておべんちゃらや嘘は言わない。そしてあれの口から出た言葉は大抵当たっておるんじゃ。まあ、村の人々はそう言っておるヨ。」と締めくくった。
そう話しているうちにも、いつの間にか夕食の膳は片付けられ、お茶の横にきちが気を利かせて酒をそっと置いて行った。
その酒をグイ呑みに三つ、トクトクと注ぐと和尚はヘンリと勇作の前に一つずつ置いて、
「この酒はちと強い酒じゃからグイと呑んではいかんぞ。すぐに酔いがまわるぞ。」と言ってから、
「チビチビとなめるようにすると良い加減にいい気持になるんじゃ。」と言って自らほんの少し口に含みそれをゆっくり口の中で転がすように味わう素振りを二人に見せた。
ヘンリも勇作も和尚に習ってほんの少し口に入れて見た。
おや?甘くてトロリとしている。これならいくらでもクイクイいけそうじゃないかと思ったが、和尚の言う事を聞き和尚を真似て、隣の湯飲みのお茶を時には飲みながら和尚の話を聞いた。
和尚は辺りを見回して、きちのいない事を確かめると内緒ごとを言うように、小さな声で「実はな。」と話し出した。
「信女は子供を生んだ事がある。その子供があのきちだ。」と言った。
二人共びっくりしてしまった。
何も言えず呆然としていると更に和尚は、
「あのきちがいくつになった年だったかナ。十三か四の頃だろうか。もっといってたかな?儂が体の調子を壊して一度倒れた後だったナ。この寺にはまだ若い弟子が三人いた時じゃった。あのきちが、いきなり、和尚様何かと御不便でしょうからお手伝いに上がりました。と言ってここに来て居付いたんじゃヨ。儂は自分が倒れて初めて若い坊主達が慌てふためいているのを見て、自分もいつ何時、どうなるか解らない。それに皆、本山に行く年頃にもなっている。あれこれ寝て考えている時だった。それがまるで頼まれたようにきちが来たんじゃ。きちはあの通り口数の少ない娘だが、あの時も「おっかさんが和尚様をお助けしなさいと言いました。」と一言言ったきりだった。それがまるで自分の親の面倒を見るのは娘として当然だという雰囲気で儂は随分当惑したものじゃった。儂は困っていたところでもあったし、そのままきちの世話になった。やがて床上げをして歩けるようになった時、儂は信女の所に行って礼と何故きちをよこしたと問いただしたが信女はなーんにも言わずただ笑っているだけだった。それ以来きちは信女の所に帰らずに儂の世話をしてくれている。あの後、若い坊主達をあちこちにやってからは儂一人だけじゃからのー。今となってはあれがいなくてはどうにもならんのじゃが。きちは儂を父親だと思っているふしがある。思い返してみると儂は坊主であるからして、世間の男共のように夜這い等した事はないが、もしかしたら、された事はあるかも知らん。」と一言ポツリと言った。
そう言いながら、照れ隠しなのかグイ呑みの甘い酒を一口、口にふくんだ。
勇作は「えーっ?そうなんですか?」と言って笑った。
ヘンリは訳も解らず何の話かと思っていると勇作がヘンリに“夜這い”とはこういうものだという事を説明した。
二人共まだ若い青年である。
甘い酒が手伝って赤い顔をしている。
それを切り替えるように和尚はヘンリに向かって、
「他に何か気が付いた事はなかったのか?」と聞いた。勇作が通訳して、
「あの泉でお婆さんは長い事手を合わせて拝んでいました。」と言うと、
「ああ、信女は水の神さんにお参りしていたのじゃろ。」
「水の神様?」とヘンリがまた聞いた。
「ああ、そうじゃよ。水の湧き出る所には水の神様。海には海の神様。下の平地には田んぼがあったじゃろ?田には田んぼの神様。畑には畑の神様。そして山には山の神様。道端には石仏様。この国は沢山の神様、仏様で溢れているんじゃヨ。」
和尚の顔も赤らんで甘い酒にもうすっかり酔っているように見えた。
だが、まだぐい吞みの中は空にはなっていない。それなのに仏教と言う仏の道に仕える和尚がこんなに気安く他の神様の事を話して良いものだろうか?
