昔話 ヘンリの見た夢/第1話

やまの かなた

第1話

私の頭の中に、ある日、一人の異国の青年が現れました。

その青年は素晴らしく美しく、将来有望な青年ですが、どういう訳か、いつか小耳にはさんだ海の果てにあるという“日本”という小さな島国の事が気になり、是非、この目で見てみたいという思いに囚われ始めます。

そういう気持ちでいる時に更に友人が“日本”から帰って来た知人の話を持って来て聞かせます。

ハートがまだ純粋で感受性が強く好奇心いっぱいで、その好奇心に突き動かされて、自分の中から湧き上がる第六感で、ひたむきに、何かを追い求めて行く。そんな若い頃にしか出来ない勇気を持った青年が、その昔に、確かにいたと思います。

名前は何故か“ヘンリ”と浮かびました。

ヘンリは、その昔、まだ神秘的だった島国“日本”で、何を見、何を体験したのでしょう。




若い頃は二度と帰ってこないものだ、だからこそ、悔いの無いように進むのです。


今から大分昔の事、

純粋で美しい異国の青年ヘンリは

東洋の海に浮かぶ小さな島国に憧れて

とうとう“日本”にやって来ました。




 友人からの話を聞いた時、

「やっぱり、この国の美しさは噂通りなんだ!」若いヘンリは、この度も人づてに聞く夢のように美しいという、その不思議な国を思い描いてみたが、どんなに思い描いたところでそれは幻でしかなく、たた歯がゆいばかりだった。

やっぱり、この目で見てみたい!と狂おしい程、強く思うようになっていた。

そう思い詰めると矢も楯も堪らず、友人、知人に協力を願い出た。だが親や兄達には反対されるのは解りきっていたので頼まなかった。

どうにもお金の工面が出来ないので、最後には自分を可愛がってくれている年老いた祖母の所に行った。祖母は自分の為に遺産を遺してくれると言っていたので、恥を知りつつ優しい祖母に気持ちを打ち明けた。

祖母は美しく成長したヘンリの顔を眩しそうに眺めながら快く援助してくれた。

世界中にヘンリの見た事の無い国は山程あるというのに、どういう訳か東洋の海に浮かぶ島々で出来た“日本”という小さな国がヘンリを虜にしたのだ。

それは、かつて日本を訪れて帰国した夫妻が揃ってこの国を気に入り、自分の国に帰ってからも非常に懐かしみ、それを誰かれ構わず宣伝したのが、やがて、ヘンリの耳に届いたせいだろうか?

そういう人の旅の思い出は過剰に美化されるものだが、“瑞々しく夢のように美しい”という言葉がヘンリの柔らかい心を捉えてしまったのかも知れない。

とにかく青年は雷に打たれるたように、その思いに夢中になり“今、行きたい、今行かなければ自分は必ず後悔して後々の人生を台無しにするに違いない”

そこまで思い詰め、切羽詰まった気持ちになったのも、後で思い返して不思議な程だった。

人は、長い人生の中でそれ程までに思い詰める事はそうある事でも無いし、例えあったとしても、いざ実行に漕ぎつける迄には、かなりのエネルギーを要するものだ。

大抵は途中で無理だと解って諦めるものだが、丁度その時、ヘンリは若くてお金は無かったが、大学卒業という一区切りの所にいたのである。

卒業後は、人も羨むような道も保障されていたが、果たしてこれで良いのかどうかと迷っている所でもあった。

若くて、時間が十分にあり、未知の

世界への憧れとそこに自分を置いて改めて将来の事を考えたい。そういう事が総じてヘンリの背中を押したのかも知れない。



当時は、大分昔の事でもあり、ヘンリの国のその頃の人々にとって東洋の小さな“日本”という国は殆ど知られておらず未知の国だった。

だがヘンリは、何故かその目に見えぬ大きな力にいざなわれるように遮二無二という形で日本に向かう船に乗っていた。

舟に乗ってしまってから少し落ち着くと、

呆れかえって見ていた両親や兄達の理解できないといった顔を思い出した。確かにあの時の自分は熱病にかかったようだったと思う。だが、その時の気持ちは、今もヘンリを支配している。そう言う自分に、ヘンリは言い聞かせるのだ。

「あんまり期待するとがっかりするぞ!」

この世の中に夢のような国などあるものか!大海原を眺めながら、そう自分に言い聞かせて、万が一がっかりするときの自分の為に予防線を張ったりした。

やがて何日も海の上を航海した後、

水平線に水色の島が見えて来た。

誰かが“日本だぞーっ”と叫ぶ声を聞いた時、ヘンリの体は震えた。

ああ!ついに来たんだ!!周りから呆れられてまで夢中になり、自分の好奇心を揺さぶり何が何でもと思わせた見知らぬ国にとうとうやって来たんだ!

