痛み

 目を覚ますと、私はフローリングの床の上に寝転んでいた。どうしてこんなところで眠っていたのか皆目見当もつかない。蛍光灯の灯りが強く日差しを感じないことから、大分時間も遅くなっていることが伺える。硬い床の上で眠ってしまった為体がいたくて起き上がるのにかなりの時間がかかった。ふと目を動かすと、其処にはキラリと光る刃物が落ちていた。

「ああ、包丁か」

私は昼間に自分がしようとしていたことを思い出した。そうか、私は結局死ぬことができなかったのか。しかし、新たな生命が自分に宿っていることを考えると自分のした選択が間違いではないことを確信した。

「音が聞こえる」

リビングのテレビの声が漏れ聞こえてくる。音のなる方へ、音の鳴る方へ、私は這いつくばってでもそちらへ向かおうとした。

「うっうぇ」

途端、私は急にえずいてしまった。涙が止まらず、自分が一日このテレビから流れる音だけしか人の声を聞いていないことが心に響いた。

「ねえ、ママ立ち直れるかな?」

私はお腹の子供に縋る様に聞いた。子宮の中で子供が頷いた様な気がした。私はお腹の子が大丈夫だよと言ってくれた気がした。少し膨らみ始めた気がする自分のお腹をさすりながら、私は身籠ったことを改めて感じた。この子を必ず産まなくてはならない。

「ママ、強くなるからね」

私は、バイトを始めようと思った。新しく自分で稼ぎながらこの子と二人で暮らす方法がないか暗中模索し始めた。私はスマホを探し出しながら、今の自分にできる仕事は何か考えてみた。この間まで水商売で接客をしてきたのだから、できない仕事はないだろう。そう思いながらスマホの求人情報を眺めていた。平均的に自給は千円ちょっと・・・かなり安いように感じる。やはりまた、お店に入るしかないかもしれない。いや、今回の問題も元はと言えばお店でのことが原因なのだから水商売は絶対にダメだ。何かパートでお金が楽に稼げるものはないだろうか。

「夜勤とかどうかな」

夜勤なら二百円ほどかさましの値段になっている。しかし、この値段で子供を育てるには一体いくつ掛け持ちすればいいのだろうか。一人暮らしは無理だ、誰か私のことを泊めてくれる人でもいればいいんだが。

「お母さんならどうかな」

私は自分の親の電話番号をスマホから探し出し電話を掛けようと思った。が、なんといって言い訳すればいいのか全く思いつかない。夫の浮気を言い訳にしたいが、私のお腹の子のことを持ち出されたら言い訳のしようもない。しかし、バイトだけで生活をやりくりすることなんてできない、三十日連勤なんて私にはできない。考えてもどうしようもないことを一度棚上げにして、私は自分のかなり遅い朝ご飯を作ることにした。冷蔵庫の中に有った材料からカレーを作ることにした。野菜や肉を痛め、全自動のように考えずにカレーを作った。昔よく家族のためにカレーを作ったなーと思いながら、どうしようもない自分の未来に何か絵を描こうとした。私がいてお腹の子が生まれて、私は生まれた子供を温かく懐に抱いている。その時私はどこにいるのだろうか。と、家の固定電話が鳴りだした。

「もしもし、横山です」

私は久しぶりの人の会話に少しの不安と期待を込めて受け取った。

「久しぶり、愛子かしら」

「ええ、お母さん?」

「げんきしてるかしら」

「ええ、大丈夫よ」

「体とか特に変化ない?」

「だから、大丈夫だって」

「うん、春休みの間に遊びに行きたいと思うんだけど開いてる日ある?」

「夫の休日がまだわからないから、また今度折り返し電話するとかでもいい?」

「いいよ、またかけるから」

「そう」

「じゃあ、またね」

「ええ、また」

私は自分の体について、家族の状態について一体何と周りに説明すればよいのだろうか。私は自分の子供をおろす決断をこの時したのである。

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