ヘンリは不思議に思った。それがつい顔に出たのだろう。
「異国から来たヘンリから見たら、この国は不思議に見えるじゃろーのー。じゃがの、この国では“八百万”と書いて“やおよろず”と読むんじゃが、どこにでも神々がおいでになる。そう考えておるんじゃヨ。そして朝に夕にその神々様にいつも敬意と感謝の気持ちを持って生きておるのじゃ。台所には台所の神様、火には火の神様。厠には厠の神様がいる。ありとあらゆる所に神様はおいでになるのじゃ。だから勇作は当たり前に知っておろうが、どこの家に行っても亡くなった御先祖様の位牌をまつる仏壇の他に神棚があるのはこの国では当たり前で少しも不思議じゃない。だが異国から来たヘンリは不思議に思うじゃろ?ヘンリの所はキリスト教か?」と聞いた。
ヘンリが頷くと、
「そのキリスト教の中にもいろいろあるんじゃないのかネ?だが信ずるのは一つだけ。それ以外のものは同じキリスト教でも相いれないんじゃろ?大抵の国ではそうじゃろのー。だがこの国は違う。仏教を信じている家でも神道もまた大事にする。他に漁師の家では海の神様、豊漁の神を奉るし米を作っている所では田の神様。他にも柱や梁には火の神様だの、何々の神様と時には両手に余る神様のお札を貼っている家もあるんじゃ。しかし、儂らはそれを見ても何とも思わない。盆、暮れに方々の家にお参りに行くんじゃがお経をあげて帰って来る時も他の神々様のお札の下をくぐりながら少しの違和感も不快感も感じた事はない。昔からこの国はそういう国なんじゃ。昔はキリスト教が入って来てそれが禁止された事があった。その為に犠牲になった人がいる事も知っております。だが今はまた、元のように他の宗教を厳しく抑える事もなくなった。どこの誰が何を信じようとあからさまにそれを批判する者はいない。自分が信じたいものを信じれば良い。坊主の儂が言うとかなり生ぐさないい加減な坊主に聞こえるじゃろうが、皆が頼りにする肝心な元々の根っこは同じなんだと儂ゃ思う。」
和尚は残りの湯飲みのお茶をグイと呑み干すと背筋をピンと伸ばすようにして、
「確かに偉大なお方はこの世におわします。」と言った。
我等
人間が、どうあがいても太刀打ち出来ない偉大なお方は確かにおられます。
そして、どこからか我等のする事なす事、考える事までも一人残らず些細な悪事も見逃さずにじっと見ておられます。
その方の前にあっては我々人間はあまりにも小さく非力で弱い。人間という者は、どんなに賢そうに振る舞っても愚かで過ちの多い悲しい生き物なんじゃ。偉大なるお方から見れば人間など地べたを這って必死に何かを運んで働いている蟻よりも小さく見えるだろうヨ。そんな偉大な方の事を私達人間は神と読んだり、阿弥陀様と読んだりアラーの神様だと言ったりしてあちこちで自分の信ずる神様だけが本当の神様だと信じておるのじゃと儂は思う。だがのー、自分の信ずる神様の他は間違いなんだと他の宗教をなじったり抑え込んだりするのは馬鹿馬鹿しいと思わぬかのー。第一、そんな偉大なるお方がこの世の中にそう数多くおられるものかネ。そうは思わないかネ。そんな偉大なる方々が自分こそが一番だとお互いに喧嘩をしたらどうなる?この世の中はたちまちに無くなってしまうだろう。だから偉大なるお方は唯一人なのだヨ。その唯一人の方をそれぞれ違った形で拝みたたえているんじゃヨ。結局は根は一つなのだから拝み方が違うといって他の宗教を否定してはいけないんじゃ。皆、大いなるものにすがりたいんじゃ。生きて行くのは辛い事ばかりだからのー。信心はお好きなような形で信心なさい。だけれども私はこの信じ方が自分の生き方に似つかわしい。だから私は仏教を信じます。そう言う方がいたなら結構というものです。」と言ってから、