近づくにつれて、水色の島はやがて緑色に色を変え、その島国の方がヘンリ達を出迎えるように少しずつ少しずつ迫って来た。

その緑は実際目に染みるような瑞々しい若い色をしていた。

ああ、本当にそこはヘンリが今まで見た事もない景色だ!岩肌は少しも無くて、どこもかしこみ瑞々しい緑にこんもりと覆われている。

やがて船は大きな海から島々の間を縫うように通って中海に入るように進んだ。

その日は風も無く、海面は油を敷いたように穏やかでヘンリ達の乗った船は、既におとぎの国のその中に入り込んだように、緩やかにうっとりと進んで行った。

時々、どこからか雲のかけらのような物が船の傍をスーッとなぶるように通りかかる。それがまるでまたヘンリ達異国の人達を優しく迎えてくれるような挨拶のようにも思い、若いヘンリは些細な事にも感動した。

やがて船は、大きくもない入り江の少し沖合に停泊した。そして希望者を募り、もちろんヘンリをも含めた数人だけが母船から小舟に乗せられて美しい砂浜に着いた。

着いたそこは、いわばその国の代表的な土地ではなく内海の景色が美しい場所で有名という事だけだった。だが、“江戸”という大きな町に行くにはまだ大分距離があり、ここも古い寺等が多くある土地なので一時だけ停泊して降りたい者だけを降ろして一休みするという、いわばこれは船長のちょっとしたサービスだった。

だからそこに降り立ったのはごく一部の好奇心のある客だけだった。

多くの客は江戸が目的らしく船の中からこの見知らぬ小さな土地のこんもりした遠くの山々を眺めてくつろいでいた。

ヘンリはもちろん下船した。

何故だか自分でも解らないのだが、この最初の景色を見た途端、心を奪われてしまってああ、これが自分の求めていたものだ!そう思ってしまったのだ。

若い頃はなんにでも感動するものである。ヘンリでなくともそこの空気は今まで感じた事がない程美味しく、どこからともなく良い香りがするのだった。

聞くとみかんの花の香だという。

その良い匂いと共に霧か、細かい雨粒に今正に、しっとり濡れたばかりの緑が実に美しく鮮やかでヘンリは自分の目も体も今初めて目覚めた!という覚醒した感覚にまたまた夢中になってしまった。

