無題
@aboutkdyla_
第1話
僕には、描きたいものがあった。
僕が油絵科の1年生だったころ、佐伯百合子は日本画科の3年生だった。どこからともなく耳に入ってくる噂で、話したことはなくとも彼女のことはずっと一方的に知っていた。日本画科にとても美しい3年生がいる。美しいけれど他人にはおそろしく冷たいとか、両親を亡くしているとか、高校生の頃は援助交際をしていたとか、教授と肉体関係があるとか、どこまで本当でどこからが嘘なのかわからないような噂ばかりが、彼女の周りには常に煙っていた。僕はそれを、信じるでも信じないでもなく、ただ理解していた。
彼女を大学で見かけたことは二度ある。
一度目は、入学してまもない頃だった。デッサン教室を探し回っていた僕は、知らない間に日本画科の生徒が使う教室まで来ていたようで、教室から出てきた彼女とすれ違った。人伝に聞く噂ばかりで姿を見たことは一度もなかったのに、なぜか佐伯百合子だとすぐに分かった。すれ違う瞬間に見えた彼女の冷たく虚無を孕んだ瞳、意志の強そうな眉、つんとした鼻。全てが非現実的に美しくて、彼女が立ち去った後も僕はそこに立ち尽くしていた。彼女をモデルに絵を描きたい、そうぼんやり思った。
二度目は、彼女の代の卒業制作を見に行ったときだった。日本画科の学生の作品が並び、学生たちが絵の説明をしながら談笑している。彼女の作品は、教室の端にぽつんとあった。純白で大きな百合と、重なりあって眠る男女の絵であった。よく見ると女の頬には涙が、男の瞼は閉じ切っていないように見えた。僕はその絵の前から少しの間動けなかった。その絵には、「百年後、またこの場所で出合う」と名前がつけられていた。
彼女の絵を見たあと、ぼうと熱くなった脳を抱えたまま構内を歩き続けていくと、ぎしぎし、と古びた机がきしむような音が聞こえる。その音がする方へ足を進めていくと日本画科の生徒が使うちいさなゼミ室があった。漏れ聞こえる女の声が、僕をドアの小窓へと引き寄せた。そっと中を覗き見ると、そこには彼女が居た。声の主は彼女であった。僕も何度か見たことがあるデッサンの教授と彼女が重なりあっている。部屋の中は、僕のいるところとは隔絶された別世界であるかのようだった。捲れ上がった彼女のスカートの中を弄る手に吐き気がして、僕は、彼女から漏れ出る声を背にそこを立ち去った。入学してすぐ耳にしたあの噂は本当だったのかと納得して、煙草を二本吸って帰った。
結局、僕は在学中に彼女をモデルに絵を描くことはおろか、モデルを頼むことすらもできなかった。言葉を交わすこともできなかった。その冷たい目で断られたらと思うと、立ち直れない気がしたからだ。
あれから10年後。僕は今、彼女を目の前にして、彼女を描いている。彼女がこちらを向くことはないが、斜め後ろの位置から彼女の表情を覗き見るように、探ってスケッチブックに黒い鉛筆を滑らせる。
大学の頃より痩せたようだったが、美しさは変わらない。それどころかもっと美しく見えた。その冷たい目も、変わっていなかった。その目に射られ殺されてもいいとさえ思った。彼女に殺された男も、同じように思ったのだろうか。
裁判官が判決を言い渡すが、僕にはその意味がよくわからない。傍聴席がざわつき、マスコミが飛び出して行く。彼女の表情は変わらない。法廷から出て行く彼女がこちらを見ることはなかった。僕はせめて、彼女に僕が描いた絵を見て欲しかったと思った。
僕が描いた彼女の絵は新聞に載り、ニュースにも使われた。その絵を見たマスコミから仕事の依頼がたくさん来た。でも僕には、もう描きたいものなんてなかった。
無題 @aboutkdyla_
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