「実は儂も若い頃はこうではなかった。仏教に熱心になるあまり、他の宗教に嫌悪感を抱いたり否定する気持ちも起きた。じゃが、この年まで人間をやっているとあらゆる物事を少し離れた所から静かに見る事が出来るようになって来るんじゃ。そうだのー、人間社会を大きな渦と考えるなら、人々はその渦にもまれ振り回されながら泣いたり笑ったり苦しんでおる。だがその当人達は自分の今いる位置も何故苦しいか何故悲しいかもよく解っておらん。目先の事のみがすべてだと思って嘆いておるんじゃから。儂も先にはそうじゃった。じゃが長い事その渦の中にいたのに、もう先も長くない儂のようになると、いつの間にかその渦の中からはじき出されて、その渦の外から眺められるようになるんじゃ。するとな全ての人も物事もいとしゅう見えるものなんじゃ。怒っている者も、泣いている者も、わめいている者も皆、一様にいとしゅう見えて来る。そういうもんなんじゃ。ヘンリ、勇作、お前様方も儂のように長生きすればきっと今の儂の気持ちが本当に解る日が来るだろうヨ。そしてキリスト教の人達も仏教の人達もアラーの神の人達もみんな、みんな、幸せにおなりなさい。そんな気持ちになってくるものなんじゃヨ。」
「ああ、今日は随分喋った。ヘンリ、変な坊主の戯言を聞かせたが、これがこの国の中の坊主全員の言葉ではないからナ。そこを間違えないで下さいヨ。勇作、そこの所をしっかり通訳して下さいヨ。あーあ、眠くなった。」
和尚はすっかり酔いが回ってしまっているようだった。
いつの間に来たのか、きちが和尚の体を支えるようにして連れて行った。
それはまるで年老いた父親を介抱する娘のようだった。
老いて枯れ木のようになった和尚。
その和尚の姿が見えなくなると、若い二人は手元のぐい吞みに残った甘い酒を一口にクイッと飲み干した。
舌に甘いとろりとした味わいを感じた後、すぐに喉を通る時カーッと熱いものを感じた。
勇作は立ち上がって帰ろうとして少しフラリとした。
ヘンリは「大丈夫ですか?帰れますか?」と声を掛けた。
勇作は振り返って赤い顔で、「ここを下ったすぐの所ですから大丈夫です。」
そう笑って帰って行った。
その後ヘンリは自分もようやっとの思いで部屋に行き、敷いてあった布団に倒れ込むとそのまま眠りの中に落ちて行った。
ヘンリには見る物、聞くもの、何もかもが珍しく、そのいちいちをノートに書き記す事にしていた。
自分に文才があるのかないのかどうかは別として、その時の感動をひたすら記すことにした。
早朝や夕暮れの凪いだ海、赤く染まった空、この感動は自分だけの宝だ。
しっかり目の奥に焼き付けておこう。
この景色の中にいる自分。
この空気を吸って夢のような中にいる自分。
ヘンリ・マコーミック現在二十三歳。
自分は今正しく若く体も心も健康だ。
好奇心も旺盛で慈悲の心も持っている。
そりゃ祖父母や両親程には宗教心に熱いとは言えないが、まずまず成人男子としての良識は持っている今のこのひと時、この一瞬一瞬がいつか自分にとってかけがえのない宝になるだろう。
ヘンリはこの地に降り立って以来なおも醒めずにいる興奮をあたかもこれが青春の証のように思いながらノートに書き続けた。
自分を降ろした船は今頃どの辺を進んでいるだろうか。
“江戸”という所は賑やかな所だという。
だが何故か自分はそこを捨ててこの地を選んだ。
この静かな美しい場所でしばしゆったり時を過ごす事を選んだ。
果たしてこの旅を終えた時、またいつか年老いて振り返った時、その選択をどう思うだろうか?チラリとそんな事を思わないでもないが、若さの衝動でこの道を選んだのだ。
選んでしまったからには別の道を考えたって仕方がない。
そう気持ちを決めるとエエーイなるがままよ!そんな気分になってその日の夕方寺で出された夕食はお腹いっぱい食べた。
米の白い飯に味噌汁と漬物と里芋の煮物、のりの佃煮という簡素な食事だが美味しかった。
きちさんという女性が食事が済むとお膳をさげて熱い濃い茶を出してくれる。それがまた旨い。