ヘンリ他数人の客は、その土地に降りて案内の年老いた老人の後について少し歩き回った。

辺りの畑にはたまに人の影がポツリポツリと見えるが、誰一人声高に叫ぶ者も無く、ひたすら思い思いの自分の仕事に励んでいる。

ヘンリ達異国人の一行を見かけると、興味深そうにジロジロ見るかと思ったら、そうではなかった。

歩いて行くと、通りがかった一行を見、ヘンリと目が合った男がいた。

ヘンリがニッコリ笑い話しかけようとすると男はその視線にちょっと驚いてその後、いかにも隠していた恥ずかしい所を見られたように目をそらしまた、自分の仕事に戻った。

それが一人だけでなく、誰もかれも男も年寄りもそうなのだった。

まるで年頃の乙女のように恥じらいがあり、純粋で素朴で厚かましさが全くなく、いかにも初々しく愛しげな人達。

若いヘンリの目にはそう映ってしまったのである。

それが自分の持つ先入観かどうかまだ解らない。ただの思い込みかも知れないが。

だが少なくとも、今までヘンリが母国で出会った人達の中には一人として会った事のない人達だった。

今までのヘンリの頭の中には、

見知らぬ他人とは猜疑心と反抗心を持つ者か、図々しく挑戦的か、あるいは人を見下すような高慢さか、それ以外は大抵無関心の冷たい目が殆どだと思っていた。

いわゆる、誰もが自分の弱さを見せまいとし、自分の領域に立ち入る事を強くけん制するような雰囲気があるものだと考えていたのである。

だが、この国の人達は違うと思った。

自分こそが若くて柔らかい純粋な心を持つヘンリ二十三歳だったのである。

生まれて初めてこの島国という異国に上陸し、しかも下船する前からその美しさに感激し、驚きうっとりしていたのだ。

だから上陸して見て、この美しい景色にふさわしく奥床しい人々を見るにつけ、更にこの国を美化し、好感と更なる好奇心を抱いてしまったのも無理はない。

それにここの空気は何とも言えぬ良い匂いがする。人の感情は匂いによっても大いに左右されるものである。もう少しこのいい匂いのするこの場所にいたいとヘンリは思ってしまった。

噂に聞く“江戸”という町も見てみたい。

だが、この土地はどうにも去りがたい。

自分が求めていたものの答えを教えてくれそうな、そんな予感がこの匂いの中にはあるような気がする。

ヘンリは自分の国で大学を出たばかりだった。

代々、祖父を初めとし父や兄達も中央の役所に勤める家柄だった。

ヘンリもまた、大学で優秀な成績を修め、内々に重要な部署につく事が約束されていた。

父も母も喜んで、この度の旅行はその前の息抜きのような形で仕方なく許してくれたようなものだった。

だがヘンリの胸の内にはまだ迷いがあったのである。

このままで良いのだろうか?

自分には父や兄達のような仕事が何故か向いていないような気がする。

それならどのような仕事が向いているかと言えば確かなものは何も無く、ただ漠然と物書きのような仕事が頭に浮かぶばかりだったのである。

それかといって、何か書いた事があるかと言うと今までは専ら読んでばかりで、これといったものを一つ書き上げた事の無いヘンリだった。

一人頭の中で立ち止まり考えていた矢先、人の噂話に“日本”という国の事が友人を通して流れて来たのだった。

その時友人はこう言った。

「行って見て来た人の話によると、それは不思議な国だそうだヨ。大陸と違っていつもしっとりと潤っているような、人に例えるならば瑞々しい美女のような美しい国だそうだヨ。そこに住む人々の事は詳しく聞かなかったが、そんな美しい景色の中で日々暮らしているんだ。およそ想像はつくだろう。全体に男も女も小さくてしかも慎ましそうだというじゃないか。この地球上にそんな国があるのなら見てみたいもんだネ。」

そんな事を友人と話しているうちに、何故だかヘンリは自分の中にグイグイと日本という国に対して好奇心が膨らむのをどうする事も出来なかったのである。

そうしてその思いは、翌日には消え去るどころか日々募り、とうとうは

るばる海を渡って来てしまったという訳だ。

そのゆくたてを思い出しながら見る山々も空も海も、ポツポツ浮かぶ小さな小島も、何から何まで愛おしくみえるのはやはり不思議な事だった。

見上げた空に鳥が一羽、ピーヒョロと鳴いて円を描いたのを見た時は、まるで自分を歓迎してくれているように思えてならなかった。

突然ヘンリはまた新しい思いつきをした。

小舟に一緒に乗って降りた船長の部下に、

「ここに降りてまた帰り一緒に帰る事は出来ないでしょうか」と尋ねた



その船員は、

「これから“江戸”に行くのですヨ。そこには行かずにこんな静かな場所にずっといるというのですか?」と驚いたように聞いた。

「ええ、何だかここの土地が僕を歓迎しているように思うんですヨ。」

晴々とした顔で答えるヘンリに船員は呆れたようにしながらも、「船長に話してみます。」と言ってくれた。

「とにかく一度母船に帰って船長に話してみましょう。その時にはまた気持ちも変わるかも知れませんから。」と言った。

一時の気まぐれだと思ったのだろう。だが母船に帰ってその船から眺めたその土地はやっぱりいかにも別れがたく思われた。

船長は、「いいのですか?後悔はしませんか?」と何度も確認して、それでもヘンリの意志が堅い事を知ると、

「この土地は貴方の人生に大きく関わっているのかも知れませんネ。」

そう言ってニッコリ笑うと一人の青年を紹介してくれた。その若い男は背の高いヘンリから見ると、洋服は着ているが背も低く目の色も髪の色も西洋人とは明らかに違っていた。

彼の名は“勇作”と言った。

年はヘンリと同じ二十三歳。

日本人で通訳をしているという事だった。

勇作は皆と一緒に江戸へ行く予定だったのを船長が特別に彼をヘンリにつけてくれたのだった。

ヘンリは急に心強い気持ちになった。

勇作は体は小さいが目が生き生きとして、自分と心が通じ合う友人になれそうな気がしたからである。

帰りの船が立ち寄るまでの一ヶ月余りを勇作とヘンリはこの土地で過ごす事を承諾してもらい、ついにそこに降り立ったのだった。

勇作は英語も流ちょうに話したし、話し方もきちんとして紳士だった。

どこで身につけたものだろう。

ヘンリが不思議に思って聞くと、私は実はこの土地からそう遠くない所の出身でまだ十二・三の子供の頃、外国に憧れてたまたま立ち寄った異国の船に隠れて乗って、異国まで行ったのだと話してくれた。

下船する時見つかってどうなるかと思ったけれど、その船の船長がこの船の船長の友人で自分の家に連れ帰り、面白がって面倒を見てくれ言葉遣いはもちろんの事、作法やいろんな事を教えてくれた等、そういう事を話してくれた。

ヘンリは勇作の話を聞くと増々勇気が湧いてくるような気がして愉快になった。

勇作とヘンリは先程と同じ老人の小舟に乗って、二人だけこの土地に降りる事になった。

勇作は、「この村にも人を泊めてくれる宿を兼ねた家はあるけれど、もしも日本の事をいろいろ勉強したいと思うのであれば“寺”という所があるから、そこにお願いしてみてはどうか。」と言う。

「“寺”とはどういう所ですか?」と聞くと、

「教会のようなものです。でもヘンリの考えている教会とはずいぶん違うと思いますヨ。」

そう言っていたずらっぽく笑った。

老人の舟を降りて村の中程まで来ると、勇作は一本の登り坂を見上げながら、

「“寺”はここを真っすぐ登った所にあります。私はこの坂を下りた所の民宿が知り合いなのでここに泊まります。」と言って、一人その家に入って行った。

やがて荷物を置いて出て来て、そしてヘンリの荷物を持つと先に立って坂を登って行った。

途中に段々畑が広がっていて、その畑の中に仕事をしている人々の姿がポツポツ見えた。

何とも言えずのどかで絵本のような景色だ。

「ここは天国のような所ですネ。」ヘンリがそう言うと勇作は振り返って、

「それは光栄です。」と言って笑った。


勇作は有能な通訳だった。

ヘンリと会って小一時間も話をするとヘンリの望む所を理解したようだった。

自分自身がかつてまだ年のいかないながらも未知の物に憧れを抱き、見たい知りたいという思いに突き動かされて外国に渡った経験から来ているのだろうか。

細身の華奢な体からは想像も出来ないような確固としたものを秘めているような気がする。

目もこの国の人達にまだ見た事もないキラキラ輝く瞳で真っすぐヘンリの目を見て、ヘンリの心の中に入って来るような勢いを持っている。

ヘンリは勇作をすぐに気に入った。

この国の人は誰もが奥床しくて恥じらいを持つ大人しい人達ばかりと思うのは上辺だけなのかも知れない。

ヘンリは勇作を見てそう思った。

するとたちまちにまた、違う意味の好奇心が湧いて来るのだった。

この国の人達の考えを知りたい。

それは突然思いついた事だった。

ヘンリはそれを勇作に伝えた。


「私はこの土地の美しさに憧れて来ました。それは噂に聞いていた通りの美しさでした。先程、この地に暮らす人々も何人か見ました。あの人達はどこまでも奥床しく見えました。この美しい景色にふさわしい人達に見えました。ここに暮らす人々はいったい我々西洋人とは全く違うのでしょうか?宗教はどうですか?人の考え方は宗教に大きく影響されます。私が見た限りではここに住む人々は皆、誰もが善良に見え悪人はいないように見えます。この土地では一体悪人はいないのでしょうか?」