ヘンリは夕食が終わると勇作が帰るというので、一緒に外に出た。
勇作は登って来た一本の坂道を帰って行った。勇作の後姿を見送りながら、こうしてみると寺はかなりの高台にあるのだった。
一本の坂道といってもその道は斜めにジグザグに出来ていた。
少しでも傾斜をゆるくしようとそう作ったのだろう。
ヘンリはそのジグザグの道を行く勇作の後姿をすっかり古くからの友人のように見送りながら満足した気分になった。勇作の姿が小さくなるとやがて大きく息を吸って寺に向きを変えて入って行った。
日はまだ残っていたが和尚は明日法事が入っているとかで雑事に忙しいらしく今日はきちが手ぶりで最初と違う部屋に案内してくれた。
今までの部屋は明日法事に使うのだろう。恐らく寺の中の一番端の部屋らしく、障子を開けると下の方に段々畑が見え、更にその下には遠く海が見える。
夕暮れの静かな内海は穏やかでどこまでも静かでヘンリはこの部屋がとても気に入った。
布団は既に敷いてあった。
灰色の敷布団も同じく灰色の薄い掛け布団も敷布もよく陽にあてて洗濯されているのか少しゴワゴワ硬いが清潔なものだった。
きちは何か話して立ち去ろうとしたのでヘンリは意味が解らず、
「すみません、もう一度。」と勇作から聞いたたどたどしい日本語で聞いた。きちと少しでも友達になりたいと思ったのだ。するときちは少し怒ったような顔で、
「ごゆっくり」と言うと後はニコリともしないでサッサと行ってしまった。
日本の女性は皆、こうなのだろうか?
ヘンリは少しがっかりしたがだけれども、寺の中はどこも黒光りする程きれいに磨き込まれているし、どこかシンとして清潔ではあるし、食事も時に味噌汁という日本のスープをヘンリは気に入った。恐らくきちは料理も上手なのだろう。寺の食事だから肉や魚は出ないのだと勇作から聞かされて覚悟していたが、ヘンリは満足していた。
それに食後の緑茶は特に気に入った。
今まではコーヒーを飲んでいたがこれからは国へ帰ってからも緑茶にしよう等と考えた。
ヘンリは布団にゴロリと横になりながら、ノートにしきりに今日の出来事を書き記した。景色やこの寺の様子、食べた物の事等等。そして書いたものを読み返して満足した。
そして最後に「ごゆっくり」とアルファベットで書き記した。きちが自分に向けて話した大切な言葉だった。
意味は明日、勇作に聞いてみよう。
きちという女性は不思議だ。
一度も笑顔を見せた事がない。常に影のように和尚の世話をし、寺をピカピカに磨き一生を終えるのだろうか?きちの喜びはどこにあるのだろうか等とヘンリは漠然と考えたりした。
ヘンリは昨夜ノートに書いたものをそのままにし疲れて眠ってしまったらしい。
障子がかすかに明るくなったので目が覚めた。
窓を開けて外を見るとまだ薄暗いが確かに新しい朝だ!
新しい朝の空気を胸いっぱいに吸い込んでいると急にヘンリは外に出たくなった。
そう言えば寺の上の小道を行くと滝があると和尚が言っていた。
今から一人で行って見よう!
急にそういう思いが起きた。
待っていれば朝食の済む頃合いを見計らって勇作が顔を出し、二人でその滝に行く事になるのは間違いなかったが、ヘンリは若い青年が持つ冒険心の常で一人でそこへ行ってみたくなったのだ。
朝はまだ明けきっていなかった。
下の方の畑や海辺ではどうか知らないが、この山寺から上の道にはまだ人影もない。空はまだ薄雲に覆われているせいかいつもより薄暗く、そして時々登って行く先をフワッと雲が流れて行く。何て神秘的なんだ!今、自分は世界で一人っきりだと思う。こんな中にいると何故か胸がいっぱいになりヘンリは突然人恋しい気分になった。国にいた頃知り合いだった女性を思い出してみた。友人達の中には女性も何人かいたがその中でも何故か静かで目立たないスーザンを思い出した。
スーザンが今ここにいたら、こんな不思議な所を見たら何て言うかナ?
きっと驚いて喜んでくれるだろう。オオーッと感激してくれるだろう。
しかし、自分自身もそうだが異国人の自分達はこの土地の持つこの不思議さには似つかわしくないかも知れないと思い、スーザンの事はすぐに頭の中から打ち消した。
ここは感動しても大袈裟に騒ぎ立ててはいけない神聖な場所なのだから。
細い山道を登って行くと、どこからか幽かにドーッという水の音が聞こえて来た。
滝だ!滝がすぐ近くなのだ!
はやる思いで更に登って行くと、果たして行く手には細いが長い美しい滝が見えて来た。その滝はいかにもこの国らしい滝だった。
ヘンリが覚えている滝と言えば幅広い豪快な滝だが、この国のはそういうのとは違って細い絹糸を幾十も束ねたような細くて美しい姿をしている。
そして両側から滝を飾るように木々の枝や葉がのびていて、その木々の葉が濡れているのもいかにも絵のような風情を醸し出している。
辺りの木々はそのしぶきに濡れながら嬉しそうに震えている。
ああ、これこそ日本の滝だ!
ヘンリはまたも若い心故に感動してしまった。
確かにヘンリでなくとも早朝のそこは霧と滝のしぶきで清められた空気はひんやりして格別滝を厳かに感じさせる。
この空気を暫らく吸っていれば、体を流れる血液も肺の中までもすっかり浄化してくれそうな気がする。
ヘンリは暫らくそこにいて幾度も深く息を吸い、この場所の一種魔法がかかったような神秘さに酔いしれた。
そして、すっかり清められたような気がした。やがて落ち着くと自分が空腹なのに気付いた。まだ勇作の来る時分には早いがそろそろ寺に帰ろう。
そう思って滝を離れてやはり斜めにジグザグの道を下り始めると、下から登って来る人影がある。その人影はまるで霧に守られるように露をまといながら登って来るようだった。
だから少し離れてはいるしまだ男か女か解らない。こういう様子を見るのもヘンリは初めてだった。
こんなに朝早く、こんな場所にやって来る人もいるのだナーと思いながら、自分も相手からはそう見えるのだろうかと思い苦笑した。
そうだ覚えたての日本語で挨拶をしてみよう。
「おはようございます。」だったかナ?そう心づもりをしながらヘンリはゆっくりと下って行った。
やがて距離が近づくとそれは女の人だという事が解った。
しかも年寄りや年配の女房ではなく若い女性のようだ。薄い白っぽい色の着物を着ている。
ヘンリはこの旅の為に参考に読んだ書物の中に幽霊の箇所があった事を思い出した。
その幽霊は髪を長く伸ばし白っぽい着物を着ているという。
もしかして、これはその日本の幽霊というものか?
緊張して待ち構えていると、その水色の着物を着た女性はすぐヘンリの近くまで来て、呆然と立って自分を見ている背の高い異国人をチラリと見るとすぐに目を伏せてかすかな会釈をして通り過ぎて行った。
そのせつなのチラリとこちらを見た目の美しかった事。
しかもそのすれ違い通り過ぎた後にフワリとあのみかんの花の香りがした。
ヘンリは「おはようございます。」と言葉を掛けようとした事も忘れてただボーッとその人の後姿をみているばかりだった。
美しい人だった。
本当に美しい人だった。
この国に来て初めて見る美しい人だった。
ここに来て幾人かの老若男女を見た。中年の男やその女房も見た。
もちろんヘンリは若い男だからこの国の若い娘はどんな姿形をしているのだろうと若い女性には特に興味深く見た。
その娘達はおおむね小作りで特別太ってはいないが健康的で肌の色も小麦色で笑うと愛嬌がある素朴な顔をしている。
そう感じ取った。
しかし今すれ違った娘は違っていた。
姿からして違う。
スラリとしていてあの素朴で健康的な娘達とはどこか違った。
こう言っては何だが、この国にはそぐわないどこか異国的な雰囲気を感じたのだった。
何故だか解らないが瞬間そう思った。
背が特別高かった訳ではない。
だけれども全体の体の作りが今まで見たこの国の人とは違う。
これは、もしかしたら狐だろうか?