ヘンリが立て続けに質問すると、勇作はさも愉快そうに笑いながら、


「随分この国を誉めていただきありがとうございます。この国の者として嬉しいです。私も長い外国暮らしから帰って来た時は、この国は何て美しい瑞々しい国だったろうと改めて感動したものです。ですが、ヘンリにもおいおい解ると思いますが、その中に住む人々の中には、それぞれどの国にもある数々の諍いもあれば、人々の心の中には苦しみも悲しみもあります。それらを見ず知らずの異国の人達に見せまいというのがこの国の礼儀ですからネ。この国では異国の人に対してだけでなく自分の抱える問題はたとえ隣人にも出来る事なら知られず内々で隠して解決して、表面上は何事もないように穏やかに振る舞う所があるのですヨ。気持ちの表現の仕方は様々です。その国、その国で色々違うのだなーと私も改めて感じている所です。例えば、自分の身近で大切な人が死んだとします。誰もが悲しくて辛い。心の中を覗けるならそれは世の中の人達が皆、共通なのではないかと思います。ですが、その悲しみの表し方が国によって違います。ある所では身も世もなく泣き叫んで悲しみを表現する国があります。自分だけでは足りずに人を頼んで泣いて貰いその悲しみの大きさを表現するのです。でもここの国はそこが違います。その悲しみに耐えるのです。耐える事が美徳なのです。例え涙は押さえようがなくとも。その悲しみを表に出さずに耐えて耐えて耐え忍ぶというのがこの国の人達です。

貴方がた異国の人から見たなら、泣きもしない、無表情かあるいは客には微笑みさえ浮かべている様子を見て、それはいかにも情の薄い冷酷な人間に見えるかも知れません。

ですが、多くの場合人の目の無い所では、いつまでもいつまでも亡き人を思い出して泣いているというのがこの国の人達の表に見えぬ真実です。

それは生まれて以来、ここで育ち、この国で生きている人でなければ本当には理解出来ない事なのかも知れません。

ですから今、ここで一ヶ月程でこの地に生きる人々の心情を解ろうとしても無理だとはお思いますが、それでもヘンリ、貴方の目は知りたいようですネ。」

そう言って勇作はまたニッコリ笑った。

そのような事をゆっくりゆっくり話しながら登って行った。

目の前にやがて古い寺が迫って来た。

長い年月を重ねた古いどっしりとした門構えのその建物を目の前にしてヘンリは、ゴクリと唾を飲み込んだ。

果たして自分はここに宿泊出来るのだろうか?