ヘンリはまたもや書物の中にあった狐(むじな)に化かされる話を思い出した。
自分は今、狐に化かされているのか?
振り返って見ていると、やがて娘の姿は途中の木々に隠れて見えなくなってしまった。
それにしてもあの狐、いや娘はどこに行くのだろう?
ヘンリはこの不思議な体験を簡単に途中で諦めてそのまま帰ってしまう事は出来なかった。
もしも狐に化かされているのならトコトン化かされてみよう!
そう思いきると寺に帰るのをやめて、また今来た道を戻り始めた。
あの娘はどこへ行くのか?
こんな薄暗い早朝に?
やはり人間ではないのか?
木々に隠れるようにヘンリはついて行った。
娘はやはり滝の方へ行こうとしているのであった。
何故、こんな朝早く滝に?
ヘンリは娘に見つからないようにそっと慎重について行った。
すると娘は先程までヘンリがいた滝の側に着くと、そこでおもむろに着物を脱ぎ始めた。
えっ?えーっ?
思いがけない事でヘンリは仰天してしまった。
やはり自分は狐に化かされているのか?
いくら狐だとしても若い娘の姿だ。
見てはならないような気がして思わず目をつむった。
だが、娘が水色の着物をハラリと脱いだ下にはまだ真白な着物を着ていた。
ヘンリは少しホッとしながら、しかし何をするつもりだろう。
あまりの不思議さに息を吞んで木々の陰に隠れて見ていると、娘はその白い着物の姿のままで更に水が絶えず上から激しく流れ落ちる滝壺の方へ歩いて行った。
そして、その前で一度手を合わせると今度は思いきったように滝の下へ入って行った。
声は聞こえてなかったが、その瞬間は相当の覚悟がいったろう。
ヘンリは自分の事のようにその水の冷たさを感じ身を固くして見ていた。
滝は容赦もなく娘の顔と言わず肩や背、全体を一瞬にして覆いなおも激しく打ち続けている。
娘は手を合わせてそれに耐えて打たれているのだった。
寒いだろうに。冷たいだろうに。
これが何かの修行なのだろうか?
この国の人達は何という事をするのだろう?
ヘンリは今すぐにも走り寄り娘の手をとり、その場から助け出したい衝動に駆られた。
だがこの土地の事を何も知らない自分。何か訳があるのだろうか?
どんなに寒かろうが冷たかろうが、邪魔をしてはならないと思った。
あまりにも痛々しい光景に、ヘンリはもうそれ以上見ていられずにその場を離れると、一目散に走って坂道を飛ぶように帰って来た。
走っただけではなく、女の痛々しい光景を見て胸がドキドキし、あの水の冷たさを想像すると体が心なしか震えていた。
だが寺ではあの滝とはまるっきり違う空気が流れているようだった。
どこからともなく朝餉の香りが漂い、のどかな雰囲気の中で皆がにこやかにヘンリを迎えてくれた。ヘンリはあの異常な世界から帰還してホッとした。
寺では朝食の準備が出来たのにヘンリの姿が見えないのでどこへ行ったのかと思っていたらしい。和尚も朝の権行を終えて用意された御膳に着いた所だった。
ヘンリは心を落ち着けると意識して笑顔を作り、「おはようございます。」と型通りの挨拶をして深く頭を下げてから御膳の前につき正座をした。
すると年老いた和尚はニコニコしながら、「はい、おはようさん。正座は慣れなくて大変ですじゃろ。くずしなさい、くずしなさい。楽にして食べなさい。」と身振り手振りを加えながら話したので、ヘンリにも解りヘンリは嬉しくなって正座をくずした。
ヘンリはそれで急に先程からの驚きも、正座の緊張からも解放されて温かい寺の朝食を黙々と食べ始めた。
この苦行のような正座はどうしても慣れる事が出来ない。
この国の人達は誰もかれもがそれを当たり前のようにして、しかも長時間何の苦も無く正座をしているのだから、それも不思議の一つである。
これはきっと下半身の骨組みや筋肉が自分達と作りが違うのだろう。そう考えたりしてヘンリは食事中も向かいに座る和尚や、横で食事の世話をするのにきちんと正座をしているきちをチラチラ見ながら思った。
二本の棒で出来ている箸の使い方は少しずつどうにか使えるようになった。
おぼつかないまでも大きな物は、はさんで食べられるようになった。少しずつ出来るようになると面白い。
白い米の飯と味噌汁という日本のスープ、それから野菜を塩漬けした物、こんにゃく煮物か里芋の煮物。いつも決まってこういう品数だがそれも慣れて来た。
食事が済むとお膳が下げられお茶が出される。熱くて濃い日本の緑茶だ。
和尚の好みなのか、それともきちの好みなのか食事の後のこの濃いお茶はとてもいい。
大ぶりの大きな茶碗になみなみと入った茶をフーフー言いながら時間をかけて飲む時間がまた、何とも言えない満足感を与えてくれる。
その日の朝も食事が終わってゆっくり茶を飲んでいる所に勇作がやって来た。
いつも感心するのだが勇作はいつでもきちんとしている。身だしなみもそうだが、挨拶する時の様子を見ていてもきびきびとしていながら折目正しくそれでいて堅苦しく無く、妙にニコニコする訳ではないのに、いつも爽やかさを感じさせる。
朝食を済ませた頃と約束すればその頃合いを見計らって丁度良い時分にやって来る。
全てにおいて信用出来る人間だ。
ヘンリは勇作を見ていていつも思う。
同じ年頃の自分の友人達の中に、これ程きちんとしている人間がいただろうか?と思い返すが見当たらない。勇作は仕事というばかりでなく生来、きちんきちんとしたものが身に備わっているのだろう。
この国の人達は皆、そうなのだろうかと考えたりもする。
きちが勇作にも茶を入れて出した。
和尚とヘンリと勇作はきちの入れた濃いお茶を両手で抱えながらしみじみ味わった。
あー、これがこの国の時間なのだ。
ゆったりとのどかに流れて行く時間。
空の雲がゆったり流れるようにここの時もゆったり流れて行く。
昨日は法事があったが、和尚も経は何の予定もないのだろう。
いつになくのんびりした雰囲気だ。
ヘンリは急に今朝出会った不思議な出来事を話してみたくなった。
ヘンリは和尚に顔を向けながら今朝の事を話し始めた。
それを勇作が通訳して和尚に伝えた。
和尚はフンフンと頷きながら聞いていた。
話し終わったヘンリが、「最初、狐かと思いました。」と冗談のように言って、勇作がそれを訳して伝えても和尚はいつものように笑いはしなかった。
どこか神妙な顔で聞いていた。
「こんなに朝早く、山奥の滝まで行って滝に打たれるなんた尋常な事ではありません。あれはやはり普通の人ではなくて、この国の昔話に書かれているもののけか狐なのでしょうか?」ともう一度重ねて聞いた。
自分でもかなり幼稚な事を聞いているのは解っていたが、和尚から何らかの答えを聞き出すにはどうしてもそう聞かない訳には行かなかったのだ。
通訳する勇作もこの話には興味をそそられるらしく、ヘンリと勇作の二人の若者は和尚がどんな返答をするのかとお茶を飲むのも忘れて待った。
木で言えば、すっかり枯れ木になったような細くしわだらけの小さな和尚はフンフンと頷いてばかりでなかなかこちらを見ようともしない。
ゆっくりと物思いながら湯飲みのお茶を飲んでばかりで何か話す事をまとめているようだった。
そしてようやく「それはの、きっと”まお”じゃ。」と言ってから、「可哀想にのー。」と言った。
勇作はすぐにヘンリに、彼女の名前はまおと言う。和尚は彼女を可哀想だと言っていると訳して教えた。
それを聞くと、ヘンリと勇作は同時に同じことを聞いた。
「それは何故です?」
和尚はそれから一連の事を話し始めた。
まおという娘はあの通り美しく生まれ育ったばかりに今災難の中にいると言うのだ。
あの娘には両親がいない。
ヘンリさんも勇作さんも二人共、信用出来る人物と思うから打ち明けるがと前置きして和尚は話し始めた。