勇作はヘンリを境内という中庭に残すと一人寺の中に入って行った。

恐らく異国人を一人ここに一ヶ月程宿泊させて貰えないかと交渉しているのだろう。

少しして勇作が戻って来て、

「了解していただきました。和尚様がお待ちです。さあ中にどうぞ。」

そう言ってヘンリを中に連れて行った。

先程くぐった山門には厳めしい恐ろし気な二体の仁王像が睨みをきかせていた。

ヘンリはさぞやこの寺の中にはあの仁王像のような僧侶達が多勢いて待ち構えているだろうと覚悟を決めて入って行った。

だがそこでヘンリを迎えてくれたのは一人の年老いた小さな、しかも優し気にニコニコした僧侶一人だった。

ヘンリがさぞ気の抜けた顔をしていたのだろう。それを察して年老いた和尚は、

「今、この寺は私だけです。それとここにいる“きち”と二人だけです。」と言った。

いつの間にか音もたてずに女の人が茶を持って現れてそっと茶を置いた。

和尚が八十はとうに過ぎているだろうと思われる年寄りなのに、その女性はどうしても年寄りには見えない。

地味な着物を着て髪も何もかも黒子のように目立たぬように陰に徹しているが色の白いきりりとした女だった。

地味な作りを見ると、四十歳は過ぎているだろうか?日本女性の年齢はヘンリには解らない。

ヘンリは紹介してもらおうと、

「奥さんですか?」と聞いた。

すると年寄りの和尚が欠けた前歯を見せて笑い、「いやいや、これはそういう者ではありません。」と言った。

「それでは娘さんですか?」と聞くと、

「はっきりした娘でもありません。」と言う。

勇作がそれらを通訳してくれる。

「それでは女中さんですか?」と勇作に聞かせると、「まあ家族です。」と答えてから、

「これは」コホンと咳払いをしてから、「大黒です。」と言った。

それを聞いて勇作が少しためらいながら、ヘンリに「大黒さんだそうです。」と紹介した。

ヘンリが「大黒さん?」と繰り返すと、そう言われた女はニコリともしない無表情な顔でその場をスッと離れた。

それ以来ヘンリはその女性を呼ぶ時、“大黒さん”と呼んだ。

するとその度に大黒さんと呼ばれた女性はあからさまにいやーな顔をした。そして何度かするとそれを訂正するように、「キチですから。」と言ったような気がした。

ヘンリは何だかその様子が気になって勇作に聞いてみた。

勇作は笑いながら、彼女の名前は“きちさん”と言うと教えてくれて、これからは“きちさん”と呼んだ方がいいとも教えてくれた。

勇作の話ではお坊さんは修行の身だから本当は妻帯せず、それらしい身の周りの世話をする人を側に置いてそういう人の事を大黒さんと言う場合があると言った。

ここの和尚さんは多分にちゃめっけのある人だからヘンリに冗談で“大黒さん”と紹介したが、勇作の目から見て和尚と“きち”の間にはそんな様子は見られない。むしろどこか親子のようにさえ見える。本当の所は解らないが。

とにかく何らかの事情で世間に対して大黒さんという事にしているのかも知れないと話してから最後に勇作は、

「あの和尚はひょうひょうとしているがなかなかの人物だと思う。」と話した。

とにかく、そういう曰くあり気な寺にヘンリはこれから寝泊まりする事になった。

それからの日々、ヘンリと勇作はあちこちに散らばる山寺を出来るだけ多く方々を見て歩くようにした。

この地方は古い寺が数多く散らばっている所なので、そのつもりで朝早く起き出掛けると一つや二つの寺は見て歩けた。

ある日もヘンリと勇作がその辺りの野道を歩いている時の事だった。

道のあちこちに小さな野仏が置いてある。

ヘンリが、「これは何ですか?お墓ですか?」と聞いた。

勇作は、「これはお墓ではありません。ですが何かの供養の為に昔の人が彫ってお供えした物でしょう。当時これを作った人の心の慰めになったのでしょうが、長い年月を経た今でも、この道を通る人々に心の安らぎを与えているのです。」と言った。

「ここを通る人はこの石で作られた仏に祈るのですか?何を祈るのです?」ヘンリはなおも聞いた。

「人それぞれでしょう。今日一日の安全をお祈りする人、また体の弱い子供の平癒を祈る者。また、長い間逢えない人に逢えるようにお願いする者。または先に亡くなった親の魂が天上で安らかである事を祈る者。様々でしょうネ。私などはこれといった具体的な願いをしなくとも自然に手を合わせてしまいます。すると自分の心がとても優しくなるのが解るのです。ヘンリは異国の人だからこんな感情や気分は解らないだろうか?」


そう勇作に逆に問われてヘンリは足元の一尺ばかり(30センチ)の小さな石仏をじっと見た。のみで簡単に彫られた目鼻口元だが長い年月を経て苔や土埃に汚れているにも関わらず、穢れのない無垢な幼子に見える。

ヘンリは跪いて、「君はここを通る人達の悩みや苦しみを長年慰めて来たのかい?」と心の中で聞いてみた。

石仏は相も変わらず黙っていたが、


「そうですヨ、ヘンリ。貴方は今幸せですか?」そう返事をしてくれたような気がした。

ヘンリはまた、「君はここにいて幸せか?」と心の中で聞いた。

「ええ、私はとても幸せです。私の前を通る人は誰もが手を合わせてくれます。そして安心した優しいお顔をなさいます。それで私も幸せな気持ちになるのです。」

小さな石仏はそう答えてくれているようだった。

「そうか、君はこれからも幾十年、幾百年、例えこの僕が死んでこの世からいなくなっても、ここで多くの人達を慰め励まして行くのだろうネ。僕は君に会えて良かったヨ。きっといつか君を思い出す時があるだろう。君も僕を覚えていてくれるかい?」と心で話しかけると、

「はい、私は一度お会いした方の事は忘れません。異国の方、貴方に会えて嬉しかったですヨ。どうかいつまでもお健やかでお幸せにお過ごし下さい。」

そう言ってくれているようだった。

ヘンリはこの石仏一つ一つが話しかければまた、自分に答えてくれるような不思議さを感じた。

ここは本当に不思議な国だ。

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