「そもそもの始まりは今から二十年近く前の事じゃ。この村の庄屋を務める者の息子が中々頭が良く長崎の方に出て勉強していたかと思ったら一人の女を連れて戻って来た。そして親達に自分の嫁だと紹介した。その嫁はきちんとした武家風の身なりをして作法も心得て顔も愛らしく申し分なかった。だが問題なのは息子の親達が嫁にどこの出か、親の名前は何と言うか?そういう事を聞くと貝のように口をつぐんで何も言わなかったんじゃ。息子も嫁をかばって、事情があって家を出てきているのでそれは話す事が出来ません御勘弁下さいと言うばかりだった。だからと言ってそれを聞かずに許す訳には行かない。代々続く庄屋の家柄、後になってとんでもない事実が解り大問題になりおかみから頂いた名字帯刀を許されたこの家柄を自分の代で途絶えさせる訳にも行かぬと、父親も母親も親族も詰め寄って聞こうとしたが、二人は頑として何も言わなかった。とうとう息子は、私はこの家を継ぎません。妹に継いで貰います。私は分家して他に住みますから、それなら問題はないでしょう。そう言うと家を出てしまった。本家を出てこの寺の少し下った所に二棟続きの家があったろう?あの小さな家を建てて貰いそこに分家してしまったのじゃ。それから長崎で五年ばかりの勉強して来たという医術の腕を生かして自分達が食べる為に具合の悪い人がいたら診るという事を始めたのじゃ。場所はこの通り里から上の方にあるし。目立たない場所だし。とても病人等来そうにない所だと思ったが、病をかかえる人はどんな所でも探して来るもので、すぐに若い夫婦二人が食べて行ける程の患者はそこそこ来ているようだった。儂も誰かから相談されなければ自分の方から首を突っ込むのは出来るだけ避けておる。仕事柄、あちこちからいろんな噂話が耳に入って来るので、おおよその事は解っておった。だが、その息子の妻女を目にする事はなかなか無かった。
噂ばかりが耳に入って来るので、実は一度はこの目で息子と嫁を見たいものじゃと思っていたんじゃ。
幼い頃の利発そうだった息子がどう成長してどんな嫁さんを連れて来たのかと思ってナ。だが親元から勘当されたようになっている二人に儂の方から出向いて行くのは少々はばかられてのー。
そんなある日、里の方から法事を終えて帰って来ると、どこからか女の人の唄声が流れて来たんじゃ。美しい声だった。
だが、その節回しと言い、よくは聞き取れないその歌の歌詞といい、どうも馴染みのないものじゃった。
儂が知り得る限り、この国のものではない唄のように感じたのじゃ。
もしや、南の方の琉球という国の唄じゃろうか?それなら…?等と考えたりした。
儂はしばし立ち止まってその歌に聞き惚れた。うっとりするようなそれでいて悲し気なその歌は何と唄っているのか聞き分けようとした。
その女は小さく小さく小声で唄っているつもりだろうが、高い美しい声ゆえに、どうしてもこちらの耳に入って来る。
誰が唄っているのだろう?
もうその頃にはおおよその見当はついたが、儂は興味をそそられてそこを離れて寺の方へ登って来る事をしないで、首の丈程の垣根越しにその垣根の中に植えられている背丈の高い葉の陰になっているその人を見たさに思わず声を掛けてしまったのじゃ。
こんにちは。この上の山寺の和尚じゃが、どなたかおられるのかネと。儂が声を掛けると今までうっとりと唄っていた声は突然驚いたようにピタリと途切れてしまった。儂は申し訳ない気持ちがした。
するとその葉の陰から一人の女性がおずおずと現れた。
「はい、どなた様でしょうか?」と言う。
言葉遣いは丁寧でしっかりしている。美しい女性というより愛らしい面立ちの女性だった。さては噂の嫁さんだナと思って、突然声を掛けて申し訳なかったと詫びてからこの上の寺の和尚だともう一度名乗り、
「あまりにも美しい声の唄だったので、どんな方が唄っているのか坊主ながら気になったものだからと。」儂がそう冗談めかして言ったら、ただ笑って照れるかと思ったら、みるみる顔色が青くなって怯えたような顔をするんじゃ。
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